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国家神道  

2025-02-15 10:56:35 | 文化

>現代ビジネス   >「国家神道」は本当に「戦前のイデオロギー」だったのか…意外と知られていない「驚きの真実」   >辻田真佐憲 (文筆家・近現代史研究者) によストーリー・   >3時間・   

(略)   

>国家神道の「間違ったイメージ」   

>ここで大切なのは、このような「祖先より代々」という物語はけっして政府や軍部から強制されただけではなかったことだ。   

 

そうですね。民族の歴史そのものですね。      

 

>戦前の神道はしばしば国家神道と呼ばれる。   

>そのことばには、あたかも政府が神社を管理して、国民を教化・煽動するプロパガンダをほしいままにしていたというイメージがこびりついている。   

>だが、最近ではそのイメージは一面的だったと指摘されるようになってきている。   

>というのも、「惟神(かんながら)の大道」ともいわれた神道の国教化は早くに断念され(神社神道は国家に特別扱いされる代わりに、ほかの宗教の「信教の自由」に抵触しないように「宗教ではなく国民的な道徳・倫理」とされた)、その後の神道行政もけっして一貫性をもっていなかったからだ。   

 

神道は魂の救済を必要とする人々の助けにはなりませんでしたね。尤も日本人には病める魂の持ち主は居ないでしょうからね。      

 

>神社を監督する官庁は明治時代だけで、神祇官、神祇省、教部省、内務省社寺局、内務省神社局と目まぐるしく変化した。   

>そのうち、神社のみを管轄した官庁は初期の神祇官、神祇省のみ。   

1872(明治5)年に設置された教部省は仏教などの宗教と抱き合わせであり、それ以降は内務省の一部局扱いだった。   

1900(明治33)年に設置された内務省神社局は神社のみを管轄する部局だったものの、省内では三流局扱いされた。   

>「国家の宗祀」とされた神社も十分な公的支援を受けておらず、官費の支給は不十分で、神職も明治なかばまでにはほとんど官吏ではなくなってしまった。   

>とくに府県社以下の諸社にたいしては、国家の保護はほとんどなきに等しい状態だった。   

>「下からの参加」としてのプロパガンダ   

>そもそも国家神道ということばも、戦前ほとんど使われていなかった。   

>これは、大東亜戦争の敗戦後、GHQが発した神道指令によって広まったものだった。   

>とはいえ、それは神話の影響力が小さかったことを意味しない。   

>当時の休日が、宮中祭祀と分かちがたく結びついていただけではない。   

>これまでみてきたように、神功皇后をうたった軍歌やヤマトタケルとの比較は、民間から率先して出されてきた。   

>プロパガンダの研究でも、「上からの統制」だけではなく「下からの参加」にも注目しなければならないといわれている。   

 

そうですね。日本人は上からも下からも序列により統制されていますね。礼儀は序列作法から成り立っていて、日本人はお互いに礼儀正しい人間であることを要求されている。     

序列は日本語文法の階称 (hierarchy) により成り立っている。   

だから日本人は日本語を獲得した時から、序列メンタリティを持っていると考えられている。   

 

>プロパガンダは、民衆を教化・煽動したい政府や軍部が発するだけでは十分な効果を発揮できない。   

>かならずそこに便乗する企業や、軍国美談を消費しようとする民衆の自発性を必要とする。   

>いいかえれば、プロパガンダは足し算ではなく掛け算であって、ひとびとがもともともっている欲望を倍加させることはできても、火のないところに煙を立てることはむずかしい。   

 

そうですね。日本政府のプロパガンダは日本語の文法に即していますね。そうでなければ現実界では効果がない。   

 

>神話についても同じことが言えるのではないか。   

>政府、軍部、企業、民衆。   

>さまざまなプレイヤーが複雑に絡み合いながら、神話が進んで消費され、ときに国威発揚や戦意高揚に結びついてきた。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それがむやみに価値あるものと思い込みます。   

 

>ゆえにこそ、警戒すべきなのである。   

 

そうですね。日本人はさしずめ序列バカでしょうね。リーズン (理性・理由・適当) が見捨てられている。      

 

>本書でカルチャーのひとつとして軍歌を盛んに引用した理由もここにある。   

(略)   

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の獲得は難しい。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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