>休み方改革を通じて学んだのは、「自ら考え、自ら決定する」ということです。
それは良かったですね。自主的な生活ができるようになったのですね。
>これこそが、働き方改革にも生き方改革にも共通して通ずる、一番の学びであり、今の日本人に最も欠けている姿勢なのではないでしょうか。
そうでしょうね。働き方が変われば、生き方も変わる。
>振り返ってみると、日本の教育において「自ら考え、決定する」ことを学ぶ機会は、少なくとも僕は一度もありませんでした。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。それで、未来時制もなく、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思のあるところに方法・仕方がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人には、方法がない。仕方がないから、無為無策でいる。
>日本の教育は、「決められた答えを導き出すこと」に特化していて、あらかじめ決められた答えをいかに早く導き出すか、それがテストで計測され、それにより偏差値が決められます。
意思決定のない生活は、アニマルの生活と同じですね。アニマルとの差をつけるのは、大変なことです。
>一方で、自ら考えて決定し、そして行動するという能力が培われることはほぼありません。
意思がなければ、責任もない。ちょうど死刑執行人のようなもので、人は死んでも殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。日本人には意思がないから、とかくこの世は無責任となる。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。
>こうして同じ目標に向かって行動することがよしとされた結果、特に何の疑問を持たず高校へ行き、大学に進学し、就活を経て社会人になる。>社会人になってからも、そう。
我々日本人は、考える人になる必要がありますね。そうでなければ、我が国民は、烏合の衆になる。民主主義は、衆愚政治になります。
>もちろん自ら考えることはすると思いますが、「自ら決定する」こと、そして行動することは、サラリーマンではなかなかできないと思います。
そうですね。我々は勤め人の枠にはめられて、なかなか自由を楽しむことはできませんね。
日本人には意思はないが、恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。恣意はどこの国でも認められていない。意思の自由はあっても、恣意の自由は認められていない。それは、’自由のはき違え’ になるからである。意思がない日本人には、(意思の) 自由にも意味がない。’’不自由を常と思えば不足なし’ である。これは、江戸時代と同じ状態である。
>どちらかというと、会社から決められたルールや作法の中で、先輩と同じような仕事の仕方を半ば強要され、前年の実績を超えるためだけに成果を出すように言われ、いかに実績を超えるかだけを考え、寝る間を惜しんで働く。
そうですね。わが国の社会は、序列社会である。ですから、同次元・序列の競争がある。’上とみるか・下とみるか’ の判断を余儀なくされて、向上心がわく。この精神状態を一生涯持ち続けて仕事に精を出す。アリの生活に似たものになります。
>結果、人生のすべての時間を会社に捧げ、気がつくと、いわゆる社畜のような生活をしている。>そんな働き方にあまり疑問を感じず、自然と受け入れている方も多いのではないでしょうか。>僕もかつてはそうでした。
そうですね。意思のない生活は、自然に溶け込んで見えます。
>しかし、自主的に休み方を変えたことで、自ら考え、自ら決定する習慣が自然と身に付きました。
それは良かったですね。自らの手で、人生を切り開くのですね。
>休み方を変えるには、「いかにして全力で休みを満喫するか」を自ら考えて決め、行動に移さなくてはなりません。
そうですね。自主的な生活には、悔いがありませんね。
>そうしないと、週末をダラダラ過ごしてしまい、あっという間に月曜を迎えてしまいます。
そうですね。有意義な週末を送りましょう。
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