>日本電産の永守重信会長兼社長の理事長就任を機に、大きく変わり始めた京都学園大学(京都市)。
わが国の大学には改革が必要ですね。
>100億円を大幅に超える私財を投じる永守氏が目指すのは、世界大学ランキングで東京大学、京都大学に次ぐ大学ナンバー3の座。
私立ですから、国公立の大学よりも上に行くでしょうね。それは、創立者の魂の違いかな。
>一見、無謀にも見えるが、日本電産を一代で世界No.1の総合モーターメーカーに育て上げたカリスマ経営者は、「実現は十分可能」と自信を見せる。
非現実の内容を現実の内容に変換できれば、創造力を発揮したことになりますね。
>■日本初、モーターエンジニア養成コースも
>「君たちがどこの大学に落ちてここに来たのかは知らないが、落ちたことなんて気にするな」。4月1日、入学式であいさつに立った新理事長は、「永守節」全開で新入生に檄(げき)を飛ばした。
気分・雰囲気の問題ですね。
>(中略)
>永守氏はかねて、電気自動車(EV)やロボットの本格普及などで、近い将来、国内のモーターエンジニアが大幅に不足する事態を予想。>危機感を抱き、14年に私財を投じて「永守財団」を設立。>さらに17年には日本電産が2億円強を寄付し、京大大学院にモーターの寄付講座を開設するなど、必要な人材の育成にいち早く乗り出していた。
大活躍ですね。人材の育成に期待しています。
>(中略)
>理事長就任が決まるや否や、永守氏は正式就任を待たずに始動。>19年度に大学名を「京都先端科学大学」に変えることを決定。>翌20年度にモーターエンジニアを養成するための「工学部電気機械システム工学科」(仮称)を新設する構想を発表した。
>モーターエンジニア養成のための専門学科は全国初という。
独創的なことは、良いことです。大学の月並みには、飽き飽きしている。
>同時に、必要な教員の採用、最新の研究設備の導入などのため、私財100億円以上を寄付することも明らかにした。>改革案には、経営者として世間をアッと言わせてきた永守氏らしい仕掛けやアイデアも盛り込まれている。>一例が、京都府亀岡市にある亀岡キャンパスを再開発し、EVのテストコースやドローンの実験場を建設する計画だ。
教育への投資は、未来社会への投資になりますね。
>「経営者は若者に夢を与えることが大切」と永守氏はその意義を強調する。
日本人の考え方では、’夢は見ることはできるが、触れることのできないもの’ ですね。英米流の夢では、来るべき社会の内容になります。
>(中略)
>その永守氏が教育者として掲げるのが、「偏差値教育の打破」だ。
そうですね。偏差値教育の打破は可能としても、それに代わる教育の創立は難しいでしょうね。それが、わが国に偏差値教育の存在する理由なのでしょう。
>「企業経営者として、日本の偏差値教育の弊害を非常に感じている」と話す永守氏は、持論を一気に展開した。
皆さん同じようなことを言っていますね。偏差値が悪いと。
>「日本電産は毎年、様々な大学から数多くの学生を採っているが、それでわかったことは、仕事ができるかどうかは出身大学の偏差値とは何の関係もないということ。偏差値の低い大学の出身者でも仕事のできる人は多いし、逆に偏差値の高い大学を出ても仕事のできない人は少なくない。昔から薄々感じていたことだが、毎年、何百人という新卒者を採用してきた経験から、今は自信を持って偏差値教育はよくないと断言できる」。
そうですね。偏差値は、仕事ができるかどうかの判定にはなりませんね。だが、文科省主導のこともあり人間序列の判定の方便として庶民に役立っているのでしょう。公の序列を基準にとれば、日本人はそれで黙るからです。
>永守氏はさらにこう続ける。>「一方、偏差値という1つの物差しで入る大学を勝手に決められ、志望する大学に落ちて自信を失い、残りの人生を棒に振る若者は多い。
そうですね。自信喪失は害毒ですね。それというのも大学自体が序列を作っていますからね。それを選ぶ学生にも序列ができる。序列の形成には同次元であることが必要です。ということは、没個性の比較をしなくてはならない。個性の尊重が度外視されているので、わが国の大学は個性的ではなく、個性ある人間が育ちにくい。
>そもそも最近は、いわゆる一流大学には、高いお金を払って塾に通ったり家庭教師をつけたりしないとなかなか入れない状況。>浪人するにもお金がいる。>つまり、いい大学に行くには裕福な家庭の子供が圧倒的に有利。>これはどう考えてもおかしい。
そうですね。それが、処世術というものでしょう。理屈ではない。
>だからこそ偏差値教育は打破するべきだと考えている」。
そうでしょうね。だがしかし、それで日本人の人間序列がなくなるとも考えられませんね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、日本語を話すときには、上下判断が必要です。人間序列があれば、それに従って、日本語を話すことが可能です。なんの間違いもない。ですから、偏差値教育以前にも、我が国に人間序列は存在しました。仕事のできとは関係がなかった。
>入学式で飛ばした檄はこうした考えを反映したものだったのだ。
>(後略)
>※※※引用、以上※※※
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