gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

永守重信会長

2018-06-20 21:41:59 | 教育


>日本電産の永守重信会長兼社長の理事長就任を機に、大きく変わり始めた京都学園大学(京都市)。

わが国の大学には改革が必要ですね。

>100億円を大幅に超える私財を投じる永守氏が目指すのは、世界大学ランキングで東京大学、京都大学に次ぐ大学ナンバー3の座。

私立ですから、国公立の大学よりも上に行くでしょうね。それは、創立者の魂の違いかな。

>一見、無謀にも見えるが、日本電産を一代で世界No.1の総合モーターメーカーに育て上げたカリスマ経営者は、「実現は十分可能」と自信を見せる。

非現実の内容を現実の内容に変換できれば、創造力を発揮したことになりますね。

>■日本初、モーターエンジニア養成コースも
>「君たちがどこの大学に落ちてここに来たのかは知らないが、落ちたことなんて気にするな」。4月1日、入学式であいさつに立った新理事長は、「永守節」全開で新入生に檄(げき)を飛ばした。

気分・雰囲気の問題ですね。

>(中略)
>永守氏はかねて、電気自動車(EV)やロボットの本格普及などで、近い将来、国内のモーターエンジニアが大幅に不足する事態を予想。>危機感を抱き、14年に私財を投じて「永守財団」を設立。>さらに17年には日本電産が2億円強を寄付し、京大大学院にモーターの寄付講座を開設するなど、必要な人材の育成にいち早く乗り出していた。

大活躍ですね。人材の育成に期待しています。

>(中略)
>理事長就任が決まるや否や、永守氏は正式就任を待たずに始動。>19年度に大学名を「京都先端科学大学」に変えることを決定。>翌20年度にモーターエンジニアを養成するための「工学部電気機械システム工学科」(仮称)を新設する構想を発表した。
>モーターエンジニア養成のための専門学科は全国初という。

独創的なことは、良いことです。大学の月並みには、飽き飽きしている。

>同時に、必要な教員の採用、最新の研究設備の導入などのため、私財100億円以上を寄付することも明らかにした。>改革案には、経営者として世間をアッと言わせてきた永守氏らしい仕掛けやアイデアも盛り込まれている。>一例が、京都府亀岡市にある亀岡キャンパスを再開発し、EVのテストコースやドローンの実験場を建設する計画だ。

教育への投資は、未来社会への投資になりますね。

>「経営者は若者に夢を与えることが大切」と永守氏はその意義を強調する。

日本人の考え方では、’夢は見ることはできるが、触れることのできないもの’ ですね。英米流の夢では、来るべき社会の内容になります。

>(中略)
>その永守氏が教育者として掲げるのが、「偏差値教育の打破」だ。

そうですね。偏差値教育の打破は可能としても、それに代わる教育の創立は難しいでしょうね。それが、わが国に偏差値教育の存在する理由なのでしょう。

>「企業経営者として、日本の偏差値教育の弊害を非常に感じている」と話す永守氏は、持論を一気に展開した。

皆さん同じようなことを言っていますね。偏差値が悪いと。

>「日本電産は毎年、様々な大学から数多くの学生を採っているが、それでわかったことは、仕事ができるかどうかは出身大学の偏差値とは何の関係もないということ。偏差値の低い大学の出身者でも仕事のできる人は多いし、逆に偏差値の高い大学を出ても仕事のできない人は少なくない。昔から薄々感じていたことだが、毎年、何百人という新卒者を採用してきた経験から、今は自信を持って偏差値教育はよくないと断言できる」。

そうですね。偏差値は、仕事ができるかどうかの判定にはなりませんね。だが、文科省主導のこともあり人間序列の判定の方便として庶民に役立っているのでしょう。公の序列を基準にとれば、日本人はそれで黙るからです。

>永守氏はさらにこう続ける。>「一方、偏差値という1つの物差しで入る大学を勝手に決められ、志望する大学に落ちて自信を失い、残りの人生を棒に振る若者は多い。

そうですね。自信喪失は害毒ですね。それというのも大学自体が序列を作っていますからね。それを選ぶ学生にも序列ができる。序列の形成には同次元であることが必要です。ということは、没個性の比較をしなくてはならない。個性の尊重が度外視されているので、わが国の大学は個性的ではなく、個性ある人間が育ちにくい。

>そもそも最近は、いわゆる一流大学には、高いお金を払って塾に通ったり家庭教師をつけたりしないとなかなか入れない状況。>浪人するにもお金がいる。>つまり、いい大学に行くには裕福な家庭の子供が圧倒的に有利。>これはどう考えてもおかしい。

そうですね。それが、処世術というものでしょう。理屈ではない。

>だからこそ偏差値教育は打破するべきだと考えている」。

そうでしょうね。だがしかし、それで日本人の人間序列がなくなるとも考えられませんね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、日本語を話すときには、上下判断が必要です。人間序列があれば、それに従って、日本語を話すことが可能です。なんの間違いもない。ですから、偏差値教育以前にも、我が国に人間序列は存在しました。仕事のできとは関係がなかった。

>入学式で飛ばした檄はこうした考えを反映したものだったのだ。
>(後略)
>※※※引用、以上※※※


.




同じ構図

2018-06-20 17:13:43 | 政治


>『日大アメフト部と全く同じ構図の安倍政権の終末(リンク)』より転載します。

わが国は、すべて日本流の構図で成り立っていますからね。

>開き直り、悪びれず、反省もない。

日本人には、意思がない。意思がなければ、加害者意識もない。罪の意識もないから、悪びれしない。
意思は、未来時制の文章内容であり、日本語には時制というものがないから、日本人には未来時制もない。だから、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。

>謝罪の誠意がないなど、人間性を疑う奴らが日本の中枢にいる。>麻生も福田も己の自我暴走からの醜聞を認めようとしない。

意思がなければ、罪の意識もない。罪の意識のない人に謝罪を強要すれば、それは自虐行為を勧めることにしかならない。

>残る力の序列の最後のあがき。

日本人の価値観は、力関係に依存している。その場の序列関係を覚えれば、万事、用が足せる仕組みになっている。

上限彼刑を考える。

意味不明

>しかし、逆に、彼らが悪いと体制批判に明け暮れるマスコミや意識高い系人間も同じ狢だ。

そうですね。ムジナは日本語脳の持ち主ですからね。

>破壊しつくす彼らの行為は、双方とも許しがたい。>世の中腐りきった人間が多すぎる。

腐りきった人間は、日本語の特性に関係があるのでしょうね。

>若手からこの世界の外に新しい場を作り上げるしかなさそうだ。

そうですね。そうできると良いですね。しかし、日本人には世界観 (world view) がないから、新しい世界の内容を発想することは、相当に難しくなりますね。できた内容が、嘘っぽくなります。
>------------------------
>若いころ、モノを届けるように上司から言われたことがあった。>50キロほど先であるが、30分以内に届けろと言うのであった。>100キロで走らなければ時間内に届けられない。>相当なスピードで出かけたが、案の定スピード違反で捕捉された。>上司も届け先も誰も責任とってくれない。

とかく、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>若造の私個人が切符を切られて違反金を払った。>スピード違反しなければ命令は守れなかったのであるが、上司はスピード違反までしろとは言わなかった。

‘違反をせよ’ と上司は言いませんね。ただ、’がんばって’ と部下を励まします。心優しい人たちばかりです。

>私が勝手に忖度した結果である。

そうですね。忖度 (推測) は、聞き手の勝手な解釈ですから、話者には何の責任もありませんね。とかく、この世は無責任です。

>同様のことが、日本大学と関西学院大学のアメリカンフットボール戦で起きた。>昨年全国制覇を成し遂げた日大の内田正人監督は、相手を徹底的に壊して来いと選手に檄を飛ばしている。

日本語の特徴は、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。これに対する英語の特徴は: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。日本大学の選手は、どちらの規則で教育されていたのかな。監督は、日米の格差に悪乗りしているのでしょう。つまり、日本語の特徴を利用して檄を飛ばし、英語の特徴を利用して自己防衛をしている。。監督は、犠牲者が誰になるのかをご存知か。

>監督は反則までしろは言ってない。>ルールに基づいた指導をしていたというのである。

確かに、’反則しろ’ という指導は監督にはありませんね。

>日大は関西学院の質問に対して、選手が指導を越えた行為をしたという回答をしている。

気分・雰囲気に酔って、選手が調子に乗りすぎたということですか。私は、深い海の底に住む貝になりたい。

>相手選手に厳しく対応した選手は、監督の意向を忖度したのだろう。>内田監督は日本大学の常務理事でもある。

そうでしょうね。序列観念は、わが国においては強迫観念にまで高められています。人を見損なってはいけないからです。序列作法を誤れば、礼儀正しい日本人にはなれません。

>これと全く同じ構図が、安倍政権の全くくだらないダラダラと続く小事にみることができる。

これは、日本人の日常ですね。

>官僚も政治家も地方の木っ端役人もが、寄ってたかって権力に忖度している構図が、森友学園・加計学園問題の本質である。

‘身を立て・名を上げ・やよ励めよ’ という歌に皆が合わせているということでしょうね。

>首相夫人や腹心の友のお気に入りにならなければ、出世はできないし、政治家にもなれない。

事大主義ですね。(一定の主義を持たず、勢力の強大なものに付随して自己の存立を維持する主義)

>忖度の裏には、内閣人事局の設置があり、小選挙区制の導入による自民党内が硬化し安倍一強に疑念を持ちながらも、論議すらできず自浄能力を失った姿がここにある。

議論のできない議員とは、不甲斐ないものですね。これでは、わが国に自浄能力はない。

>そして、お上に盾突かない日本の精神文化は、長い時間で培われたものである。

そうですね。日本人は、議論ができない。だから、盾突くことも難しい。

>お上に忖度することに抵抗がない日本人の感性は、巧みに現代社会に入り込んでいると言える。

そうですね。日本人には、リーズン (理性・理由・適当) がない。自己のリーズンを説明することに熱意を燃やす者もいなければ、相手にそれを求める者もいない。理不尽な世界です。

>安倍晋三は人事権を背景にそれを利用しているんである。

そうでしょうね。彼は、立身出世の源ですからね。

>森友加計問題は、日を追って疑念が深まり、虚偽答弁を重ねて説明が繰り返され、また新たな事実が噴出し、疑念は深まり調査中とする案件ばかりが増えている。>どうしてこうなったのか? >答えは簡単である。>森友加計学園問題は、国民のだれもが知っていて、事実関係の究明もほとんどなされているが、唯一その渦中のど真ん中の安倍晋三がこれを認めようとしていないだけなのである。

日本人には、意思がない。自他ともに意思の存在を認めることができない。意思のない人に責任がない。すると、責任だけが独り歩きする。それが、この国の残酷物語を生むことになる。肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

>膿が自分であることを知ってはいるが、認めようとしないのである。

自分が膿であることを知るためには、意思のある人間であることが必要ですね。しかし、日本人には意思がない。だから、加害者意識もない。日本人は、罪の意識のない大人である。だから、自他ともにどうしようもない。このような大人を見るにつけても、恨めしい。化けて出るのは、この国の陋習か。



.