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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

山澤貴志氏 3/3  

2021-02-07 10:10:32 | 文化

 

(2/3より) 

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>明治維新の立役者となった薩摩藩士たちは、子どもたち同志の学びあいを重視する「郷中教育」でしごかれた若者であった。 >西郷隆盛が残した「南洲翁遺訓」は今も人々を惹きつける力があるが、その源泉はこの「郷中教育」にある。 >また初期の明治政府は孝明天皇に仕えた「賊軍の会津藩士」たちを教育官僚に迎え入れたが会津藩には「什」という地域組織を教育の単位としていた。 リンク   

 

我が民族は昔から地域組織の教育が盛んでしたね。   

 

>しかし、明治=薩長政権は孝明天皇暗殺の上に成り立ったクーデター政権であり、欧米との接触を通じて、土着的な自治共同体発の教育ではなく、市場拡大を進めるための「上からの教育」に方向を切り替える。   

 

国軍創設の為の教育ですかね。   

 

>と同時に、恋愛の美化、自由礼賛、神(天皇)の名の下の平等といった西洋発の架空観念を使って、人々の市場に対する関心を引き出した。  

 

哲学は、無哲学・能天気のわが国に入ればたちまち架空観念になる。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

 

>上からの教育に対する農村の反発は大きなものがあったが、農村も市場経済に巻き込まれ、養蚕などの商品作物が暴落することで貧困が拡大すると、農村共同体も変質。 >立身出世を目指して、帝大、陸軍大学校へと若者が進みだす。

 

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家にまでつながっている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

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山澤貴志氏 2/3  

2021-02-07 09:24:24 | 文化

 

>こうした江戸時代の人々の言語能力の発展を支えた、内なる欠乏はなんであろうか。 >この時代の日本人をみた欧米人が一様に驚くのが、開放的で活力に満ち溢れる人々の姿である。  

 

日本人には奥がない。口あけて はらわた見せる ざくろかな   

日本人は・奥ゆかしい(深い考えがあるようにみえる)。実は、奥 (考え) がない。だから、浅薄である。日本人は、無哲学・能天気である。 

日本人には、儀式 (作法) ばかりがあって、教義 (考え) というものがない。だから、作法ばかりにこだわって、これを励行する。子供の時には宮参り。結婚式はキリスト教。葬式は仏式でやる。全ての行為は、気分・雰囲気で決められている。思考を停止している世の中では、作法を墨守するしか自己を顕示する方法がない。 

 

>子どもにムチを振るうのが当たり前の欧米と違い、日本では子どもたちはなにかを強制されるのではなく、寺子屋であれ、若衆宿であれ、主体的に学びあっていた。

 

牧畜業の調教はムチを使って行われていますね。これは農耕民との違いでしょうね。      

 

>共同体の自治の精神「自分たちの生きる場は自分たちの手でつくっていく」が子どもたちにも貫かれており、大人たちの背中を見ながら、誰もが自ずと真似=学びに向かっていったのだろう。  

 

日本人には今も昔も’自分たち’ があって主権在民の ‘政治’ がない。   

日本のような民主主義国家においては、人々こそ、自分たちの政治家に直接の責任を負うのです。ですから、日本人の自然災害下でのレジリエンス [立ち直る力] はかけがえのない立派なものですが、同時に消極性と、日本の政治に責任を負うことへの怠慢にもつながっていると感じます’。 (R.L.パリー)  

 

>(なお活力の根幹に性充足があるとすれば、江戸の性のおおらかさも、より根本的なエネルギー源であったといえるかもしれない。) 

 

牧畜業においては、性は最も重要な産業の基礎知識ですね。ですから彼らには性をもてあそぶようなことはできません。   

 

>●明治

>そうした、江戸の自治精神は、明治維新の志士たちにも受け継がれた。 

 

日本人の自治の精神には政治がない。だから、政治音痴のままで居る。消極性と無責任 (怠慢) であるとの指摘がR.L.パリ―氏からなされています。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。  

 

>「和魂洋才」というコトバが象徴しているように、近代思想を消化しながらも、その根底には江戸時代に育まれた精神性が息づいていた。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。 (3/3へ続く)    

 

 

 

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山澤貴志氏 1/3  

2021-02-07 08:59:47 | 文化

 

>317445          近代化で日本人の言語能力は低下する一方

>山澤貴志 ( 51 ITコンサル )    16/07/17 PM10 【印刷用へ】

>現代人の言語能力の低下は多くの人々が認めるところだと思うが、他方で、「近代化によって日本人は無知蒙昧から脱却したのだ、日本人が世界競争に負け始めたのは、グローバル化、近代化が遅れており、民主主義の確立も、個の確立も遅れているからだ」といったような言論が今も支配している。 

 

そうですね。 今でも日本人は思考停止していますね。 日本人には意思がない。だから、他人の後追いばかりで遅れは避けられませんね。 思考停止している人間は個人の確立も無理ですね。 民主主義には個人としての政治参加が必要ですね。 そうでなければ衆愚政治になりますね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。      

 

>この誤った認識を転換しないことには言語能力の再生はないだろう。  

 

何が誤りなのでしょうか。   

 

>歴史を遡って言語能力及び、言語能力の根幹をなす内なる欠乏(いたいこと、伝えたいこと)の変遷を振り返ってみたい。  

 

よろしくお願いいたします。 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」  

 

>●江戸時代

>戦後の歴史教科書は、近代化・西洋化を進めるGHQの意向を受けて、長らく「日本人は鎖国によって、近代化に遅れ、人々は貧困にあえいでいた」というイメージを人々に植え付けてきた。 

 

そうですね。これは薩長政府が江戸時代を批判するような内容ですね。  

 

>しかし、近年の江戸研究の成果によって、以下の事実が明らかになってきた。 >欧米は戦争と近代科学技術によって市場拡大を推し進めたが、江戸時代の日本は、幕藩体制と鎖国によって、戦争を封印し、自立した自治共同体と参勤交替という国内ネットワークづくりによって、西洋以上の先進国となっていた。   

 

さて、それはどうですかね。   

 

>例えば、当時の江戸は、パリを抜いて人口世界一の都市であり、上下水道といったインフラでもパリを圧倒していた。>そうした経済発展と技術を支えていたのは、江戸の人々の学力水準の高さ。 

 

そうですね。昔から日本人は実学 (技術) に優れていましたね。しかし、哲学 (考え) の方は、今も昔もダメですね。     

 

>江戸の識字率は70-80%と言われ、イギリスの20-25%、フランスの1.4%をはるかに凌いでいる。 

 

そうですね。読み・書き・算盤の初等教育に関するものですね。    

 

>言語能力の進化は大衆的な次元に止まらず、知識階級も進化を遂げた。  

 

‘All men are created equal’. (人はみな平等に造られている) と言えば人から尊敬される。    A

‘人間万事不平等’ と言えばただの人になる。                                                 B

Aは非現実 (考え) の内容である。Bは現実の内容である。

日本人には現実があって、非現実がない。だから、尊敬も無い。

このようなわけで我が国は、聖人君子の国にはなれないでしょう。   

 

>日本人の潜在思念に注目した本居宣長の「もののあわれ」や、自然の摂理に沿った生き方を解いた安藤昌益の「自然真営道」など、儒教・仏教といった中国からの輸入思想を消化・浄化した上で、日本独自の思想が花開いた時代でもあった。 

 

フランク・ギブニー氏 (Frank Gibney) は、自著 <人は城、人は石垣> (Japan The Fragile Superpower) の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to beにあたる適当な動詞がない。“beingとか “realityのような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)  

 

 

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