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>◆学力と実力がイコールでなかった学校教育
>学力というと、知識量のこととイメージされがちですが、知識の習得それ自体は最終ゴールではありません。>習得した知識を自在に活用して、洗練された問題解決を成し遂げ、よりよい人生を送れる――。>そこまでを視野に入れる必要があります。
そうですね。
>グーグルで検索すれば数秒でわかることを覚えていても、これからの時代は生き抜けません。
人間は、記憶装置の代用品にはなれませんね。
>世界では、未知の状況における問題解決に必要な「資質・能力」(コンピテンシー)を明確化したうえで、学校のカリキュラムや授業、テストをトータルでデザインし直す動きが活況を呈しています。
それならば、現実に密着した教育ができますね。
>新学習指導要領もこの流れの中にあります。>教育に関する主要な問いは、「何を知っているか」から「何ができるか」へと変わり、より詳細には「どのような問題解決を現に成し遂げるか」へと転換されます。
リーズナブルな転換ですね。
>新学習指導要領では、学校教育の守備範囲を「知識・技能」の習得にとどめることなく、問題が起きた場面で効果的に活用する「思考力・判断力・表現力等」にまで高めます。
「思考力・判断力・表現力等」は、どれをとっても日本人には難しそうですね。
現実は、頭の外にある。考え (非現実) は、頭の中にある。
現実の内容は、見ることができる。見ればわかる。考えの内容は、見ることができない。ただの話である。聞き手の理解が必要である。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本語の文章は、現実の内容を示している。非現実 (考え) の内容は、示さない。現実の内容は、本当のこと。非現実の内容は、嘘である。
日本人にとって、考えを述べることは、見てきたような嘘をつくことになる。誰も嘘つきにはなりたくない。だから、考えの内容を発表することは、成り立たない。無哲学・能天気でいる。
判断は、自分の ’あるべき姿’ を基準にとって現実の内容に ‘良し悪し’ の判断をすることである。’あるべき姿’ は、’今はない姿’ である。つまり、非現実の内容である。非現実の内容は、日本語脳裏には存在しない。だから、日本人には判断が難しい。日本人の判断は、ともすれば ‘人 (現実) のふり見て我がふり直せ’ のようなものになる。だから、判断も現実に左右される。気分・雰囲気 (空気) に左右される。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
技術が実学 (現実) であるならば、哲学は虚学 (非現実) ということになる。誰も嘘つきにはなりたくない。だから、日本人には、自己の考えを文章にして表すことが難しい。だが、非言語 (nonverbal) なら日本人にも表現は可能である。だから、細工物の出来栄えは良い。世界の人に愛されて、おかげさまでわが国は、技術立国・経済大国となった。
>さらに、粘り強く問題解決に取り組む力や感情の自己調整能力、複雑な対人関係に対応する力をも含む「学びに向かう力・人間性等」も育成することとしました(図表)。
我々は、考える人になる必要がありますね。人間性も大切ですね。人の死別は、どうしても廃棄処分とは考えられない。
>このような動きに対し、「それは『学力』ではなく『実力』ではないか」という指摘があります。>この指摘は、従来の学校教育が実社会・実生活の問題解決に生きて働く「実力」とは程遠いものを「学力」として育ててきたことを暗に示しています。
従来の学力は、畳水練のようなものだったのですね。
>新学習指導要領における「学力」とは、人生を主体的、協働的、創造的に切り開いていく力のことです。
主体・協同・創造は、日本人には難しい課題ばかりですね。うまくゆくと良いですね。
自分に意思がなければ、主体的に言動することはできませんね。ところが、日本人には意思 (will) がありません。意思は、未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制 (tense) というものがありませんので、未来時制もなく、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見えます。
意思はないが、恣意 (self-will) はある。意思は文章になりますが、恣意はばらばらな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在します。文章にならないものには意味もなく、矛盾も指摘できません。この先が日本独特なのですが、恣意は聞き手により忖度 (推察) されて現実に影響を及ぼすことになる。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話者には責任がない。とかく、この世は無責任。’言った・言わない’ の議論が起こると、どうしてよいかわからない。これは、日本人のお粗末である。日本人は忖度に力を入れる分、それだけ理解はおろそかになっている。歌詠みのようなものか。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思がなければ仕方なく、他者に対して協同作業の提案もできない。だから、主体的であることも協同的であることも難しい。
創造は、非現実の内容を現実の内容に変換することである。日本語脳には、非現実の内容が存在しないから、それを変換して創造することも難しい。
こうして考えてみると、我々は八方ふさがりのようにも思えるが、そんなことはない。英米人は日本語を話しても、日本流の困難には行き当たらない。彼らは英語によって、困難を切り抜けているからである。我々も、英米流の高等教育を受けて教養を着けたら、これらの問題はすべて解決するように思われる。だから、我々の未来は明るい。この道を突き進めば、日本語と英語の二刀流で我々は ‘鬼に金棒’ の状態になる。
>こうした「学力」を小・中・高の12年間を通してすべての子どもたちに計画的、組織的に育成できれば、日本の経済・社会も活性化するかもしれません。
実は最も問題なのは、大学ですがね。
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