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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本語で書かれたもの

2021-02-12 04:04:49 | 文化

 

(略)

>日本語で書かれたものは研究の宝庫

>苅谷:私は海外に渡ってから、日本語で書かれたものが研究の宝庫であるということに気づきました。>日本語が読めるアドバンテージをどのようにグローバルに還元していくかということは、つまり、先ほど述べた日本の近代化の経験をどのようにしてグローバルに伝えていくかということです。

 

そうですね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>日本の大学の関係者の方とお話しするときも、もっと日本語の力を信頼して、日本語で書かれたものの価値を認識し、そのうえで、なぜ、それを外国語で表現しなくてはならないのかということを理解することが重要だと話しています。  

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」    

 

>順番を間違えて、なんでも授業を英語でやればいいというようになってしまえば、授業を英語にしたところで、それほど高いレベルにまでは到達しません。 

 

そうですね。たとえ日本人が流暢な英語をしゃべることができても英米に行けばただの人ですね。   

 

>これまで相当高いレベルにあるゴールの話をしていて、日本の教育全体に関する話にはなっていませんが、少なくとも日本の教育が果たすべき具体的な目標であり、実際にグローバルに貢献可能なこととしては、「内部の参照点」をきちんと見つけ、そこから得られた経験を多声的に理解できる人間を作り出していくことだと思います。

 

 『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)

 

>例えば先の例のように、100年前のパンデミックについて報告書を書いた人たちのことを追体験的に考えることによって、今のわれわれに何ができるかということについて考えられることがたくさんあると思います。 >そのためには、さまざまな知識が必要で、日本語が読めなくてはいけませんし、歴史的な背景に対する理解や、何らかの科学的な知識、国際関係に関する知識も必要です。   

 

そうですね。何処の国を理解するためにもその国の言語の文章が読めなくてはなりませんね。そうでなければ過去の遺産は埋もれたままになります。   

 

>いわゆる高校までに習う知識というのはそういう形で役立てようと思えば、そこに到達できるための知識はとてもよく詰まっていますから、やはり、学校で教える知識がなぜ重要なのかということも含めたゴールセッティングが欠かせないのだと思います。  

 

詰め込み教育があるうえに、思考停止が共存する現実がわが国の中等教育に問題をもたらしているようですね。卒業生はみな受け売りの専門家になっているようです。

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

>須賀:苅谷さんの話を伺って、私たちも何か重要なポイントを見失っていたのではないかと気づかされました。ありがとうございました。

 

そうですね。無哲学・能天気の我々日本人は ‘手段の目的化’ を起こしやすいですからね。アメリカに勝つために自爆攻撃に力を入れるようなことになるのです。  

 

>(制作協力:黒鳥社)

 

 

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苅谷剛彦氏 7/7  

2021-02-12 03:36:44 | 文化

 

>最も強力な抵抗は、徹底して謙虚であること  

>そのように利用しようと企てる人に対しては、先ほど述べた、徹底した「知に対する謙虚さ」が大きな抵抗になります。 

 

そうですね。   

 

>マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやガンジーなど、暴力よりも非暴力の抵抗のほうが強いという言い方があるように、さまざまな知に対して徹底して謙虚であることは、シンプルに相手を攻撃する人たちよりも強く、政治的な企てにも翻弄されない強い足場を持ちます。 

 

キング牧師は ‘私には夢がある’ と言いました。日本人の夢はつかみどころのないものですが、英米人の夢は未来の確たる内容ですね。ですから、演説を聞く聴衆のとらえ方も言語に時制のあるなしで違ってきますね。    

 

>知の世界における、ある種の非暴力主義ですね。 

>私は決してナショナリズムを否定するわけでありませんが、ナショナリズムが政治的にどう使われるかということ自体が問題になるわけで、そういったときに知的伝統の中で冷静に判断をできる人がいて、多様な判断が存在するのであれば、私は、ナショナリズムを否定する立場にはありません。>それは「内部の参照点」のひとつだと思っています。   

 

日本人に現実直視は難しいですね。日本人は忖度に忙しいですからね。    

 

>須賀:ナショナリズムそのものを否定するのではなく、それに翻弄されない足場作りが重要だということ。  

 

そうですね。知的な考察が必要ですね。

勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ (ヘルマン・ゲーリング)

 

>その態度こそが「知に対する謙虚さ」だということですね。

>苅谷:おっしゃるとおりです。>そういった個人をできるだけつくるのが大学の役割だと思っています。   

 

我々日本人は無哲学・能天気ではいられませんね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 我々には英米流の高等教育が必要ですね。そこで自己の哲学を完成させる必要があります。   

 

>グローバル化に振り回されずに、自分たちの「内部の参照点」に根ざした足場をきちんと持つことが重要です。  

 

グローバル化の実態は気分・雰囲気ですね。現実の内容は千変万化してやまない。ですから、人々は現実の内容に振り回されている。   

 

>150年以上に及ぶ日本の近代化の経験というのは、それ自体が一種の歴史的な実験室のようなもので、そこから学べることは本当に多くあります。  

 

そうですね。わが国の近代史は宝の山ですね。   

 

>苅谷:近代化、工業化の過程で生じた水俣病などの例も、地球環境や汚染の問題を考えるうえで、必ず参考にすべきことだと思います。 >福島第一原発の事故も然りです。 

 

気分・雰囲気に溺れて日本人は大怪我をしたのですね。   

 

>日本の歴史を振り返ると、いろいろな時代に「参照点」となる場所がたくさん詰まっています。  

 

そうですね。太平洋戦争がその好例でしょうね。   

田原総一朗です。・・・・・ 侵略戦争が良いとは思わないが、いわゆる先進国はイギリスをはじめ例外なくいずれも侵略戦争をたびたび行い、戦争に勝って相手を植民地にしてきた国である。誤解を恐れずに言えば、勝てば官軍である。 問題は日中戦争だ。日中戦争の発端である盧溝橋事件は中国側が先に撃ったのである。盧溝橋の現地人は停戦協定を結んだ。ところが参謀本部が中国をやってしまえ、という事になった。中国を完全に甘くみていたのである。そして、イギリスやフランスが日本を支持してくれると思い込んでいたのだ。ところが、その中国の利権を巡ってイギリスと対立関係となった。イギリス、フランス、そしてアメリカ等が日本と険悪な状態になり、ついに孤立してしまった。そして大東亜戦争に突入せざる得なくなった。米・英・蘭、そして中、更にロシアまで敵にして勝てるはずがない。はじめから負けるに決まってる戦争に突入してしまったわけだ。(引用終り)          

 

>そして、そういったことを理解できる、さらに理解できるだけでなく、人類のために役に立てられる人は日本の教育でしか作ることができません。

 

我が国の内部参照点は日本人の知的な教育により生かされますね。外国の内部参照点は各国の人民教育により生かされますね。

 

>須賀:まさしく日本の教育にしかできないことですね。  

 

日本の内部参照点は日本人の教育により大きく生かされることでしょう。   

 

(略)

 

 

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苅谷剛彦氏 6/7  

2021-02-12 03:05:30 | 文化

 

(5/7より)

>例えば、エチオピアはアフリカの中で最も古いキリスト教国で、ヨーロッパから一定の独立を保ちながら、近代化を成し遂げようとした国ですが、エチオピアが近代化に向かう過程で、決して主流派ではありませんでしたが、日本の近代化から学ぼうとした人たちがいたんです。 >そういった経験についてお話しすると、日本回帰しようとする人は、「日本は素晴らしい」という言説に向かってしまいますが、そういったことを言いたいわけではなく、ほかの非ヨーロッパの独立国が、日本をどう見ていたのか、日本の経験自体をどう捉えていたのか、その経験とは何だったのかということをきちんと見据えるということが、「内部の参照点」を探すうえで、とても重要になるんです。  

 

日本人はややもすると忖度と自己慶賀に酔う性質がありますね。   

 

>須賀:非常に慎重な態度が求められるわけですね。    

 

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。日本語には、非現実 (考え) の内容を語る為の時制のある構文がない。

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。

 

>苅谷:今、保守の方が「伝統」ということの多くは、近代になってから発明されたものばかりです。>日本的なものとして江戸時代から存在していたものもありますが、それらが近代的な解釈を経て、いまだに記憶に残っている言葉の中に郷愁を感じ、日本回帰をするというパターンが多いのではないかと思います。>現在のような不安定な状況において、保守回帰やナショナリズムへの回帰というのはとてもわかりやすい言説になりますし、そのことによって安心を求めようとする気持ちも理解できますが、そういった日本回帰ではなく、謙虚さをもって過去から学ぼうとする姿勢が重要です。   

 

そうですね。    

 

>少なくとも、西洋列強、西洋近代を前にして、日本人がストラグルしながらも、努力し、戦いながら、自分たちでなんとか生き残っていこうとした、努力や格闘の痕跡というのは、冷静に評価すべきことだと思っていますし、非西洋圏においては、日露戦争での勝利はたしかに輝かしい偉業だったわけです。>ただ、私はこのことをアカデミックな、教育の文脈の中で語っていますが、それらが政治的な話になると、必ず政治的に利用しようとする人が出てくるので、そこに難しさがあります。   

 

そうですね。   

「こんなに世界から愛されている日本」、「イギリスに住んで確信! 日本はイギリスより50年進んでいる」、「日本人に生まれて、まあよかった」など、日本では最近、自国を自画自賛する内容の本・雑誌が増えている。これまで、「奥ゆかしい」、「謙虚」と自負していた日本人がこの種の本を書いているのは、中国や韓国などの隣国の急速な台頭を背景に、「アジアナンバーワン」との自信を保つためで、「自画自賛症候群」を患っているとの声が上がっている。環球時報が報じた。(引用終り)  

日本人が自画自賛 (自己慶賀) の快感に酔いしれるさまは外国人には理解し難く滑稽でしょうね。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家にまでつながっている。

序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであるという価値観を共有している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事は、人々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。日本語の階称という短所に翻弄され続ける日本人は情けない。    

 

 

 

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苅谷剛彦氏 5/7  

2021-02-12 02:39:29 | 文化

 

>「内部の参照点」に立ち返れ       

>苅谷:日本は近代化の歴史の中で、海外の技術や考え方を取り入れながら、ハイブリッドな近代を作り出してきました。  

 

そうですね。   

 

>100年前まで遡らなくても、2011年には東日本大震災を経験しています。>これらの経験を「内部の参照点」として、今、私たちに必要な知識とは何かと考えることが重要なのではないでしょうか。  

 

同感です。   

 

>欧米の有名な学者たちの文献に注目し、昔のドイツやフランスやイギリスやアメリカが何をしたかということを理解し、それらを日本語で紹介したとしても、それは、自分たちの「内部の参照点」にはなかなかなりえません。 

 

そうですね。それは受け売りの専門家のすることですね。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

>その点で100年前に内務省の保健局が出した報告書は、私たちが今回の感染症を考えるうえでの「内部の参照点」になりえます。 >知の生産や再生産といったことは、私たちの「知に対する謙虚さ」がベースにあり、私たちがこれまでの歴史の中で、作り出してきた事柄をどう理解するのかということに出発点があると思っています。 

 

そうですね。   

 

>世界中の誰も、過去を完全に切り離して、真水からまったく新しい何かを作り出すということはできません。 >私は、このことを「経路依存性Path Dependency」と理解していますが、現在や未来のことを考えるにしても、世界との交流を含めた、自分たちの作り出してきた過去の経験に立ち返るということが必ず重要になります。  

 

そうですね。   

イザヤ・ベンダサン (=山本七平訳) は <日本教について> の中で次のように述べていま。

・・・・その中の特徴的な考え方の一つは「人は他人の罪責を負うことができる」という考え方です。一見奇妙な考え方と思われるかもしれません。しかしこの罪責を栄誉と置き換えてみれば、人はみな当然のことのように他人 (先人を含めて) の名誉をにない、本田様とて例外でないことにお気づきでしょう。様は、砂漠にただ一人、自生されたわけではありますまい。二十世紀の日本という社会に生まれ、何の権利もないのに、その社会の恵沢と栄誉を、当然のこととして負うておられます。従って本田様が「幼児であったから」「責任がない」といわれるなら、日本の伝統的文化、それにつづく現代社会の恵沢と栄誉を受ける権利も放棄されたことになります。責任を拒否したものに権利はありますまい。

人間は生まれる場所も生まれる時も選ぶことが出来ないが故に歴史に対して責任がある、と考えうるときはじめて人間が「人間」になるのであって、「おれは生まれた場所も時も自分で選んだのではないから責任はない」といえば、これは獣に等しいはずですが、そう考えうること自体が、実は、恵沢を受けている証拠なのですから、この態度は「栄誉と恵沢は当然のこととして受けるが、罪責を負うことは拒否する」ということになります。

少なくとも聖書の世界では、これを最も恥ずべき態度と考えますので・・・・・なぜなら、「財産は相続するが、負債はおれには関係がない。なぜならその借金は、おれの幼児の時のもので、当時何も知らなかったからだ」と言うに等しいからです。・・・・・

罪なき者が他人の罪を負って打たれ砕かれる。この時はじめて、負った人は負わせた人びとを同胞と呼びうる。すでに「他人」ではない。従って同胞としてその罪を糾弾する権利があると同時に、その罪かで苦しめられた人びとに謝罪する権利も生じる。そしてそれをすることによって和解が成立するーーーー(引用終り)    

 

>須賀:まさにそう思います。>苅谷さんの答えはとても内向きに聞こえる一方で、自分たちの連続性の中から取り出したインサイトや経験、問いといったものが、結局は、普遍への第一歩であり、グローバルにもつながりうる知見なのだと感じました。  

 

同感です。     

 

>苅谷:はい。まさに今ご指摘いただいたように、下手をすると非常にわかりやすいナショナリズムに回収されてしまう危険性もあります。 >今回、本を書く過程で、いろいろな国の近代化に関する知識を集めました。 (6/7に続く)   

 

 

 

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苅谷剛彦氏 4/7  

2021-02-12 02:11:16 | 文化

 

>マルチボーカルから、モノボーカルへ        

>須賀:そのような態度を可能にすることこそが、教育の役割だということでしょうか?

>苅谷:はい。まさしく、そのような判断を下すための知性というものを人類は作り出してきたのだと思います。>このような「知に対する謙虚さ」が、今から100年前、明治維新から、わずか半世紀ほどしか経っていない日本で提出された報告書の中に示されていたということこそ、私が1回目の近代化と位置付ける、「追い付き型近代」のキャッチアップの中で、日本がある種の高みに到達したということを表しているのではないかと思います。   

 

そうでしょうね。現状報告をしていれば人は謙虚になりますね。      

 

>明治維新から大正を経て、昭和初期にそのような知的にフェアな状態が許された背景には、日本がこの時期に、ある種の近代化の水準に到達したことがあると思いますが、その後、1930年代になると、軍部の影響力が強くなり、言論が統制され、フェアネスは失われてしまいます。

 

わが国のフェアネスは付け焼刃でしたね。  

 

>日本全体が多声的な状態から単声的な状態へと変わってしまうんです。

 

日本人の短所ですね。個人が世界観を持っていないので、付和雷同になりやすい。現実の世界の内容が唯一であるように、日本人の内容が唯一になる。

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。       

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。

 

>須賀:マルチボーカルだったものが、モノボーカルになってしまうんですね。  

 

我が国の昭和時代は ‘唱和’ の時代に変質しましたね。   

 

>苅谷:はい。ですから、どのような人を育てるべきかというご質問に立ち返えれば、「知に対する謙虚さ」をベースに、教育の目的、ゴールは何なのかを問うことから議論をスタートしなくてはならないと思います。

 

無知の知’ (I know nothing except the fact of my ignorance.) ですね。

 

>目的、ゴールのない空理空論から、理想を立てるのではない。  

 

そうでしょうね。世界観がなければ、ゴール ‘あるべき姿’ の内容も無い。  

 

>拙著『追いついた近代 消えた近代』の中では「内部の参照点」という言葉を使いましたが、日本の近代の150年以上の歴史の中で、私たちがやってきたことを知的財産として使い、そういったことから得られるゴールセッティングが必要になります。 

 

そうですね。ゴールセッティングがないと、手段の目的化が起こりますね。   

 

>苅谷:外から理想を持ってきて、日本人にはこれが足りないから、これをやらなくてはならないという論法を続けてきた今までの教育政策というのは、これまでの言い方をするならば、「謙虚さ」に欠けていたと思います。  

 

それは猿真似の方法でしたね。   

 

>知に対して謙虚であることによって、自分たちがこれまでの歴史の中で行ってきたことに向き合い、そこから取り出すことができる「内部の参照点」を見つけられるはずです。

 

内部の参照は現実直視ですね。日本語には時制というものがないから、過去の内容は疾く風化します。日本人は過去を過去そのものとして認識することが難しいですね。

 

>須賀:なるほど。私たちはそのような知的財産をまったく活かしきれていません。

 

誠に残念な事実ですね。   

 

 

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