(2/3より)
わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>明治維新の立役者となった薩摩藩士たちは、子どもたち同志の学びあいを重視する「郷中教育」でしごかれた若者であった。 >西郷隆盛が残した「南洲翁遺訓」は今も人々を惹きつける力があるが、その源泉はこの「郷中教育」にある。 >また初期の明治政府は孝明天皇に仕えた「賊軍の会津藩士」たちを教育官僚に迎え入れたが会津藩には「什」という地域組織を教育の単位としていた。 リンク
我が民族は昔から地域組織の教育が盛んでしたね。
>しかし、明治=薩長政権は孝明天皇暗殺の上に成り立ったクーデター政権であり、欧米との接触を通じて、土着的な自治共同体発の教育ではなく、市場拡大を進めるための「上からの教育」に方向を切り替える。
国軍創設の為の教育ですかね。
>と同時に、恋愛の美化、自由礼賛、神(天皇)の名の下の平等といった西洋発の架空観念を使って、人々の市場に対する関心を引き出した。
哲学は、無哲学・能天気のわが国に入ればたちまち架空観念になる。
見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。
現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>上からの教育に対する農村の反発は大きなものがあったが、農村も市場経済に巻き込まれ、養蚕などの商品作物が暴落することで貧困が拡大すると、農村共同体も変質。 >立身出世を目指して、帝大、陸軍大学校へと若者が進みだす。
日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家にまでつながっている。
序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
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