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仮説と真実

2019-01-29 01:55:57 | 教育

>学校における生徒の主な課題は、授業・宿題・テスト。>授業の内容や、教科書に書かれている内容を覚えることが第一義的な課題になる。>これがテストの点数や内申などで評価になる。

そうですね。

>問題なのは、教科書に書いてあることが全て正しい、全て真実である、と生徒が思い込まされることだ。

そうですね。先生は、常に正解を求めていますからね。

>科学と宗教の違いは、「反証を許すか否か」にある。>反証を全く許さない、絶対的な価値の存在を認めるのが宗教だ。

そうですね。異端は許されませんね。

>果たして、教科書に書いてある内容に対して、反証を唱える生徒がどれだけいるのか?

それは、非常に難しいですね。

>そう、学校がやっている「教科書に書いてあること(先生の言うこと)は全て正しい。>だから覚えなさい」というのは宗教なのである。

そういうことになりますかね。

>(テストで、「こういう説もある」と解答しようものなら、先生の強権で×をされてしまうだけである。)

それは、先生のご都合主義によるものでしょう。

>大体「絶対に正しい」といえることって、世の中にどれだけあるのか?

現実の内容は、頭の外にある。見ればわかる。その答えは、ただ一つである。だから、その内容については、異口同音でなくてはならない。

>例えば「歴史は絶対に正しいことをやるので暗記にしかならない」とか言う人もいるが、誤りである。>だれも見てきたわけではないのだから、全て仮説に過ぎないのである。

そうですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。単なる話である。その内容がわかるためには、文章を理解することが必要である。
矛盾を含んでいない非現実の内容の文章は、すべて正しい考えを示している。考えは個人個人で違いがあるから、正解の数は無数にある。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えを示すことになる。だから、相手との対話は有用である。
日の下に新しきことなし。されど、人間は自分の考えを変えることができる。だから、新事実の発見により生ずる新たな矛盾を取り除くことにより、科学はどこまでも進歩する。

>たとえ映像で残っていたとしても、撮り方や編集で事実を捻じ曲げることが可能だ。

現実の内容は、ただ一つである。個人による違いは、事実関係調べにより解決されなくてはならない。

>その仮説に過ぎないものを、絶対的な真実として教え込む犯罪性に早く気付いてほしい。

矛盾を含まない文章内容は、すべて正しい考えを示している。ですから、めいめいが自分自身の意見を述べようではありませんか。さすれば、一億総受け売りの世の中に ‘おさらば’ できます。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

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