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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

行動あるのみ

2019-02-26 14:52:37 | 言語

>堀江貴文氏の心に響く言葉より… >とにかく、まずは「行動あるのみ」だ。 >僕はいつも、そうやって生きてきた。 >だから、痛い目も見たし、成功もした。

そのように、お見受けしております。 七転び八起きですね。

>時には耐え難いような苦しみも経験した。>しかし、その全てにおいて言えることは、「周囲の声を言い訳にせず、僕の選択で、僕の生きる道を選んできたから、何も後悔はない」ということだ。

そうですね。自主的な行動には後悔がありませんね。

>自分の選択で一歩踏みだしてみれば、大失敗することもある。 >大恥をかくこともある。 >しかし、それによって失うものなど、よくよく考えてみれば、何もないのではないだろうか。

そうも考えられますね。

>それによって傷つくものなど、あなたの「小さな小さな」プライドだけに過ぎないのではないだろうか。 >そして、そんな小さなプライドなんて、実は周囲は気にしてすらいない。 >失敗したときの周囲からの嘲笑(ちょうしょう)が怖いという人は多い。 >けれど、あなた以外の人間なんて、所詮あなた以外の人間だ。 >無責任なものだ。

そうですね。誰も他人のことに責任はとれませんね。

>あなたの悪口を言ったって、陰でバカにしたって、そんなことは次の日にはケロッと忘れている。>あなた以外の人間なんて、所詮そんなものだ。

そうですね。所詮、他人事ですね。

>そんな人間の目を気にして、あなた自身が自分の人生を無駄にしていいわけがない。

そうですね。同感です。人生を無駄にしてはいけません。

>自分の人生は、自分の責任でもって、自分自身で決めてほしい。

同感です。でも、日本人には意思がない。意思のないところには、方法 (仕方) がない。だから、日本人は、自分で自己責任が取れない。決められない。

>そして、一寸の後悔のないよう、いや、後悔したとしてもそれが自分の決断による後悔だから受け入れられるよう、そんな生き方をしてほしい。

それは、そうですね。

>そう、これまで僕は、著書はもちろん、あらゆるメディアを使って、行動することの大切さを訴えかけてきた(それが自分が本当にやりたいことなら)。>とにかく、うだうだ考えないですぐにやりなさいと。

そうですね。’ああでもなければ・こうでもない’、’あれではいけない・これではだめだ’ とばかり考えないことが大切ですね。

> 「言い訳」を並べたてて口を動かしている暇があったら、一歩を踏み出しなさいと。

ちょっと待ってください。考えもなく一歩を踏み出すことは危険ですよ。我々は、考える人にならなくてはなりませんね。

>しかし、これは僕の感覚だが、もし僕の著書を10万人が真剣に読んでくれたとしたら1000人ぐらいか。 >いやそう考えると1000人もいない気もするが…。 >まあ、人数のことはいい。 >実際、極端に少ないのは確かだと思う。

そうですね。考える人は、極端に少ないですね。

>一時的には、意識、気持ち、モチベーションを比較的多くの人が変えてくれる。 >でも、やらない、続かない、行動で示してくれない。

意識・気持ち・モチベーションは、感情的なものですね。一時的なものですね。日本人には意思 (未来時制の文章内容) がない。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。’・続かない・行動で示さない’ ということになります。

>ある人が僕の講演を聞きにきてくれる。 >自分の貴重な時間を割いて聞きにきてくれて、僕の話に共感してくれて、その場では表情を変え決意を新たにしてくれる。 >だが、少したつとまた僕の講演を聞きにきている。 >この間にその人自身なんにも変わっていない。 >こんな人が多いのが本当に寂しい。

そうですね。変わらないのは、我々の民族性でしょうね。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。わかる為には、その文章の理解が必要である。文章の理解には、文法を覚えなくてはならない。だから、西洋人は、子供のために文法学校 (grammar school) を作った。日本人のように、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) で生活していると、文法には焦点が当たらない。文章を理解する必要性も少ない。それで、人間は、歌詠みになる。バラバラな単語を取り扱う歌詠みには、理解というものが難しい。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>既存のレールに乗って生きていくことは、これからの時代、通用しなくなる。>僕が言う1%の人にならなければ、本当の意味で仕事に没頭することはできなくなる。

寂しいことですね。

>あらゆる分野において皆さんの想像以上のスピードでテクノロジーが発達しAIが進み、これまで普通にあった職業がなくなる。 >稼げなくなる。 >与えられた仕事だけこなしていれば安泰の時代はもうすぐ終わる。

心配なことですね。

>そんなことはありえないと思っているあなたが一番危険だ。 >自分から動き、何かを見つけ、仕事を生みだしていかなければならない。 >そうしないと人生を楽しむことができなくなるということをわかってほしい。>『好きなことだけで生きていく。』ポプラ新書

それはそうだが、言うのは易しく行うのは難しいです。

>『10年後、君に仕事はあるのか?―未来を生きるための「雇われる力」』(ダイヤモンド社)という藤原和博氏の本がある。 >それには、3つのポイントがあるという。 >1つめは、今の中・高校生が社会人になる2020年代の半ばには、多くの親が体験した「標準的な人生モデル」は追求できないということ。

すると、個性的な生活を送ることになりますね。

>会社で正社員にはなれないかもしれないし、大手企業に入社したとしても一生そこで働くのは珍しくなる。

そうですね。社畜の生活は、難しくなりますね。

>2つめは、言わずと知れたスマホと、それにつながったネット世界の広がり。 >いまの高校生は1998年以降の生まれになるが、グーグルも1998年生まれ。 >グーグル以前とグーグル以降は人種が違うと思ったほうがいい。  >この世代の若者は、人生の半分をネット上で暮らすことになる。

そうですね。情報の時代ですね。

>3つめは、人生の長さ(ライフスパン)が決定的に異なること。 >つまり医療が進み、平均寿命100年の時代に突入するということ。 >そして、 あらゆる面倒なことや手間のかかる仕事もロボットやAIがやる時代になる。 >すなわちこれからは、親とは全く違う価値観を持たなければ、生きていけない時代になったということ。

そうですね。立身出世の価値観は、下落しましたね。

>だからこそ、新たな仕事を生み出すという「創造」をしなければ生き残れないし、楽しく生きることはできない。

そうですね。非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造力を発揮したことになります。そのためには、非現実 (考え) の内容を文章 (論文) にして表す必要があります。

>そのためには、まずは「行動あるのみ」。

ちょっと待ってください。考えもなく行動することは、危険ですね。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思 (文章内容) がないから、仕方がない。それで、無為無策でいる。おとなしい。
暴挙に出たとしても、その説明責任 (文章内容) がとれない。だから、とかくこの世は無責任となる。

行動しなければ何も変わらない。

日本人に行動を強調すると、精神主義に走る危険があります。この道は、いつか来た道。
日本人には、意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。恣意は文章内容にならないので、意味がない。だが、意思がないのだから、恣意を利用するに限ります。これは、アニマルと同じである。
わが国の指導者は、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂とする。これが、わが国の精神主義である。武術を利用して精神の鍛練をする。すると、動作の機敏な人が生まれるが、リーズン (理性・理由・適当) のある人間にはならない。これが、日本語脳の持ち主の問題点であります。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を学び、時制の大切さを十分に理解して自己の意思の表現方法を獲得し、世界の人と意思疎通を図ってゆかなくてはならないと思います。



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現実・非現実

2019-02-26 05:59:40 | 言語


>今日も暇でネットを見てみたら、ホリエモンが井筒監督を「人間として最低”という記事が飛び出す。>提供者は日刊スポーツ。>スポニチにはもっとまともな日本語が書ける記者はいないのかね?>それはともかく内容は井筒が何処かの雑誌に「最近の映画は売り上げ重視で表面だけとらえた虚像作品ばかりだ、もっと実のあるものを」と述べたのが、ホリエモンのカンに触ったらしく「虚像が未来の産業を作って行くんだ、虚像批判は過去の遺物」と反論。>さてここで筆者が述べるのは、堀江/井筒対立の発端となった虚/実の違いは何者か、ということです。

虚 (非現実・考え) と実 (現実・実験と観察) を組み合わせて使うと、我々の生活は豊かになるのではないでしょうか。これは科学的な手法ですね。

(略)
>現在問題になっているメーカーの検査データねつ造。>一般にはこれを”実”の問題と思うかもしれないが、これこそ”虚”が作った犯罪なのである。>検査済証など幾らでも偽造できる。>これこそが意味のないヒラヒラなのだ。>このヒラヒラをありがたがることこそが”虚”なのである。

実 (現実) は、頭の外にある。見ることができる。見ればわかる。
虚 (非現実・考え) は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。わかる為には、理解が必要である。
虚を実の内容に変えることができれば、それは創造である。
実を実で再現すれば、それは模倣である。
特亜三国の人々は、模倣が得意で創造が苦手である。模倣の競争は参入者が多くて、過酷なものになりがちです。

わが国には何でもある。だが、夢・希望だけがない。
何でもあるは、現実の内容である。夢・希望は、非現実の内容である。
だから、わが国には、’現実があって非現実がない’ ということになる。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾のない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正しい考えはただ一つではない。幾らでもある。人さまざまである。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を除去すれば正しい考えになる。だから、対話・議論は正しい考えを得るための役に立つ。

非現実 (考え) の内容を文章にするためには、文法に時制 (tense) というものが必要です。時制は、英語にはあるが日本語にはない。
時制のある文章は、非現実の独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。
夢・希望の内容は、未来の事柄である。だから、未来時制の文章内容で表すことができる。時制がなければ、夢・希望もない。日本語脳の脳裏には時制が無いので、非現実の内容が思考停止の状態になっている。そして、暗記と受け売りの学習ばかりが盛んになっています。
我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、時制の大切さを十分に理解して自己の考えを表現できるように努力する必要があります。
そうすれば、外国人との意見交換も円滑になるものと考えられ、実力をさらに伸ばすことが可能になります。世界に影響力を及ぼすことのできる人間が生まれます。



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