gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日米関係 3/3  

2021-02-01 20:24:54 | 文化

 

>日米関係はアメリカの仕返しから始まり、朝鮮戦争を介した南下する共産主義の橋頭堡、そして今日では膨張する中国を抑え込むこと、更には台湾との緊張関係を踏まえ、尖閣を日本の領土と明白化し、それを日米が共同して守ることを認識しました。 >これは非常に意味あることなのです。 

 

そうですね。日本人には自主・独立の気風がない。   

 

>アメリカは自分たちが追い越されることには腹立つ国民性を持っており、日本が今後もアメリカの手のひらの上でアメリカの利益に矛盾しないことを前提にしています。

 

日本人には世界観がない。我が国は釈迦如来の掌の中で得意になって踊る孫悟空のようなものでしょうか。   

 

>例えばうがった見方ですが、アメリカは日本の産業界に戦後、あらゆる方面で痛めつけられたことは一種のリメンバー〇〇とも取れます。 

 

リベンジですか。   

 

>よって近年はアメリカに於ける日本の産業が一定枠に閉じ込められていることには気がつくべきでしょう。 >カリフォルニアでハイブリッドの車がZEV [zero emission vehicle] 規制外となったのもHV [hybrid vehicle] が日本のお家芸となることを阻止した、そして電気自動車でどうにか覇権を握りたいという野心がありありと見て取れるとも言えなくはないのです。 >アメリカは日本を重視する姿勢を見せていますが、それはアメリカの策略でもあります。 >アメリカは日本を愛しているわけではなく、うまく利用したいのです。

 

日本はアメリカを愛しているわけでもなく、うまく利用したいのと同じですね。   

 

>それはカナダにもメキシコにも同様で何かあった時、「軍団」としてスケールメリットが取れるようにする下心が前提であると割り切るべきなのでしょう。>とすれば日本はどうすべきでしょうか? >私はアメリカとギブアンドテイクの関係を作り出す外交的戦略が必要なのだろうと思います。 

 

日米の対等な関係は無理でしょうね。日本人は人間ができていないですからね。      

 

>日本が真の独立国家になるためには自国を守る軍隊というフィジカルな防衛を掲げる方も多いと思います。 >が、それ以前に政治的、政策的に同じ土俵に立てるようにならねばならないと思います。  

 

そうですね。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>基本的に外交に於いて常にアメリカの顔色をうかがっている状態ではどれだけ兵器や軍備増強しても意味は半減だろうと思います。

 

そうですね。忖度の練習だけでは意味は半減ですね。   

 

>バイデン氏を介した日米関係の行方はどんなものになるのでしょうか? >日本に岸信介のような剛腕なリーダーが今一度、必要なのかもしれません。 

 

岸信介のような人は、アメリカ人には政治家として信用されませんね。あくまでも彼はアメリカのエイジェントどまりですね。  

 

>明日に続けます。>では今日はこのぐらいで。

 

どうも、ご苦労様でした。

 

 

.

 

 


日米関係 2/3  

2021-02-01 20:09:30 | 文化

 

>ただ、アメリカはある意味、戦略的というより政治的な判断でご都合主義なのも事実。  

 

彼らは実存的・実際的 (pragmatic) なのでしょうね。   

 

>例えば朝鮮戦争が始まった際、マッカーサーは日本政府に対して日本国憲法にかかわらず再軍備を求めたのですが、WGIPのクスリが効きすぎたのか、日本側がそれを断っています。

 

アニマルでもひどい目に合わされた状況はよく覚えていますからね。日本人も同じ事で、謝罪も無ければ贖罪も無い。このような文化そのものがありません。   

 

>東京裁判も見方によっては茶番ではなかったかという気もします。  

 

この国がひっくり返った時にも戦争の責任者は出なかった。     

 

>A級裁判で絞首刑が実施され、世界に対して見せしめが行われた後、死刑判決ではなかった有罪者は早々に釈放されてしまっているのです。  

 

戦争犯罪人は、連合国に捕らえられた人たちです。日本人が名指した人たちではなかった。日本人には責任観念も無く、名指しもできない。   

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。  

 

>アメリカはイベントとしての結果が欲しかっただけであとは何でもよかったのではないかとも取れるのです。  

 

WGIPは ‘カエルの面に小便’ でしたね。さらなる言語に基づく文化の研究が必要ですね。      

 

>日米安保では岸信介総理(当時)が頑張って安保にはアメリカが日本を有事の際に守るということを約束させています。

 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。

 

>これは戦後の日米関係に於いて最大級の成果の一つと考えています。(拡大解釈であるという異論があるのは存じ上げていますがそれはここでは横に置いておきます。) 

 

苦しい時の神頼み’ はわが国の伝統的な方策ですね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)      

 

>それが故に今般、菅ーバイデン会談に於いて最も注目された一つが尖閣諸島の防衛義務への認識でありました。 

 

他力本願・神頼みですね。自主性がない。      

 

>アメリカにとって岸ーアイゼンハワーの合意が今日、これほど形を変えて有効になるとは岸さんも想像していなかったでしょう。 

 

イザヤ・ベンダサン は、<日本人とユダヤ人> の中で、安全について次の様に述べています。

個人の安全も一国一民族の安全保障も、原則は同じであろう。しかし、日本では、カキに果たして殻が必要なりや否やで始まるから、知らせないこと、知らないことも、安全には必要だなどという議論は問題にされない。さらに防衛費などというものは一種の損害保険で、「掛け捨て」になったときが一番ありがたいのだ、ということも (戦前戦後を通じて) 、日本では通用しない。(引用終り)     

 

 

.

 

 

 


日米関係 1/3  

2021-02-01 19:49:56 | 文化

 

>記事 >ヒロ2021年01月31日 11:07アメリカの東アジア政策 その1 日米関係 その土台

>今日と明日、二日間にわたってアメリカの東アジア政策について考えてみたいと思います。 >東アジア政策なんていうとその言葉を聞いた時点でパタッと閉じてしまう方もいるかもしれませんが、問題点を単純化してわかりやすくして皆様と議論したいと思います。

>菅総理がバイデン大統領と電話会談を行いました。 >バイデン氏にとって欧州主要国、カナダ、ロシアに次いで行われたことから序列的にはアジアで最重視されているとみられています。  

 

そうですね。わが国はアジアで序列第一位ですね。日本人は、序列順位によりその存在価値を確信しますからね。     

 

>ただ、日経は会談時間が日本時間の未明(午前0時47分)が意味することは何か、と深掘りを試みています。 >日経の推測はバイデン氏の年齢で気を使っているということのようです。 

 

そうですね。日本の夜はアメリカの昼ですからね。  

 

>確かに就任して10日もしない間にこなす公務はおびただしいものがあり、顔にこそ出さないものの78歳のバイデン氏には堪えていることでしょう。  

 

彼は当然覚悟の上でしょうね。   

 

>しかし、菅総理も72歳で総理になってから完全休暇を一日も取っておらず、最近は国会でせき込み、声もガラガラだったりするのを見ると菅さんこそ、大丈夫かね、と思いたくなります。 >ただ、翌朝のインタビューでの総理の顔は晴れやかだったのでうまくこなしたという満足感があったのでしょう。 

 

おめでたいことですね。   

 

>日本が日米関係を重視せざるを得ないのは歴史がそうさせたわけでそのあたりのことはその2のほうで切り口を変えてみていきます。 >ただ、明白に言えることは先の大戦を受けてアメリカは日本を無力化しようとしたこと、それを担保するために日本国憲法を制定したこと、米軍駐留を維持することが既成事実として並んでしまったわけです。  

 

我が国は全て既成事実の追認ですからね。日本人には未来を先取りする考え方がありません。    

 

>特にWGIP(War Guilt Information Program:戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)が日本人のマインドそのものを二度と戦争に立ち向かわないように仕向けさせるには非常によく機能しました。

 

あれはアメリカ人の失敗でしたね。蛙の面に小便でしたね。Pouring water on a duck’s back. 日本人には罪悪感がありません。   

日本人には自己の意思がない。だから、その行動には受動があって能動がない。被害者意識があって、加害者意識がない。つまり、ひどい目に合った相手はよく覚えているが、自分自身に罪の意識はない。これは、アニマルと同じである。相手を恐れる学習はするが、自己の行動に関する道徳的な進展は見られない。    

イザヤ・ベンダサン (=山本七平訳) は <日本教について> の中で次のように述べていま。

・・・・その中の特徴的な考え方の一つは「人は他人の罪責を負うことができる」という考え方です。一見奇妙な考え方と思われるかもしれません。しかしこの罪責を栄誉と置き換えてみれば、人はみな当然のことのように他人 (先人を含めて) の名誉をにない、本田様とて例外でないことにお気づきでしょう。様は、砂漠にただ一人、自生されたわけではありますまい。二十世紀の日本という社会に生まれ、何の権利もないのに、その社会の恵沢と栄誉を、当然のこととして負うておられます。従って本田様が「幼児であったから」「責任がない」といわれるなら、日本の伝統的文化、それにつづく現代社会の恵沢と栄誉を受ける権利も放棄されたことになります。責任を拒否したものに権利はありますまい。

人間は生まれる場所も生まれる時も選ぶことが出来ないが故に歴史に対して責任がある、と考えうるときはじめて人間が「人間」になるのであって、「おれは生まれた場所も時も自分で選んだのではないから責任はない」といえば、これは獣に等しいはずですが、そう考えうること自体が、実は、恵沢を受けている証拠なのですから、この態度は「栄誉と恵沢は当然のこととして受けるが、罪責を負うことは拒否する」ということになります。

少なくとも聖書の世界では、これを最も恥ずべき態度と考えますので・・・・・なぜなら、「財産は相続するが、負債はおれには関係がない。なぜならその借金は、おれの幼児の時のもので、当時何も知らなかったからだ」と言うに等しいからです。・・・・・

罪なき者が他人の罪を負って打たれ砕かれる。この時はじめて、負った人は負わせた人びとを同胞と呼びうる。すでに「他人」ではない。従って同胞としてその罪を糾弾する権利があると同時に、その罪かで苦しめられた人びとに謝罪する権利も生じる。そしてそれをすることによって和解が成立するーーーー(引用終り)   

 

 

.