>お正月には神社に詣り、結婚式はキリスト教の教会で挙げ、お葬式は仏教に則る。
日本人の行事は、多種多彩ですね。良いものばかりを各方面から取り入れている。
>こういった、生活の中にいくつもの宗教が混在する日本人の宗教観を、一神教を基調とする欧米人は理解し難いと感じているようだ。
そうですね。西洋人が宗教の混在を言語によって理解するのは無理ですね。日本人の言動は非言語に基づいていますから。
>その背景にあるものを、いくつかのアメリカメディアが探っている。
アメリカ人は、いつも探求心が旺盛ですね。感心しています。
>◆宗教が生活の一部として存在している日本 >クリスチャン・サイエンス・モニター紙(CSM)は、宗教と信仰が大部分において乖離している日本の状況について論じた記事を掲載した。>同紙は、世界の宗教に関するニュースを幅広く取り上げている。>CSMはまず、調査会社WIN/Gallup Internationalが発表した信仰心に関する調査結果を引用し、日本は62%もの人が信仰はないとしているにもかかわらず、多くの人が寺社仏閣などに参拝している日本の状況を説明する。>つまり、ある参拝者が述べるように「神社にお詣りするのは、宗教を信じているのとは別」であり、宗教が生活の慣習の一部として存在しており、「聖と俗が分かちがたい状況にある」ということだ。
お詣りは言語による理解とは別である、わが国の行事は非言語の体得により執り行われています。
>その理由の1つとして、CSMは日本人の神社へのお詣りが現世利益主義的な側面が強いことを指摘する。
日本人には現実があって、非現実 (考え) がない。だから、日本人は現世利益主義的になる。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。わかる為には理解が必要である。
日本人の判断によれば、見ることのできる内容は事実 (本当のこと) である。見ることにできないものは、’嘘’ である。
誰も、’見て来た事のような嘘’ をつきたくはない。だから、誰も、自己の考えを述べることはしない。それで、思考停止の状態になっている。日本人は、西洋人の理解の及ばないところにとどまっている。
>明治神宮に飾られた絵馬には、さまざまな願いごとが書かれている。病気治癒や職場での昇進に、嵐のコンサートのチケットまで。>宗教は、個人の信仰としてあるわけではなく、絵馬に書かれたように「願いごとがすべて叶いますように」と祈るためにある、というわけだ。
日本人は、他力本願・神頼みですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容になるが、日本語には時制というものがない。だから、日本人には、意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。
>またCSMは、2013年の伊勢神宮の式年遷宮の年には過去最高の1400万人もの人を集めたことに注目する。>その理由として、特に若い世代での参詣者の増加について、将来への不安が背景にあるのではと推測する。
同感です。日本人にとって一寸先は闇ですからね。日本語には、時制がない。だから、未来時制もない。未来の世界の内容を脳裏に描くことが難しい。そして、一寸先が闇になる。
>伊勢神宮の神宮司庁広報課員の音羽悟氏は、20年もの不況で多くの人が目的を失い、将来について不安を感じているため「スピリチュアルな癒やし」を求めている、と同紙に述べている。
日本人は、泣き寝入るしかない。同病相哀れむか。これが、スピリチュアルな癒しになる。
>◆八百万の神でもってして異国の神を受け入れる >米公共ラジオ放送(PRI)は、日本の土着の信仰である、八百万の神を祀る「神道」に日本人の宗教観の背景を見出している。
日本語も土着であれば、日本人の信仰も土着ですね。
>PRIに詳細を語っているのは、東京都の渋谷に位置する金王八幡宮の田所克敏宮司。>彼の言によれば、「ある日、仏陀と呼ばれる神がアジア大陸からやってきた。その後、キリストと呼ばれる神が船でやってきた。すでにいた八百万の神にもう2つ加わった、というだけのこと」。
そうですね。わが国では、神も人もアニマルも、すべてを非言語の基準に従って受け入れらていますね。ですから、何事も自然に溶け込んで見えている。
>田所氏はさらに、こういった日本人の受容性の高さを、天ぷらを使って説明する。>もともと天ぷらはポルトガルから伝えられたものだが、日本人は受け入れ、文化の一部としている。
そうですね。日本人は、都合のよいものは何でも受け入れています。宗教も、儀式として受け入れられている。
>田所宮司はさらに、次のように述べる。>「人々は宗教を、何を信仰しているのかという観点ではなく、儀式の観点から見ている」。
そうですね。日本人は、言語の観点 (宗教・考え) からではなく、非言語の観点 (儀式・行動) から受け入れていますね。これは、アニマルにも通じる行動様式です。
>つまり、「この儀式(冠婚葬祭)はどう執り行うのか」が重要であるため、子どもが生まれれば神社にお宮参りし、結婚式はキリスト教の教会で挙げながら、問われれば即座に「仏教徒」と答える状況になっている、とPRIは論ずる。
そうですね。西洋人は、宗教を言語 (文章内容) で理解する。日本人は、宗教を非言語 (あるがまま) で受け入れる。
>◆荒ぶる神を受け入れ、内面の糧とする日本人 >しかし、この高い受容性が別の面で発揮されているのを、別のアメリカのメディアPBS(Public Broadcasting Service)が伝えている。>ケンタッキー州にあるベリア大学のジェフリー・リチー准教授が、2011年の東北大震災に見舞われた人々が見せた忍耐強さを、宗教的観点から論じている。>宗教学の准教授で、同大学のアジア研究プログラムの責任者であるリチー氏はまず、日本の『ゴジラ』やマンガ『アキラ』に見られるように、日本人の災禍に対する考えは、日本の伝統的な宗教文化に見られるような荒ぶる神としての姿に根付いている、と述べる。
そうですね。昔の八岐大蛇 (やまた の おろち) のようなものですね。
>そして、本居宣長の『古事記伝』に記した「神(古事記伝では「迦微」)」についての論述を引用して、日本の神は善いものも悪いものもさまざまおり、その心も行いもとりどりであり、人の小さな知恵では計り知れないものだ、とする日本人の宗教観を示した。
そうですね。日本人には、意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。日本の神も同じ行動様式をとるのであります。
>だからこそ震災が起きた時に、一神教のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者が持つような「震災は神の裁きなのか」という問いではなく、「震災をどう受け止めるべきなのか、震災はどう自分の内面のためにあるのか」という問いを、伝統的な宗教観をもつ日本人は抱きがちになるのではないか、とリチー准教授は問いかける。
日本人には意思がない。日本人の神にも意思がない。意思は、未来時制の文章内容により示されるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、わが国では、神にも人にも意思がない。
時制がなければ、非現実な独立した三世界 (過去・現在・未来) もない。世界観も想定外になっている。だから、わが国では、人も神様も現実の世界に住んでいる。
>西洋の基準からしてみれば、信仰心がないように見え、また日本人の自覚としても宗教に対する信仰心はないとしている人でも、人智を超えたものを畏れ敬う気持ちが日本人の中にあることは、以上の3つの記事からは示されているようだ。
そうですね。’祓い給え、浄め給え’ ですね。考えではなく儀式です。身体で覚えることです。
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