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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

立身出世

2019-01-14 14:11:45 | 教育

>■被仰出書と個人の出世
>学制が公布されたのと同時に被仰出書(おおせいだされしょ)と呼ばれる文書が出されていたのですが、その文章というのは簡単に説明すると「学問に励めばあなたも将来出世して豊かになれます」という期待感を抱かせる内容です。

被仰出書は、‘序列順位昇進の夢’ を抱かせるものですね。

>学制が始まる前の日本国では、学問というのは個人の出世の為ではなく国(藩)のために行うものだとされていました。>それも支配階級だけに必要とされ、大多数の庶民には基本的には必要とされていなかったのです。

そうですね。藩校が設立されましたね。

>また江戸時代までは日本は身分社会であり、武士の子供は武士で農民の子供は農民だったので例外的な場合を除いて立身出世の意欲など持つ意味がありませんでした。

家元制度ですね。今でもこの排他的制度は残存していますね。

>しかし学制は国民皆学を実現させることを目的とした制度ですので、今までのように一部の人や支配階級の人間しか学ばないという事態になっては困ります。>そこで、被仰出書にある「学校で勉強すれば貧しい家庭のあなたでも将来豊かになれます」という立身出世の思想を全面的に国民に布教し始めたのです。

‘小さいからだに、大きな望み’ ですね。学校では、’身を立て 名をあげ やよ、励めよ’ と歌わせる。

>学制自体がもともと西洋諸国の義務教育制度が元になっていることはお伝えしましたが、その中には個人主義というものが関わってきており、個人の繁栄・成功は国家の発展につながるという思想がありました。

日本人は、思考停止の状態にありますね。ですから、個性がない。没個性的であることは、アニマルと似たようなものです。
西洋人は、考える人ですね。考える内容は、一人一人違っている。だから個性的になる。個人主義というものが理解されている。

>逆に言うならば学校で勉学に励んでいれば将来出世できるという思想を国民に植え付けない限りは、殆どの家庭が子供を学校に通わせるような事は有り得なかったと言えるでしょう。

そうですね。没個性的でありながら、’頑張って、頑張って’ というわけですね。個性的な考えの内容よりも、没個性的な序列順位の方が大切でしたね。この方が無哲学・能天気の人々には、わかりやすいものです。
ただ今の日本は、深刻な人手不足である。だが、頭脳不足であるという話は、ついぞ聞いたことがない。きっと日本人は、目先・手先の仕事に神経を集中しているのでしょうね。個性的な考えは、天下の秀才たちには無縁なものになっているのでしょうね。

>そして、この立身出世主義の布教に加えて国民が負担していた授業料の金額を徐々に減額・無償化するなどしてようやく日本の就学率は上昇し始めたのです。

こうした日本人の序列メンタリティ (考え方) は、おいそれとは治りませんね。敗戦により、この国がひっくり返っても、羹に懲りて膾を吹いても、階称 (言葉遣い) に基づいた序列メンタリティは治りませんね。新憲法の前文には、’….国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ とちゃんと書いてある。これが日本人の根深い序列メンタリティ問題の一端をのぞかせているであることを意識している日本人は少ないでしょうね。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ればわかる。正解は、ただ一つである。だから、現実の内容は、受験勉強の好教材になっている。
非現実 (考え) は、頭の中にある。この内容は、見ることができない。わかるためには、理解が必要である。人人により、考えは違う。正解は多数ある。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。矛盾を含む文章も、その矛盾を除去すれば、正しい考えになる。だから、討論は有用である。
非現実 (考え) の内容を表す文章には、時制 (tense) というものが必要である。英文法には時制があるので、英米人は自己の考えを表明することが可能である。日本語文法にはない。だから、日本人は、自分の考えを表明することが難しい。そして、勢い現実の内容だけを述べることになる。これを ‘浅はか’ という。

(略)


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人見知り

2019-01-14 05:00:23 | 日本語脳


(略)
>■自分の立ち位置がわからないと話せない日本人
(略)
>例として挙げられているのが >・大多数のパーティーでは、日本人は立ち往生してしまう。>見知らぬ参加者たちがパーティー主催者とどういう関係でどういう立場かわからないから。>・名刺をもらって相手の立場がわかると、とたんに話せるようになる >なるほど、とても納得します。
>■立ち位置がわかれば空気が読める
>そうすると、「なんで立ち位置がわからないと話せないのか」って疑問に思いますよね。

日本の (高文脈) 文化では、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達します。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。日本語は、曖昧な言語ですからね。日本人の言葉は、情報収集の目的のためにあまり頼りになりません。ですから、言葉以外のものに気を配る必要があります。

>それは、「自分の立ち位置がわからないと空気が読めないから」じゃないかなと思います。

ドイツのような (低文脈) 文化の国では、伝達される情報は言葉の中で全て提示されます。ですから、人々は、言葉の内容に注意を集中させています。そうしたら、有意義な会話が可能になります。

>上の例でいえば、友だちのホームパーティーに行ったら、知らない人ばっかりだった。>主催者の友だちは他の人と話していて気を利かせてくれない。>さて自分はだれとなにを話せばいいのか。>わからなくて立ちすくんでしまう。>そんな感じでしょう。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>でもそこで、「このグループはみんなわたしの後輩なの」と言われたら、「じゃあ自分より年下だな」と位置づけができますよね。

そうですね。‘上とみるか・下とみるか’ の判断は、日本人にとって大切ですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。上下判断が疎かであっては、日本語による正しい発言も不可能になります。礼儀正しい日本人にもなれません。日本人の礼儀作法は、序列作法になっているからです。人を見損なってはいけない。上下判断は、日本人の強迫観念にまでなっています。

>「この子はあなたと同じ横須賀出身よ」と言われたら、「横須賀の話をすればいいんだな」とキッカケがつかめます。>相手に関する情報を得て立ち位置を把握したら、空気が読めるようになるんです。

必要な情報は、自分自ら獲得するように心掛けると良いですね。それにしても、日本人には意思がない。’自ら’ がない。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。
英語には、時制がある。だから、英米人には意思がある。そして、彼らは積極的である。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がないので、仕方がない。無為無策でいる。

>年上だから敬おう、友達の後輩なら面倒を見てやろう、肩書きが上だから丁寧に話そう、みたいな。>でも相手に関してノーヒントだと、読むべき「空気」が形成されていません。>だから「なにをどう話していいかわからない!」っていう人が多いんじゃないかな。

そうですね。会話の内容が、常に状況的 (situational) になりますね。哲学的 (philosophical) にはならないですね。日本人は、ナウな感じのする人間です。日本人は、無哲学・能天気ですからね。

>■空気を判断するまでの時間稼ぎが「人見知り」
>「この人と自分はお互いどういう位置に立って話すべきか」が決まらないと、その間に流れる「空気」もよくわかりません。>だから、とりあえず「空気」が形成されるまで様子見をする。

そうですね。日本人は、空気に左右されますね。判断する時に気分・雰囲気の影響を受けやすいですね。’わたくし’ か、’わたし’ か、’わし’ か、僕か、俺か、拙者か、いろいろと考えることが沢山ありますね。

>この「様子見」期間を、日本人の多くは「人見知り」という言葉でごまかしてるんじゃないかと思います。

そうかもしれませんね。

(略)
>自称・人見知りでも、接客業をしてる人はたくさんいます。>それは「店員」と「客」という立場がわかっているから話せるんじゃないかと思います。

そうですね。お客様には、他人行儀で話せばよいですね。


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