>342518 「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然 なぜ、日本人は論理的な文章を書けないのか1 >吉 四六 ( 大阪 会社員 ) 19/01/15 PM09 >リンク
>日本人は論理的に文章を組み立てるのが苦手だと言われる。>上智大学で教鞭をとる奈須正裕教授が歴史をひもとき、教育的帰結として生まれた「作文下手な日本人」を浮き彫りにする。>よく、日本人は論理的に思考したり表現したりするのが苦手だと言われる。
そうでしょうね。日本文化のような高文脈文化 (high context culture) の特徴は、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達すること。重要な情報でも言葉に表現されないことがあります。
>実際、大学で教鞭をとる筆者がアメリカに送り出した留学生の中にも、最初に提出したエッセーに対して「論理性が欠如している」と評され、他の国や地域から来た学生たちと同じスタートラインにつくのに随分と苦労したと訴えた学生がいた。
日本人がアメリカのような低文脈文化 (low context culture) の国に留学したら、伝達される情報は言葉の中で全て提示されることを要求されます。ですから、勉学に破綻をきたします。それで、留学に人気が出ない。
>その原因については、長年にわたり日本が多文化性の比較的低い国であったこと、以心伝心や「空気を読む」ことをよいこと、または当然のことと考え、期待する文化的風土などから、論理明快に自分の意見を述べる必要が少なかったからではないかとも言われる。
そうですね。日本人は、忖度 (推察) を発達させていますね。何よりも文章を大切にするという習慣がないですね。必要があっても、文法上の制約もありますしね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
意思は、未来時制の文章内容ですから、単語のやり取りでは成り立ちませんね。単語のやり取りは、文章のやり取りとは同等にはならない。文章には、意味・意義がある。単語には、それがない。だから、単語を発声したら、’それがどうした’ と問われることになる。日本人は、これに答えられない。だから、日本人は論理的に文章を組み立てるのが苦手だと言われる。自己の意味・意義を表現するには、自己の文章にして語ることが必要であります。
現実は、頭の外にある。非現実 (考え) は、頭の中にある。現実の内容は、見ることができる。見ればわかる。考えの内容は、見ることができない。その内容は、単なる話である。話が分かるためには、文章を理解する必要がある。だから、英米流の高等教育が必要になる。
バラバラな単語では、自己の考えを表すことができない。考えを表すためには、時制のある文章を作らなくてはならない。だが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、作文下手になる。
時制のある文章により表現される世界は、過去・現在・未来の独立した三世界に分かれる。The sequence of tenses (時制の一致) という文法法則があって、各々の世界の内容は交じり合わないようになっている。前世・現世・来世の内容が交じり合わないようなものである。
これらの三世界について考えると、世界観になる。それぞれの世界の内容を考えると、世界を客観的に見ることができる。評価・批判も可能になる。自己の考え (非現実) がはっきりしていれば、手段の目的化という泥沼も避けることができずに自滅します。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>思考は言語に依存するという考えから、日本語の特質に由来するとの見方も少なくない。>たとえば、語順によって意味が決まる英語のような「孤立語」と違い、日本語は「膠着語」であり、助詞によって意味が決定されるため、語順の自由度が高く、それが曖昧性を生み出しているのではないか。>あるいは、日本語は述語が最後に来る「文末決定性」という特質を持つので、肯定か否定か疑問なのかが最後までわからない。>このことが、明確な主張を持たずとも、とりあえず語り出すことを可能にし、それが論理の明晰さや一貫性を欠くことの遠因ではないか、というのである。
>なるほどと思うし、ほかにも考えられる要因はあるだろう。
バラバラな単語 (小言・片言・独り言) は、とりあえず語りだすことを可能にしていますね。ですが、いつまでたっても論理的な自己主張にはならない。三歳児の悩みのようなものか。歌詠みになるのか。
(略)
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