> 要するに、自分たちの永遠だと信じていた世界は相対的であると理解する必要があったのである。
千変万化する現実の世界は相対的ですね。
>しかもこの場合に一番決定的で問題だったのは、『世界は(自分たちによって)変えられる。』ものではなく、『世界は(誰かによって)変わる』ものだった経験であろう。
意思のない人たちには世界は変えられませんね。だから、日本人は傍観者になるしかない。
> 敗戦による一種の革命は外部から突然きて起きた変化として受け止められたのであるから、それなら本居宣長の『もののあわれ』や『無常観』が再確認されたのだろうか。
天災も人災も意思のない人たちにとっては同じ自然現象に見えますね。
> 日本以外の他の国々では、歴史的意識は一つの世界をその内側から壊して別の世界を築きあげる経験の蓄積でしか獲得されない。
彼らはそれぞれに自分たちの意思を示してきたのでしょう。
>そのときには古い現在の権威は、来るべき新しい権威によって否定される。 >しかし1945年の日本の状況はそうではなかった。
日本人の権威は言語に基づいていますからね。わが国の序列権威を否定するのは難しい。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがありますからね。’上と見るか・下と見るか’ の判断なくしては日本語は使い物にはならない。だから、世俗的な序列権威を否定することは難しい。
> 来るべき新しい権威だった筈の『民主主義』は不完全にしか構築されなかったが、(永遠と信じられていた)旧来の秩序や生活の基盤となる権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。
序列メンタリティは不動ですね。ただ、世俗の範疇が変化した。
>このときに大多数の国民の意識の中で失われたのは『天皇の絶対的権威』ではなくて全般的な『権威そのもの』だった。
世俗の権威は崩れますね。しかし、序列そのものに対する日本人の価値観は揺るがない。
> 日本人の間に、民主主義の歴史相対主義ではなくて、目の前にあるどういう価値も信じないという末世的な現象が起きるのは当然の成り行きだった。
無哲学・能天気ではどうしようもありませんね。これは、非現実 (考え) の内容を文章にすることができない日本語の運命でしょう。
>この権威一般に対する国民の不信感は深刻で、今の新しい最高権威である戦後『民主主義』自体にも向けられたのは当然な成り行きであった。
無哲学・能天気であることは、大変なことですね。 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)
> 敗戦後に日本国でも民主主義が根づいたが、それは一面的表層的現象にとどまり、それ以前の社会の天皇の権威に代わる、『あらゆる価値を支える原理』としてでは無かった。
わが国には、個人主義が根付いていないから、民主主義も軽薄なものになりがちですね。
> 天皇を中心とした世界の崩壊により生まれた(民主主義原理を含む)権威一般に対する拭いがたい不信感(権威一般が信頼されない)虚無的な現在の危機的状況の克服に、日の丸君が代の強制や極右政治家安部晋三の復古主義(レジーム・チェンジ)などの、はるか昔に崩壊してしまったもの(天皇の権威)の復活によっては絶対に解決出来ないのは自明の理である。
昔の仕来りに逆戻りはできませんね。外国人の価値観が日本主義の邪魔になります。
(略)
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