鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

障子の張り替え

2015年09月23日 00時00分01秒 | 紹介

 丁度、生活するには快適な気温と湿度、春と秋は季節の変わり目で、思った異常に短く、春は冬から、秋は夏からの移行時期とはいえ、何処かに前の季節を背負っているし、春は冬の再来があり、秋は夏の再来がある。その変わり目といえば天候と気温であるが、一足先に花や木々は敏感に季節の移ろいを感じているように思える。既に桜の葉は色づき始め、落ち葉も色鮮やかになっている。飼い犬は夏の毛が抜け落ち、冬の毛に変わりつつある。食欲も大食となり、冬を迎える準備なのであろうか、植物や動物は人間以上に季節に敏感なのかも知れない。

 

 毎年正月を迎える前には大掃除をするし、障子の張り替えや庭木の剪定を行っている。業者に頼むほど立派な庭を持っているわけではないし、邸宅に居住しているわけではないが、夫婦二人の住まいであっても、近年は、正月前に行うことを前倒しするようにしてきた。一度に片づけや大掃除をする気力と体力が失せてきたせいかもしれない。秋のこの時期は、近くの散策やちょっと足を伸ばす旅行に行っても最適である。正月の準備である障子の張り替えを行うのには打って付けの季節である。

 

 障子は、1階の座敷と2階の寝室にあるが、トータルすると10枚である。座敷には雪見障子が4枚ある。雪見障子は、上下が別になっていて、下半分は透明ガラスが嵌めてある。作業は1階から始めた。仕事の手順は、どのような仕事であっても、複雑で、手間がかかることから始めるのが王道である。気力の問題かも知れないが、疲れてくると最後に残した複雑な作業は粗くなり、返って時間がかかる物である。普通は遣り易い方から始めることも多いが、経験上からいえば逆の方をお薦めしたい。

 

 雪見障子を取り外すことから始めた。狭い風呂場に障子を持ち込んで、シャワーの水をかける。障子には水溶性のでんぷん糊で障子紙を接着しているので、直接水を含ませる。暫く置いてから2回目のシャワーをかけて障子紙を剥がす。木製の桟(さん)と糊分をブラシで洗う。屋外で乾かす。これで下準備は終了である。後は障子紙を桟に貼り付けるだけである。障子紙は幾つかのタイプがあるが、次年度のことも考えると通常の糊で貼り付けるタイプでよいと思う。障子4枚を貼れる長さで1巻き1000円ぐらいである。ホームセンター等で販売している。

 

 厚手の障子紙を用いる方が、仕上がりが良いようである。カッターと定規がいる。さほど難しくはないので挑戦してみては如何であろうか?


多数決

2015年09月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 以前から疑問に思っていたことに、少数意見を尊重することの重要性が、結果として無視されることに違和感があった。民主主義は多くの異なる考え方を持つ者がいるが、そのことを前提として、多数決は構成員の多数意見に対し、その中で1つに絞る又は集約する意志決定方法である。多数決は、多くの場面で登場するが、決して絶対で唯一の意志決定方法ではない。前提となるルールがあって始めて機能する方法と思っている。

 

 紙面で、ゲームの論をベースに、メカニズムデザインを専門とする慶応大学の教授が提言しているが、多数決は万能ではないとの理論展開をされている。多くの委員会等では議論の場で、進行や取り纏めの役目を果たす座長を決める。意志決定の最終方法として、構成員は座長に一任することがある。これは多数決ではない。多くの場合は、賛否を取る場合には挙手か起立か、投票かの方法で、答えが出される。同数の場合は、座長が判断する場合もあるが、幾つかの意見に分散した場合には、得票数の多い上位2~3件について決選投票などの方法を取る。

 

 多数決が最終的には、異なる意見を排除し、または、譲歩して異論を制するわけであるが、内在する問題として、愚衆政治へ発展する可能性を排除することは出来ない。つまり、烏合の衆化した場面では、集約して決定した1つの意志決定が、目的に対して逆作用となる場合もある。最大多数が結果的に最大幸福とはならないのである。これを防ぐために賛成意見の割合を過半数とはせずに、案件によって、全会一致、2/3や3/4等の賛成を求めることも行われる。ただし、数の論理は、愚衆政治を排除するものではない。

 

 三権分立の中では、立法府であっても、裁判を行う司法の判断を仰ぐことになるが、通常では紛争処理などの場に決定事項が持ち出され、決定した事項が、個人や団体に著しい損害を発生させる等の具体的な損害が発生するなどの場合では司法の判断が優先される。

 

 意志決定は、投票によるばかりはなく様々な方法があるが、多数決が持つ限界も知った上で、活用すべきで、少数意見を尊重することであるが、どのようにそれを担保していくかは常につきまとう問題である。人工知能や蓄積されたデータ解析の導入によって、歴史的な事実が明らかにされるようになれば、案件の処理も投票結果がもたらす影響等について、シミュレーションが可能となり、多数決によらずとも最適解を求められる時代が来るであろう。


敬老の日

2015年09月21日 00時00分01秒 | 日記

平成27年9月20日

 今年からの名称となったのか、シルバーウイークというそうである。4連休は秋のこの時期には夏の疲れを取るのに最適であり、お彼岸との組み合わせで、故郷へ家族連れで帰省される方も多いと思う。幸い18号台風は本土からそれて、今週は晴天の日が続くようである。茨城県や栃木県の豪雨による洪水に見舞われた方にとっては後片付けで連休どころではないであろう。

 

 遠出は道路の混雑が予想されるため、近場の植物園へ女房と出かけた。いつも行く神代植物園である。午前九時に自宅を車で出かけた。途中で、入園に必要なパスポートをうっかり忘れてしまい、取りに帰るには走りすぎたため、入園料を支払うことで目的地へ向かった。車で20分足らずの所である。9時半には駐車場がオープンされるので、それには十分間に合った。駐車している車は僅かであった。

 

 入り口では係員が、今週はシルバーウイークなので、60歳以上は無料とのことであった。生年月日をいうだけで入園することが出来た。ラッキーであった。敬老の日であることを忘れていた。公的機関から優遇されることは殆ど無いが、(知らないだけかも知れない)粋な取扱について笑みが浮かんだ。そういえば、入園者の殆どは高齢者である。子供連れや若者のグループを見ることはなかった。

 

 自分は野鳥の撮影が目的で、女房は野草の撮影であるため、途中から分かれて単独行動である。シジュウカラ。コゲラの声を頼りに高木を探すが、なかなか見いだせなかった。隠し絵とおなじで、野鳥は、保護色が多いためまた、逆光ではシルエットしか分からないために、見つけるのも経験が必要である。シジュウカラは動きが早い。コゲラも高い枝先にいることが多く、それも枯れ枝である。

 

 揚水場近くにある池で水面に映った風景が幻想的であったので暫く撮影を行った。また、多重露出を試みてみた。手作り市が、深大寺参道で行われていて、コーヒーカップに入るぐらいの妖精人形のマリオネットの大道芸人がいた。それの撮影を試みた。満足出来る出来映えではなかったため、今後研究を続けようと思っている。

 

 敬老の日は高齢者の仲間であっても、敬って貰うまでには至っていないが、これからも何かに取り組んでいこうと思った次第である。


安保法案可決

2015年09月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 今朝の早朝に参議院本会議において、安保関連法案12件の法案は、与党と法案に賛同する複数野党の協力を得て記名投票238名の投票により、賛成多数(148票)で可決した。反対デモが国会を取り巻く中、法案反対(90票)の複数野党を制しての可決であったが、後味が悪く、多くの禍根を残す審議であった。事前の報道各社が行った事前調査では、法案に反対する意見が多く、違憲であるとの反対表明は歴代法制局長官や、憲法学者等から出されており、衆参両院における審議も妥協点も見いだせず、政党政治の限界を感じさせるものであった。

 

 投票による法案決定法方は、野党が政権を取っても同様であり、多数政党が有利であることは多数決の根幹であり、それを良しとしてきた国民の支持があってのことと判断せざるを得ない。直接の住民投票ではなく、国政選挙で選ばれた議員が国民の意思を汲んで議会での審議や投票に望むため、少数意見の尊重は建前に終わり、多数決の原則の前には数で負ける。では、デモは何であったのであろうか、現在も沖縄普天間基地移転について沖縄県民を代表する沖縄県知事と行政府との対立が繰り広げられている。

 

 傍目には、地方自治をそれぞれの都道府県首長に与えられているが、国政がそれに勝る権力を持っているので、基地周辺で行われている反対闘争をどのように捉えるかと同類と考えられる。抵抗勢力が如何に強力であったとしても、結果は明白であり、前知事の決定を覆させるだけの法政上の瑕疵があったとは考えられず、不平不満の様相は、限界があることも事実である。

 

 ソクラテスが「悪法もまた法なり」といったとされているが、過去に、多数の意見が法政において必ずしも正しいとはいえなかった事例も散見され、政道を司る為政者の力量は後世において明確になるものである。結論に至る過程は、三権が分立されているため、立法府の議案は二院制による審議の場を踏み、賛否が決まる。多数決が持つ隘路であり、多数決が唯一の意見集約方法であり、決定方法である。少数意見は常に多数意見に凌駕されるのを正道としてきた我が国であり、民主主義の原則である。

 

 何を言いたいかというと、国政選挙に投票にも行かず、行ったとしても、少数政党が煽動し、組織力を持って抵抗する、声が大きければよいのではない。反対意見表明が、全体意見でないことは明白であり、選挙制度を冒涜する行為であるとの見方は果たして間違いなのであろうか、法案に賛成の多数議員が、審議を長引かせる行為など法案反対の抵抗勢力の力に負けなかったことを称讃したい。


微妙

2015年09月19日 00時00分01秒 | 紹介

 文化庁が発表した昨年度の国語に関する世論調査を紙面で見た。言葉のぼかし表現を使用することで、断定を避ける風潮との分析結果である。善し悪しを判断出来ないときに微妙を使い、自分の責任回避には「わたし的には」という。更に、同庁の担当者は、場の空気を読んで、断定を避けようとする風潮が拡がっていると指摘している。

 

 ○○とかぁ、やばい、等の言葉も年代によって普通に使われていて、増加傾向にあるとのことであった。ちなみに「やばい」はとてもすばらしいとの意味で使い、自分の感情を強調するのに便利なようである。

 

 数年前からも紙上で指摘されていたことがあった。「ぜったい」という言葉を、否定的に使うのではなく、肯定的に使われるととまどうこともあったが、この他にもTV放送局のアナウンサーが使っているのはどうも良くないのではとの思いをすることが増えた。年配の女性が敢えて使っていることもあり、余り良い感じはしない。特に相手にしゃべらせないようにと思うのであるが、「~でぇ」いう語尾を上げることが聞き手には耳障りであり、そのような言葉を話す人の話は聞かないようにしている。

 

 漫画の影響かどうか定かではないが、日本語には、男女別々の言葉を持っている。最近は女子中学生や高校生が男言葉で話しているのを耳にすることが多くなった。言葉には流行があり、漫才を演じる役者の真似をする場合もあるが、男女平等とは異なる伝統文化であると思うのであるが、隠語や符丁などと同様に、方言ではないので、流行やすたれがあるのであろう。

 

 言葉は品格を表す場合も多く、家庭の躾も影響する。大人になるに連れて、TPOをわきまえて使うようになるため、そう心配することはないと思っている。最近は言葉の使い方を注意する人も少なくなった。無関心なのか、余分なこととしているのか分からないが、希薄になった人間関係を象徴しているようである。

 

 さて、的(てき)という語尾は、自分に対しては使わないのであるが、的を付けても責任回避とは思われないし、決して断定をたしなめることにはならないのではないか。自分に的を使って、聞く相手が曖昧と捉えるかも疑問である。寧ろ自分を曖昧にすることは避けなければならず、自らを鳥瞰的に捉える意味がよく分からない。自分の持っている行動をまるで他人が判断するように、勝手に、「そういう場所には行かない人」などと話すのはどういう意図があるのか相手の判断への強制のようにも捉えられるのであるが・・・。


技術革新と職

2015年09月18日 00時00分01秒 | 紹介

 

 日経新聞9月15日付朝刊の30面に経済教室という記事欄があり、好んで読んでいる。今回エコノミックトレンドとして、4名の執筆者が月1回掲載することになっていて、第1回目は慶応大学教授の鶴光太郎氏が筆者となっている。テーマは、「技術革新は職を奪うか」についてである。ポイントは、長期的に労働者は不要になるとの警告も、人間と機械は補完的な役割も果たし得る、機械は答え出せても問い発する能力なし」の三点であった。

 

 詳細については新聞を見て頂ければよい。このテーマについては、今後残る3回を読んでみなければ早計な事を申し上げるわけにはいかないが、自らの経験からすると、技術革新が、従来、構築されてきたパラダイムを急激に変換させ、新たなパラダイムが出現するかというと短期的には大きな変換はないであろう。産業革命がそうであったのと同じ経過を辿る可能性は高いが、一部の産業においては急激な変化が起こりえる。

 

 教授がいう技術革新とは、オートメーション、ロボット、コンピュータ、人工知能をいい、これらを纏めて「新たな機械化」と呼んでいる。しかし、これらの技術革新は既に誕生してから相当の時間経過があり、その間に誕生当初とは異なる機能や速度、軽量化等がなされ、日々進化している。その意味ではテーマ自体は目新しいことではない。

 

 職との関係は、当然あると考える方がよく、将来携わる職業の持つ質と雇用可能性は、変化するのは当然であり、職務範囲の拡大、縮小は避けられない。伝統的な産業であってもしかりで、技術は進展するし、新たな技術が常に生まれる。陳腐化した技術は忘れ去られ、あるいは博物館に陳列される。

 

 将来の雇用可能性については、誰しも予想しがたい世界であるため、分野を狭めて考えなければならないが、現在のあらゆる産業で行われていることは基本的なベースであるため、近い将来に劇的に変わることは少ない。徐々に新たな技術は浸透するが、現在に比べ、新技術導入には経済的で、容易であり、品質が高められ、機能が高まる等のハードルがあり、それをクリアされて始めて導入されるものである。職域が狭まるなどの傾向を総てに当てはめて、不安をかき立てる論調は、何時の時代にもあるもので、机上の空論が多いことも確かである。今後のシリーズを読んで確認することにしたい。


彼岸花

2015年09月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 暑さも一段落、朝夕はめっきり秋めいてきた。もうお彼岸の時期に入る。時期を察したように、庭には彼岸花が咲き始めた。曼珠沙華(マンジュシャゲ)ともいわれ、緑の生い茂った庭の片隅を鮮やかな赤色が彩っている。彼岸は、春分・秋分の日を中日として、前後各三日を合わせた七日間をいう。各寺では彼岸会と称した仏事が行われる。煩悩を脱して悟りの境地に達することをいっている。

 

 藤あや子がマンジュシャカと歌っていることを聞いたことがあるが、サンスクリット語でマンジュシャカと言うそうで別段間違っているのではない。マンジュシャゲは、根に毒を持っていて、田圃のあぜ道によく見かけるが、鱗茎という部分の毒が、ネズミ等の動物を避けるため、田圃の漏水を防ぐ働きがある。鱗茎にはでんぷんを持っているため、長く水に曝すことによって毒が消えて食料にもなるとのことで、食糧難の時代には、畑に植えられたと聞いている。原産地は中国で、米作の伝来時に土に紛れて持ち込まれたようである。

 

 つい先だって、お盆の墓掃除に行ってきたが、また出かけなくてはと思っている。先祖や両親の霊に会ってくることにはそれなりの意味がある。供養ばかりではなく、自らも悟りの境地になるよう精進しなければならない。仏教を自分の宗教としているが、普段は全くといってよいほど、仏教徒らしいことはしていない。宗教が生活の場から離れていること自体が問題ではある。檀家ではないため、地元の寺とも余りお付き合いはないが、お寺さんと名字がおなじため、古くから知っているが、先代がなくなって以降、ご子息が、仏教大学を卒業され住職をされている。

 

 地方でも廃寺が増えていることは何度かブログで紹介したが、最近は深刻な問題として、仏教界自体もいろいろと手を打ってきている。しかしながら、宗派間の縄張りが強く、少子化や、人口の都市部集中による檀家制度の崩壊が根本にあるため、そう簡単に話は進んでいないようである。さらに、追い打ちではないが、従来の仏事での埋葬方法も変化が出てきていて、同じ団塊の世代では、散骨や、樹木葬、永代供養等、子供等に面倒をかけたくないとの配慮も影響しているようである。

 

 生活に宗教感が希薄となっていることは、どうしたものであろうか、決して無宗教ではないのであるが、果たして対外的にはどのように映るのであろうか、精神世界は不明な点が多いと思う。特に精神を患う方が増えているといわれるが、ストレス社会の行き着く先を案じているのは自分一人だけではない。


予知能力の向上

2015年09月16日 00時00分01秒 | 提言

 不慮の事故、盗難、詐欺等の人為的犯罪、放火、殺人、自然環境の破壊、爆発事故等の方針や判断の欠如等は人災であり、火山の噴火、地震、台風、豪雨、雷、竜巻、異常気温、等は自然災害に二極二大別することが出来る。双方が関連する治水事業の失敗が、洪水を引き起こし、家屋の流失、インフラの機能不良、死亡者や負傷者、不明者を生む。地震や津波は、想定出来ない巨大化した地震や津波の想定範囲を超えていれば、言い訳となり、免罪符になるのか。火山の噴火は突然噴火し、逃げ遅れた人を犠牲にする。このところの事故の発生は自然災害、人災を問わず、発生しているようである。

 

 自然災害は時間的な周期が過去の発生記録から分かっているが、将来の発生を予知出来ないことは、人知が及ばない部類にはいるのであろうか。人災においても、科学技術や情報技術が発達した現代においても、未解決な分野にはいるのであろうか。最近の報道を見ると、人命救助は大切であるが、事後処理にばかりが目立ち、起こった後に話となる原因の究明や解説が主流であり、予知や再発防止についての対策が、後手に回っていることを憂慮している。常に不安の生活に置かれるのは、平凡な市民であり、大衆である。人命は貧富の差があってはならず、為政者の責任は大きいはずであるが、地位や、権力を手にする一部の人間が、何もしてこなくて私欲を肥やすようでは世も末といわざるを得ない。

 

 情報の発達によって、デマや、ガセネタは影を潜めている。流言飛語が下火になったのはよいことであるが、根拠をはっきりとさせた分析能力の向上が伴っているかと言えば、総じて、不安を増大させるばかりである。曖昧な発言を繰り返している専門家は信用を失う。特に地震や、火山噴火などは予知不能であるとの明言が欲しい。可能性をいえば実際に災害が起きてしまえば、自分が予知したといい、的中しなければ、火の粉が飛ばないように逃げ回る。天気予報ですら、可能性に始終し、明言は避けている。天気予報で最近漸く竜巻注意報が出されるようになった。

 

 確かにオオカミが来るぞと連日叫んだ少年は、数日来ないと村民に嘘つき呼ばわれされ、信用を失うが、暫くしてオオカミが来て村人に危害を与えたという話がある。天気予報も高性能な人工衛星打ち上げで、相当鮮明な画像や精度が高い情報を得ることが出来るようになったと聞いている。多いに活用されることを望んでいるが、火山情報や、地震予知の観測機器はどうしてしまったのか、シェルターを作ることも必要であるが、常に得られた情報のデータ分析が要(かなめ)であり、データを基にした予知能力の精度を上げて貰いたい。頼る術が自分にあれば諦めもつくが、何もしない事によって起こる災害も失策である。失策による責任を放置しても良いはずはない。