>「人から人へ技を伝えるというのは容易なことではありません。言葉で技や感覚を伝えることは不可能です。
そうですね。言葉は言語活動であり、技と感覚は非言語活動ですからね。同時に語ることはできませんね。
>こうしたことは本文で詳しく話しますが、言葉や数字やデータ、映像に頼ってものを学んできた若者にそのことを教えるだけでも簡単ではないのです。
そうですね。
考え (非現実) は文章であり、見ることができない内容です。だから、理解が必要です。
技と感覚は、現実の中にあり、’見ること・感じること’ ができる内容です。非言語の内容は ‘言語と理解’ には無関係です。
非言語の励みは、芸術家 (音楽・絵画・彫刻など) の励みと同次元です。意味もなければ・意義もない。ただ、鑑賞者の勝手な解釈は存在しますがね。これは、忖度 (推察) というのかな。非言語の芸術家の生活は、我々日本人の言語環境に似ていますね。
>学校では先生が教科書を使い、黒板を駆使して教えてくれます。>子ども達は教わることが当たり前だと思っています。
先生が教えてくれる文章内容には、子供の理解が必要ですね。
>教わればわかると思っています。
現実の内容は見ればわかりますが、考え (非現実) の内容には理解が必要ですね。見ることができない。ただ聞いていてもわからない。
>教わらないことは知らなくて当然です。
自ら考えだすことは、非常に難しい技ですからね。考え (非現実) を生み出す技術は特殊でしょうね。成功すれば、博士になれるでしょう。
ただ今わが国は、深刻な人手不足に陥っています。でも、頭脳不足といった話はついぞ聞いたことがない。頭脳労働は、日本人には適さないからでしょうね。頭を働かせないと、過当競争に陥りがちですね。この調子では、世界規模の大企業はわが国には出現しないでしょう。我々は、わが国の現状を考え直す必要があるのではないでしょうか。
>中学や高等学校は一年が経てば進級し、三年経てば卒業します。>学校には期限があります。>生徒はみんな同じ能力があると設定され、同じ方法で、同じ期間学びます。
残念ながら、個人の個性は無視されがちですね。
>進級するには最低、決められた点数を取ればいいのです。>その点数を取るためには近道があり、早道があり、要領があります。>学校ばかりではなく、塾も予備校も、家庭教師も、それを教えてくれます。
そうですね。それは、処世術 (現実) ですね。処世術ばかりで、哲学 (非現実) がない。だから、雄弁がない。
>このすべてが私たちの世界では、技や感覚を師匠から受け継ぐための障害になるのです。
非言語の活動に専念すれば、当然なことながら言語活動は障害になますね。
>少なくともこの方法に慣れた子どもに、技を教え、感覚を身につけさせることは無理です。
言語活動と非言語活動を区別することは、子供には難しいでしょうね。これは、大人でも難しい。
>技も感覚も大工の考え方も、本人が身につけるものなのです。>体に記憶させる、体で考える。
そうですね。その要領はアニマルの生活と同じですね。非言語の生活の中にある。
>このことを理解してもらうには、親方や師匠と一緒に暮らし、一緒に飯を食い、一緒に働くしかないと思っています。」
そうですね。西洋の言語教育でもでも、寄宿学校 (boarding school) の長所が認められていますね。生活を共にすることには、教育効果が認められますね。
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