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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

内向き・外向き

2019-01-28 17:59:54 | 言語

(略)
>高齢者などを見るとこの傾向は顕著で、集会所でも、街中でも、おばちゃん軍団は元気でパワフルに社交を楽しんでおり、夫との死別後はますます意気軒昂という人も少なくない。>そうしたご婦人方に「ご主人は」と尋ねると、たいてい「亡くなった」「家にいる」「たまに図書館に行く」という答えが返ってくる。

これらは、ありふれた光景になっていますね。

>年を経るごとに男性は、「内向き」の力が働きがちになる一方で、女性は遠心力が働くように、どんどんと「外向き」になり、つながっていく印象がある。

印象派の説明ですね。

>こうした傾向について、男性更年期など「メンズヘルス」に詳しい順天堂大学の堀江重郎教授は女性セブンで、

>「(男性は)獲物を追い、自分を認めてもらい、獲物を仲間に与えることで男性ホルモンは活性化する。>狩りは、今の社会で言えば“仕事”。>引退後、その狩りをしなくなると男性ホルモンの分泌は減少し、意欲と筋力が低下し、いつも家にいる」
>「女性ホルモンは自分の周囲をケアするように働くが、閉経により減少すると、もともと持っていた男性ホルモンが優位になり、外へと目が向く。>閉経後の女性はどんどん外出し、社交的に振る舞うように設計されている」

>といった趣旨の解説をしている。>まさに内向き、外向き説はホルモンによっても説明できるということのようだ。

ホルモンの傾向で説明すれば、そういうことになりますかね。

>これ以外にも、「オジサンの孤独」には社会的、文化的、生物学的なさまざまな要因が絡み合うが、中高年男性を孤独に向かわせる1つの価値観に、冒頭に挙げた「恥」というものがあるように思う。

恥は、日本独特なのでしょうかね。

>恥についての論考はアメリカの人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』が有名だ。>ベネディクトはキリスト教的な価値観に基づき、自分の内面に善悪の絶対の基準を持つ西洋の「罪の文化」に対し、他者からの評価を基準として行動が律されている「恥の文化」を対比させた。

日本人には、罪がない。だから、恥が全てになる。
日本人には、意思がない。だから、加害者意識もない。あるのは、被害者意識だけである。加害者意識がなければ、罪の意識もない。
一方、日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから、’上とみるか・下とみるか’ の判断は始終欠かせない。日本人の礼儀作法は、序列作法になっているので、上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人にもなれない。人を見損なってはいけないということで、(責任の上下関係には関係のない) 世俗的序列意識は強迫観念の域にまで達している。序列観念の不行き届きは恥となる。

>要するに「自分の良心に照らして、それが正しければ、ほかからどう見られようと気にしない」という西洋の価値観に対して、「他人や世間からどう見られるのか」ということを極度に気にし、それによって行動を制するのが日本の流儀ということになる。

そうですね。西洋人には、自分自身の ‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容があるので、判断基準にそれを使えばよい。日本人には、自分の基準がないので、他人の基準に頼らなくてはならない。それで、極度に気にする事柄を抱えている。

>筆者は長年、エグゼクティブに対するコミュニケーショントレーニングをなりわいとしてきたが、日本企業における「リーダーシップ」、つまり、「できる男のイメージ像」というものも、この「恥」の価値観に立脚しているところがあると実感する。>正確性、緻密性が何よりも重んじられ、失敗や間違いを極端に恐れる無謬主義、減点主義の風土の中で、間違いを犯してはいけない、弱さを見せてはいけない、恥をかいてはいけない、と自分を律しがちになる。

日本人には世界観がないので、その代わりに細かいことにはトコトン神経を集中させていますね。

>他人からの視線を気にして行動を制する「恥」の概念は、「恥を知る」といったように、日本人独特の道徳性を支えてきたともいわれる。

‘上とみるか、下とみるか’ の判断は、自国の言語に階称 (言葉遣い) のある国民 (日本人・韓国人) にはつきものでしょうね。’恥’ は、序列道徳の支えとなっているようですね。

>しかし、そこにとらわれすぎれば、男女を問わず、人との交友関係を広げよう、何か新しいこと挑戦しようという方向にベクトルは振れにくくなる。

そうですね。社交の拡張に問題をきたしますね。

>「恥をかきたくはない」と体面にこだわる人と、恥ずかしい姿をさらけ出せる人。>どちらが共感を集めやすいか、仲間を作りやすいかは火を見るより明らかだろう。

気さくな人と、そうでない人との違いですね。

>恥や共感の研究で有名なアメリカ・ヒューストン大学のブレネー・ブラウン教授の考察が非常に興味深い。>ブラウン教授はTEDトークの中で、こう指摘した。「人との関係をこじらせることへの恐れが『恥』」であり、「男性にとって、『恥』とはすなわち、弱く見られたくない。>これに尽きる」と。

軍事大国の見せる励みのようなものですね。

>一方で、人と心を通わせることのできる人に共通するのは、「自らのもろさや弱さ(vulnerability)をさらけ出すことをよしとしている」点であると述べている。>つまり、弱く、不完全な自分を認め、受け入れ、さらけ出す勇気、恥をかく勇気こそが、人とのつながりの第一歩であるということだ。

平和国家のようなものか。恥はかき捨てにする。

>「強さを誇示することが本当の強さ」ではない。>「自分の弱さを認める強さ」こそが、孤独や生きづらさを解消する生き方のカギとなるということなのだろう。

そうでしょうね。やせ我慢をするのは、身体に良くないですね。


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精神性

2019-01-28 10:50:16 | 言語

(略)
>ここで「東洋思想とはどのようなものか」をきちんと定義し、解説しておきましょう。>私の言う東洋思想とは「儒教、仏教、道教、禅仏教、神道」の五つの思想を指しています。>日本に八世紀以上存在し、精神性や風土に根づき、息づくことで、私たち日本人の暮らしの根源となっている「知的資源」と呼べるものです。

道教は中国、神道は日本でしょうね。東洋とは、トルコ以東のアジヤ諸国の総称ですか。

>これら東洋思想に共通する特性を、近代西洋思想と対比すると、両者がいかに「相補い合う関係」にあるのかがはっきりと見えてきます。

それほどハッキリしているでしょうかね。相補う関係は、わが国内に限ったことではありませんか。

>西洋は「外側にある(すなわち、誰もが見ることができる)真理に迫っていく」という真理探究方式を採る一方、東洋では「自分の中にある仏性、神的性に迫っていく」という真理探究の方式を採ります。

現実は、頭の外にある。その内容は見ることができる。一方、非現実 (考え) は、頭の中にある。これは、見ることができない。目で見ることができる内容は、’本当のこと’ である。見ることのできないものは、’嘘’ である。

>西洋思想では、どちらかと言えば「外側」に関心の中心が置かれ、「誰でも理解できること」「普遍性」を重視し、モジュール化に適しています。

西洋思想は、非現実 (考え) であり文章内容であります。その内容は見ることができません。ですから、理解しなければわからない。外側しかわからない日本人たちには理解が難しい。

>反対に、東洋思想では「自分の心の中」に関心が向けられます。

日本人は、非言語の事柄に関心がありますね。非言語の内容は、文書を理解する方法ではどうにもならないでしょう。

>自己の内なる仏や神に気づくこと、自己の仏性、神的に目覚めることを重視します。>それだけ精神性に富んでいるということです。

日本人は、忖度 (推察) の内容を重視しているのですね。精神 (非言語) の内容は、誰にも理解不能です。

>西洋…外側にある対象に向かう

日本人の西洋観は、外側にあるもののみを対象としています。西洋人の内側にあるものは文章内容ですから、日本人に一切無視されています。

>東洋…内側にある対象に向かう

日本は高文脈の文化 (high context culture) ですから、文章内容で考えを表すことはできません。ですから、日本人は、相変わらずの無哲学・能天気であります。

>このように、まさに正反対だからこそ相補の関係に成り得るのです。

言語と非言語は補完関係になりますかね。なるとすれば、それは、高文脈文化の中でのみ成り立つのでしょうね。世界の大勢は低文脈文化ですから、西洋・日本の相補関係は難しいでしょうね。

>180年前の幕末の思想家佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸(技術)」という言葉で、両者を対比し、その特性の違いを見事に表現しました。>東洋は『精神』領域に長けているので、そこに資する知見を提供すべきであり、西洋は『技術』において一日の長がある。

わが国の ‘精神’ は ‘非言語’ と置き換えることができるのではないでしょうか。西洋の技術は、言語に基づく技術でしょう。言語に基づく内容は伝搬が比較的容易です。わが国の技術は言語に基づかないので、世界への伝搬が非常に難しいのではないでしょうか。

>佐久間象山は「両者の得意分野を融合して使うべきだ」と言っているのです。>まさに「西洋と東洋の知の融合」です。

言語と非言語の知識の融合は、易しいものではないでしょうね。「西洋と東洋の知の融合」は、日本人向きでしょうね。

>『なぜ今、世界のビジネスリーダーは東洋思想を学ぶのか 史上最高のビジネス教養「老子」「論語」「禅」で激変する時代を生き残れ』文響社 >田口氏は本書の中でこう語る。

日本人は、’老子’、’論語’、’禅’ の書物を忖度 (推察) の手助けとして利用しているのではないでしょうか。もしもそうであれば、低文脈文化 (欧米) の人々には、役立たないでしょうね。

>『今、世の中では盛んに「イノベーションが必要だ」と叫ばれています。>では、どんな人からイノベーティブなアイデアは生まれてくるのでしょうか。>誤解を恐れずに言えば、それは「楽しんでいる人」であり、「遊び半分の人」であり、「無駄なことをしている人」です。』

改善は、人生を楽しんでいる人から生まれるのですね。無哲学・能天気な日本の大学生と違いますか。楽しみに反対ではありませんが、建設的なことも必要ではありませんか。

>それを表す言葉が老子にあるという。>『《有を以て利を為すは、無を以て用を為せばなり》>目先の利益で有用・無用を決めつけてはいけない。>今は無用に思えても、先々で必要になることもある。>何の役にも立っていないようでも、見えないところで大事な役割を果たしているものもある。

それは、そうですね。

>「無用の用」ということをよく考えなければいけない』>「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語が、「無門関」の第一則にある。>山田無文老師は真の「遊戯三昧」の境地をこう教えている。>「働くことがそのまま遊びなんです。人のためにすることがそのまま遊びなんです。苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」

これでは、人間は他の動物たちと同じですかね。新しい形の未来社会の建設を楽しみにする必要があるのではないでしょうか。

>『人生最大の幸福は「職業の道楽化」にある』と言ったのは本田静六氏。>職業の芸術化であり、趣味化であり、ゲーム化であり、スポーツ化である。>東洋思想を更に深く学びたい。

非言語の文化ですね。芸術家の生涯ですかね。


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