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野口雄志氏  

2024-11-28 17:33:58 | 文化

THE GOLD ONLINE   >「頑張っているから」「いつも残業しているから」日本企業の<あいまいな評価基準>が払う、大きな代償   >THE GOLD ONLINEによるストーリー・   >3日・   

>日米それぞれの企業では、社員の評価基準が大きく異なります。   

>評価基準の違いによって、組織のパフォーマンス力にも差が生じるようで……。   

>本記事では、野口雄志氏の著書『最大の成果をあげる心理的安全性マネジメント 信頼関係で創り上げる絶対法則』(ごきげんビジネス出版)より一部抜粋・再編集して、日米企業間の文化の違いについて解説していきます。   

>日米における「評価基準」の違い   

>「頑張っているから」とか「いつも残業しているから」という理由で人を評価することはありませんか?    

>もちろん仕事に対して真摯に誠実に働くことは、どの国でも評価されます。   

>しかし、単なる感情的な理由での評価は、属人的な判断や主観が入ってしまうため、公平でなくなるおそれが十分あります。   

>私が経験した企業では、基本的には絶対的評価を用いていました。   

>ただし、その目標となる数値はチームや個人が申告した数値を精査後に目標としますので、わかりやすい絶対的評価となっていたわけです。   

>心理的安全性の高い環境を目指す場合に、構成員の評価についても重要な要素となります。   

>ここではアメリカでの絶対的評価がなぜ効果的なのかを説明しましょう。

>米企業の絶対的評価が効果的な理由   

>まずは、目標の設定の明確化がパフォーマンスを向上させるのです。   

>従業員や学生に明確な目標・基準を設定し、それに向けて努力するよう促します。   

>個人が自分の成果や能力を客観的に評価し、目標に向かって取り組むことで、パフォーマンスが向上する可能性があります。   

>個人の働く成果としてのパフォーマンスは、やりがいや充実感をもたらすばかりではなく、組織にとってもよい成果としてあらわれてきますので、高いパフォーマンスを常に目指せる評価制度が必要になるでしょう。   

>高いパフォーマンスをあらわすためには、次の目標設定やフィードバックなどもセットとして対応します。   

>次に、公平性と透明性の効果です。   

>絶対的評価は、報酬や昇進の決定において公平性と透明性を高める効果があります。   

>個人の成果や実績が客観的な尺度に基づいて評価されるため、個別の評価が一貫性をもち、バイアスの影響を受けにくくなります。   

>その点、「よくやっている」などを評価基準とした場合には、誰が決めるかによって尺度が違ってくるため、不公平感があらわわれてくるのです。   

>このように、絶対的評価がもたらす効果は心理的安全性を高めるうえで必須となります。   

>日米における「責任転嫁」の違い   

>責任の取り方や責任転嫁には、日本とアメリカの文化や社会慣習による違いがあります。   

>それぞれの国の特徴を挙げてみましょう。   

>日本のビジネス文化では、問題があった場合でも、リーダーや上司が全体の責任を負うことが多いです。   

>「責任者出てこい」と必ずいわれます。   

>この場合には、直接指示を出し、手を下した人ではなくても組織全体の信頼を維持するため、個人の責任を転嫁せずに組織全体での対応を重視します。   

 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’  (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて ) 

組織全体での対応とは、兎角この世は無責任のことでしょうか。   

 

>問題が発生した場合、日本ではとにかく謝罪の文化が根強く、失敗を率直に認めることが重要視されることでしょう。   

 

そうですね。謝れ、謝れ。誤ってしまえばそれで終わり ですね。     

 

>その後、改善策を検討し、同じ失敗をくりかえさないよう取り組む姿勢が求められます。   

>では、アメリカにおいてはどうでしょうか。   

>アメリカのビジネス文化では、何か問題や失敗が起きたときは、個人の責任が重視されることが多く、その個人が責任を取ることが一般的です。   

 

アメリカ人には意思がある。意思の内容は文になるので意味がある。意思のある人間には責任がある。だから信用される。   

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任もない。だから信用できない。      

 

>常に透明性が求められますので、失敗を隠すことなく公に認め、個人や組織が自分たちの行動を検証し、改善する文化があります。   

 

意思は未来時制の文の内容がある。だから、その内容には意味がある。そして内容が透明である。それで公に認められる状態になる。      

日本人には意思がないが恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意はバラバラな単語で表され、文にならないから意味がない。だから失敗を隠した状態になる。公に認めることはならない。      

 

>アメリカのビジネス環境では、リスクを受け入れて新たなアイデアやプロジェクトに取り組む姿勢が奨励されるため、失敗を経験して学び、次につなげることが重要視されます。   

 

そうですね。失敗は成功の母ですね。(Failure teaches success.)      

 

>失敗したことばかりに目を向けるのではなく、失敗や問題をどのように次につなげていくかを考えているのです。   

 

そうですね。彼らは転んでもただでは起きないですね。   

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り   

 

>一般的な傾向として、日本では組織全体の連帯感や調和を重視する一方、アメリカでは個人の責任や成長を重視する文化が影響しています。   

 

日本人には責任がない。だから日本では組織全体の連帯感や調和を重視して責任がうやむやにされます。アメリカ人には責任があるので、個人の責任や成長を重視する考えが支持されます。     

 

>野口 雄志   

>グリットコンサルティング合同会社   

>代表   

>※本記事は『最大の成果をあげる心理的安全性マネジメント 信頼関係で創り上げる絶対法則』(ごきげんビジネス出版)の一部を抜粋し、THE GOLD ONLINE編集部が本文を一部改変しております。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。       

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。

「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)    

 

日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)          

 

 

 

 

 

 

 



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