gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

メディアの戦争責任

2019-02-27 11:57:00 | 言語

(略)
>要は、NHKも軍の共犯として戦争を遂行に加担した加害者だったのである。

驚くことは、何もありませんね。過ちもなく、人生を無事に過ごす人はまず居ないでしょうからね。自己の過ちを知ることは、進歩のチャンスです。

>上の動画は2011年のNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」第3回 「"熱狂”はこうして作られた」だが、NHKが番組でメディアの戦争責任に言及したのは、私が知る限り、これだけである。>毎年のように繰り返される軍部批判とは比べ物にならない。>NHK元職員・池田信夫氏は、NHKの戦争責任について番組を作る提案して上司に怒られたエピソードをツイートしている。

国策に加担していながら、 ‘悪い’ と結論付けることなど上司には考えられないでしょうからね。

>戦争は悲惨であり、日本の軍人に酷いのがいたのは事実である。 >だが、高潔な軍人、潔く責任をとった軍人も数多くおり、牟田口の例だけを殊更に喧伝して軍人だけを悪者にするような印象操作は間違っている。

そうですね。風流・歌詠みでは、なかなか通じませんね。

>戦争を戦った側より、金儲けの為に戦争を煽った側の責任の方が遥かに重いのは自明の理。>世論に著しい影響力を持つメディア自身がその責任を認め、その危険性を視聴者に伝えない限り、未来の戦争を防ぐことなど不可能であろう。

同感です。人間には、リーズン (理性・理由・適当) が必要です。’過ちはくりかえとませぬから’ という歌詠みだけでは、未来の戦争は防げませんね。

>(中略)
>イギリス軍は日本軍に勝ったが、戦後、インドとビルマの両方を失った。>その後、マレーも放棄し、大英帝国は解体への道を辿る。>世界恐慌後、膨大な植民地帝国を有するイギリスがアメリカと組んで保護貿易に踏み切ったことが世界大戦の遠因となったが、戦争の結果、大英帝国は崩壊し、帝国主義の時代そのものが終焉を迎えた。

さすがの大英帝国も崩壊しましたね。

>自由貿易を満喫する戦後の日本人は、戦前、なぜ日本が資源地帯を確保するべく必死になったのか、その理由を全く理解できない。>植民地が無ければ貿易さえままならない、そんな時代がかつてあったのである。

日本人は、勉強が足りないのでしょうね。がり勉だけでは追いつきません。このことは、今も昔も変わらない。

>そうした複雑な歴史の紋様を、視聴者に説明する努力を怠り、只管、戦争の悲惨さにだけ焦点をあてて、情緒的、勧善懲悪的に「日本は悪」「日本軍は無能」とだけ報じ続けても、歴史の教訓とはなりえないし、そもそも未来の戦争を防ぐ効果さえないだろう。>寧ろ、中国、韓国の反日感情を煽る燃料となり、北東アジアの対立と緊張を招く危険さえあるのだ。

そうですね。メディアは、気分・雰囲気に酔いしれているばかりですね。中国人も韓国人も、同じ状態でしょうね。

>メディアの偏向した報道のせいで、日本の無能な指導者層が勝手に戦争を始めたと勘違いしている人が多いが、軍部が独走し、新聞が戦争を煽り、弱い内閣がそれを抑えられなかったというのが実態。>軍部とは、軍人とは、要は軍服を着た役人。>国民から選ばれたわけでもない権力が国民に選ばれた政府権力を凌駕する危険性。

深刻な民主主義の乖離ですね。為政者は、優柔不断・意志薄弱でありながら、恣意 (私意・我儘・身勝手) に走る人間ですからね。

>現在、「報道の自由」「権力監視」を盾にし、役人と結託して内閣を潰すことに夢中になっているメディアは、「統帥権干犯」を振りかざして政府の方針を軽んじた戦前の軍部とそっくりである。

そうですね。何ら、反省の色もない。‘歴史は繰り返す’ (History repeats itself.) のですね。この道は、いつか来た道。

>メディアは歴史から何も学んでいない。

そうですね。学問は、日本人には難しいからでしょうね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実は、頭の外に存在する。現実は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) の内容は、頭の外に存在する。非現実は、見ることができない。ただの話である。わかる為には、文章の理解が必要である。
日本人の判断によれば、見ることのできる内容は ‘本当’ のことである。見ることのできないものは ‘嘘’ である。誰も、見て来たような嘘をつく人間にはなりたくない。だから、自己の非現実を内容として語らない。これが則ち思考停止の状態である。思考停止の日本人が多弁なのは、偏に受け売りを専門にしているからである。これが、とりもなおさず危険な状態である。無哲学・能天気の状態であるからだ。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)


.