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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

漢字

2018-04-13 00:46:34 | 文化

>第二次世界大戦後、1946年3月、アメリカ教育使節団がGHQ最高司令官マッカーサーに提出した報告書によると、「国語の改革」と題して、膨大な学習時間を費やされ、日本の民主化に必要な知識習得を阻んでいる「漢字」を全廃し、ローマ字を採用すべきであると、断言しているのです。

そうですか。アメリカ人は、いつも研究熱心ですね。

>アメリカは、特に戦争で目の当たりにした日本人の「狂信性」の根源が漢字にあると考えていたようです。

漢字は、漢人 (中国人) の考えを示していますからね。アメリカ人が目の当たりにした日本人の狂信性は、きっと戦前の洗脳教育に因るものでしょう。

>そしてその前の1945年11月に郵便報知新聞の流れを汲む読売報知新聞が「漢字を廃止せよ」という社説を出しました。>「漢字がいかに我が国民の知能発達を阻害しているか」>「日本の軍国主義と反動主義とはこの知能阻害作用を巧みに利用した」>「漢字には封建的な特徴が濃厚だ」>と漢字を戦犯として弾劾している。

漢字には、非漢字圏の人々の考えは示されていないでしょうからね。表意文字に対する不信感が色濃く現れていますね。

>さらに民主主義と文字改革は深い関係があり、「漢字を廃止するとき、我々の脳内に存在する封建意識の掃討が促進される」として、これまたローマ字採用を主張しているのです。

漢字は、漢人 (中国人) の考えを示すためのみに造られました。彼らは、非漢人の考えを表すために漢字を作りませんでした。ですから、横文字文化圏から知識を吸収する目的には漢文は都合の悪い文章です。

>政府の御用新聞として、戦争に加担したことの反省もなく、次の新しいボス(アメリカ)に尻尾を振り、その戦犯を「漢字」に押し付ける恥知らずな点は今のマスコミと同じですが、実際、昭和21年に当用漢字→昭和56年常用漢字と少しずつですが、使用する漢字に制限が加わっています。

技術革新により新造語が多くなりつつあるのに、漢字の数は逆に減少ですね。漢字は情報革命に役に立っていないようですね。

>私も漢字テストに苦しんだ記憶は未だ残っていますが、漢字がもたらす効用については、るいネット「漢字から学ぶ(リンク)」「漢字が同化能力を伸ばす(リンク)」「漢字を感じる♪(リンク)」に分かりやすく書かれており、無味乾燥な記号の羅列の組み合わせよりも、それぞれに意味がある漢字の方が優れていることは、仕事で報告書や提案書を作成するときに実感します。

そうですね。道路標識の様なものですね。漢字を使えば、その読み方を知らなくてもその意味が分かるとうことでしょうね。
しかしながら、議論をするためには、会話の能力が必要ですね。言語の習得には、音読の効果が大であることが知られています。ですから、表音文字 (alphabet) が役に立ちます。特に非漢字圏から来た研修生の人たちには、漢字の学習は負担が大きいです。短期間に日本語の音読ができることが、日本社会に適応することに役立ちます。そして、研修効果が高まります。日本の技術を世界に広めて役立てるためには、日本語を世界の第二言語にする必要があります。日本語の話者の数を増やすことが必要です。容易に音読できる日本文が必要です。さすれば、日本の技術は広まり、国際間の議論も盛んになり、日本の規則は世界の規則として通用することになるでしょう。

>日本人は、漢字、ひながな、カタカナを駆使して、そもそもの意味以上にそこから滲み出るニュアンス、わずかな差異も伝える文化を持っています。

そうですね。漢字・平仮名・カタカナの文章は、非言語 (音楽・絵画・彫刻など) の芸術に対する鑑賞のようなものですね。鑑賞の鋭さには大きな個人差が有りますね。これは非言語の特徴です。

>それを広め継承することも、情報を伝える媒体の役割だと考えます。

逆に言語は、話し手の正しい (矛盾を含まない) 作文と聞き手の正しい理解に因らなくてはならないでしょう。つまり、文章の理解に個人差があってはならないということです。ですから、我々は、言語活動と非言語活動の区別をよくわきまえて、活動に励む必要があるのであります。





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現代史

2018-04-12 18:02:25 | 政治
> 【GHQとは何だったのか?日本人が「現代史を知らない」本当の理由】リンクより
> ・・・・・・・・・・
> サザンオールスターズのピースとハイライトという曲に>❝ 教科書は現代史をやる前に時間切れそこが一番知りたいのに何でそうなっちゃうの? ❞>という歌詞があります。>痛切に今の教育制度を皮肉った歌詞になってますが、確かにほとんどの人がまともに現代史の授業をたっぷり受けて勉強した経験はないですよね。

そうですね。私にもないですね。

>これ、なぜだか考えたことありますか?>これには戦後のGHQと日教組との関わりに深い関係があったのです。

大いに関係が有るでしょうね。戦後はGHQも日教組も強大でしたからね。

>●日本人が近代史をよく知らない衝撃の理由
>まずこの問いかけに対しいろいろ教育事情を調べたところ面白い共通点がありました。>一番にあがる理由が 受験に出ないから なんです。> 信じられますか?

信じますね。日本人にとって、教育とは処世術を学生に授けることですからね。無くて済むものならば、それに越したとはありません。

>日本人が歴史を学ぶ上で最も大事な現代史が受験に出ないから学生は勉強しない、というめちゃくちゃな理論。

それが処世術の本質です。現実に即した一つの生き方です。

>本来日本人が知らなくてはならない歴史教育の本質を一切学ばせない公正な教育を放棄した教育制度。

とかく、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は一人も出なかった。責任観念がまるでない。だから、歴史教育にも、その重要な内容が無い。

>これは普通ではない国の教育方針、現場の状況が見えてきますよね。

無哲学・能天気の国の常でしょうね。

>ただ、面白いことに教育現場の先生は教えるべきだが、この理由でムリと葛藤している方も多いようです。

葛藤は、葛藤としてずっと続くでしょうね。解決はしないでしょうね。

>では、なぜ受験で大切なこの部分を削り、鎌倉時代やら戦国時代やら江戸時代やらに力を入れて歴史を学ばせるのか。

戦前からやってきた教育内容だからでしょう。戦前には、敗戦の内容はなかった。おかげで今日でも時代劇には人気があります。

>なぜ日本人は民間人の大量虐殺をして謝罪もなく完全な国際法違反なのに罪にも問われないアメリカに対し、こうもすんなり受け入れてアメリカに憧れ(特に年配の方)すら抱いているのか。

力は、正義ですからね。Might is right. 特に年配の方は、憧れを抱かなくてはならないでしょうね。

>ここに敗戦国日本の複雑な事情が見え隠れしていたのです。

過ちは、繰り返しませんから。でも、何が過ちであったのか、それは学んでいませんね。

>●GHQとは恐ろしい存在だったことがよく分かる事実
>戦後に日本を占領下にした米国GHQの一番の目的は “日本人から愛国心を奪い、日本人の精神を弱体化させる事” が一大ミッションでした。

勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ(ヘルマン・ゲーリング)。

>最近ではよくGHQの洗脳政策とも言われていますね。

そうですね。考える習慣のない人達には、洗脳政策は特に有効ですね。

>GHQが一番力を入れたのが教育制度改革です。>この政策のため米国教育使節団を呼び寄せ、愛国心、天皇崇拝を持たせる戦前までの教育を一掃させました。

天皇を頂点とした我が国の序列体制は、日本人の心のよりどころですから、教育とともには一掃されませんね。我が国民の帰属意識の支えです。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。日本語を使う場合には、’ものの上下’ を考えなくてはなりません。天皇が頂点であって、その下に諸々が居て、さらに下々がいる序列体制です。この序列に加わらないものは、外人・非国民となります。自己主張のない人達には、自分が仲間外れにされることが恐ろしい。

>簡単に言うと、『日本人が知るべき戦争の歴史(現代史)を学ばせず何も考えさせないアホな日本人を作ってしまおう』という大掛かりな教育戦略を作ったんですね。

日本人には過去が無い。過去は疾く風化する。日本人には未来が無い。一寸先は闇である。有るのは、目の前の事実だけです。ナウな感じのするのが日本人です。考える人には、過去・現在・未来の三世界に対応する自己の内容がある。こうした世界観は、文法の中の時制 (tense) により作られる。だが、日本語の文法には、時制というものがない。だから、日本人は、自己の脳裏に過去・現在・未来の内容を展開することが出来ない。仏教徒といえども、前世・現世・来世の内容を自己の脳裏に展開することは出来ないのである。だから、日本人は、考え人にはならない。庶民は、瞑想に耽ることが無い。

>この教育方針を実行するには、それを組織化、形式化させる必要があり、そのために誕生したのが日教組です。>ほとんどの公立学校はこの日教組による偏向教育指針で現近代歴史観の乏しい日本人を作り上げていって現在に至っているわけです。

日教組は、今では時代遅れになったようですね。

>細かい歴史はここではあげませんが、米国による無差別な日本中の大空襲(よく東京大空襲は耳にしますが、空襲は大都市だけではなく多くの地方でも行われ、推定で30万人以上の一般人が被爆死。その中にはたくさんの子供達も殺されているのです。

敵機の襲来を防げない政府は、国民の安全を考えて早く手を挙げたほうが良策でしたね。

>詳しくはコチラ)、仕上げの原爆2発投下で信じられない大量の民間人殺戮、日本兵捕虜に対する不当な扱い、戦後の理不尽、公平性を欠く東京裁判など現代史の真実を紐解くとアメリカには都合の悪い国際法違反行為ばかりがどんどんでてきてしまうのです。

力は正義ですね。負けた側には、正義が無い。だから、我が国も、戦争を始めたのでしょう。

>戦後間もない時期にその時代の勉強をすれば、現存する被爆経験者や記録も多数に及ぶためアメリカの行った行為がどんどん明らかになり、米国=悪のレッテルを貼られ、日本人に再び反米精神を芽生えさせてしまいます。

戦争に勝てば、歴史は書き換えられます。そのための戦いです。彼を知り己を知れば、百戦危うからず。

>そうなると都合が悪くなるアメリカGHQが行ったのが現代史の思考停止戦略と侵略戦争への自虐性思想へのすり替え教育でした。

日本人には意思が無い。意思のない人には、加害者意識というものがない。つまり、罪の意識が無い。
罪の意識のない人に自己の行為の反省を迫れば、自虐を強いることになる。だから、アメリカGHQのWGIP (War Guilt Information Program) は、成功しなかった。

>そして日本人に西洋の食文化や娯楽など楽しいことをたくさん与えて快楽思想を植え付け、気がつけばアメリカ人万歳!アメリカのものは凄い!最先端のアメリカ人に憧れる~!という洗脳政策をしたんですね。

そうでしょうね。考える習慣のない人達には、洗脳政策は効果を発揮しますね。

>そして今日。いまの日本人を見れば一目瞭然です。恐らく正しい知識で現代史を詳しく語り、海外でも対等に話ができる人はどれくらいいるのでしょうか。

無哲学・能天気の日本人には、対等な話はできませんね。

>完全にGHQにしてやられたのです。

そうですね。意思のない国民には、常に受動的態度しか残されていませんね。

>グローバルだの何だの言う前にこの現代史に無知な日本人が山ほどいるのは世界的に恥ずべき問題だと思わないといけないですね。

そうですね。日本人にも、英米流の高等教育が必要ですね。

>本当の現代史(アメリカがやってきた史実)を知る日本人ならば、隣国の反日問題や安全保障にいちいちコメントを出す米国に「お前らに何も言われる筋合いはない!」と思わないといけないのでは!?

お互いに、自由な意見を交換することが必要ですね。

>教育とはそれだけ大事なことなのだと改めて思い知らされますね。

そうですね。考える人間を育てることが必要ですね。それには、英米の高等教育が必要ですね。
>・・・・・・・・・


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志と夢

2018-04-11 17:25:07 | 文化
>「なぜ、志(こころざし)が夢に取って代わられたのかは分かりませんが、夢と志では、イメージに違いが出てきます。」

そうですね。

>こう語るのは、佐藤一斎(江戸末期の儒学者)の研究者である栗原剛氏である。>佐藤一斎は、著書『言志四録』で有名であり、この書は西郷隆盛の愛読書でもあったという。>少にして学べば、則(すなわ)ち壮にして為すことあり>壮にして学べば、則(すなわ)ち老いて衰えず>老いて学べば、則(すなわ)ち死して朽ちず>『言志四録』」のテーマは、「志(こころざし)」である。> 一斎の教えは、幕末から明治維新にかけ、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えたと言われている。>そして、今なお指導者のバイブルとして愛読する人は絶えない。

そうでしょうね。

>日本人は「志(こころざし)」に生きていた。

そうですね。日本人は、意気と度胸の人生を生きてきましたね。

>それが、いつの間に「夢」に変わったのだろう?

それは、敗戦を境にして変わったのでしょう。

>「志」と「夢」の違いとは?

志は恣意、夢は世界観でしょう。

>「志(こころざし)」という言葉には、どこか「一直線な鋭さ」を感じる(心を刺す)。

そうですね。恣意は、鍛えられて、意地・根性・大和魂になる。皇軍兵士の成り立ちと同じです。夢もなければ、希望もない。
日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものが無いので、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。だから、恣意を利用するしかない。

>それに対して、「夢」という言葉には、どこか「漠然としたとらえどころのなさ」を感じる。

そうですね。夢の内容を語った文章 (1 and 2)について、考えてみましょう。例は、Martin Luther King Jr. の ‘I have a dream’ の speech の一部です。
文章 1. Little black boys and black girls will be able to join hands with little black white boys and white girls as sisters and brothers.
文章 2. かわいい黒人の男の子たちと女の子たちが、かわいい白人に男の子、女の子たちと、兄弟や姉妹として、手をつないだ輪へ一緒に加わることが出来るようになる。

1も2も夢の内容です。2 は1 の訳ですが、1は未来時制の内容であります。英米人の夢は考えの内容であり、非現実であります。2は、現実の内容であります。 日本語には、時制 (tense) というものがありません。訳文は、通常同じこと言っていると考えられていますが、2 に対しては、’そんなこと言っても駄目だぞ。現実は、そのようにはなっていない’ という混ぜ返しが効きます (戯れに、差し出口をして、他人の話を混乱させる)。これで、不毛の議論は終わりを迎えます。英文の夢は自己主張として成り立つが、和文の夢は疑問の余地が多く、空想・妄想に近いのであります。ですから、日本人には自信もなく、自己主張も少ないです。訳文には、文法的限界というものがあることが分かります。

>また、「志」が「心の内」にあるように感じるのに対し、「夢」は「自分の外側」にあるような感じがする。

同感です。志は、恣意であり、文章になりません。ですから、意味もなければ、矛盾も指摘できません。胸の内・腹の底にたまります。’お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか’ と言う人もいます。
英米人の夢は未来時制の文章内容でありますから、自己の世界観として公言できます。もちろん、そうした世界の情景は、自分の外側に存在しますね。

>「どちらが『実現可能』か?」と問われれば、迷いなく「志」だと答えたくなる。

‘来たるべき世界’ の実現には、他人の協力が不可欠ですね。志は、公言無用で、孤立無援であるから社会建設に対する協力者も得られないでしょう。

>「志(こころざし)」は実に日本的な感覚に近く、「夢」はドリーム(Dream)と言ったほうがシックリくるほどにアメリカ的である。

そうですね。アメリカ的な夢を見る人は、ノーベル平和賞クラスの業績になる事もありますね。規模の違いが歴然としますね。

>いつから「志」が「夢」に変わったのかは知る由もないが、戦後のアメリカ支配以降と考えても大きな誤解はなさそうだ。

そうですね。アメリカ支配は、日本語脳の中にまでは及びませんでしたね。

>台湾元総統の李登輝氏は語る。>「戦後の日本人は、アメリカの『骨抜き計画』によって、『日本精神』を失ってしまった。」>「台湾には、今も『日本精神(リップンチェンシン)』という言葉がある。」>「この言葉は、真面目、勤勉、正直、無私などの総称である。」

日本人の気性をよく表していますね。李登輝氏は、戦前の教育を受けた人ですね。

>李登輝氏によれば、戦後の日本人には、すでにアメリカ精神の卵が産み付けられており、「日本精神」は食い尽くされてしまったというのだ。>改めて「志(こころざし)」という言葉を眺めてみると、なかなかに良い言葉ではないか。

志が恣意であっては、広く外国には通じませんね。孤立無援になりがちですね。

(略)
>本人がその気になりさえすれば、いつでも息を吹き返してくれるであろう。

英語と日本語の文法的差異は、乗り越えられませんね。英語と日本語の二刀流を考えるより外に改善の方法は無いでしょうね。

>「日本精神」は、どんな寄生虫にも侵されることのないものだと思いたい。

そうですね。日本語脳は変えられませんね。

>最後に、「志(こころざし)」の大家、佐藤一斎氏の言葉を。>志あるの士は『利刃』のごとし。百邪も辟易(へきえき)す。>志なきの人は『鈍刃』のごとし。童蒙も侮翫(ぶがん)す。

利刀と鈍刀の比較ですか。

>「志(こころざし)」をもった人物は、鋭く鍛えられた刃(利刃)のように、あらゆる邪(百邪)を一刀両断しても、なお鋭く、邪なる者は近づくことすらできない。

鍛えられた恣意のことですかね。

>しかし、「志」がなければ、その刃は一目で切れない刀(鈍刃)であることが分かり、子供(童蒙)にすら馬鹿にされてしまう(侮翫)。

ただの私意・我がまま・身勝手のことですかね。そうでしょうね。

>「志(こころざし)」には、「公明正大」な響きがあるが、「夢」は、ややもすると、「個人的な欲望」に成り下がりかねないところがあるように思う。

個人的な欲望は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) の方にあるのでしょうね。夢の内容は公言できます。公言できる内容は、恣意ではないでしょうね。



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武士道

2018-04-09 22:16:53 | 教育

>武士道こそ日本の魂とする新渡戸稲造が説いた内容を以下に抜粋する。
>●「武士道の渕源」より~「武士道は『論語読みの論語知らず』的種類の知識を軽んじ、知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視した」

日本人には世界観が無いから、行き着く先の世界を想定していませんね。それで、移行すべき世界への建設的な励みが見られない。

>●「義」より~「義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはない」

卑劣な行動・曲がりたる振る舞いが糾弾されるが、真っすぐな内容というものが明らかでない。ただのゲーム感覚であるのか。

>●「勇、敢爲堅忍の精神」より~「勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く『義を見てなさざるは勇なきなり』と」

日本人には、自己の ‘あるべき姿’ を持っていない。意思が無いから優柔不断・意志薄弱である。

>●「仁、即惻隠(そくいん)の心」より~「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられた」

序列意識に根ざした感覚で、相手を見下している。

>●「礼」より~「作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。

日本人の礼儀作法は序列作法であるから、片苦しいものになっている。序列なきところに礼儀なし。理性が無いから感性ばかりに注意が払われている。

>それは又、正当なる事物に対する正当なる尊敬を、従って、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する」

世俗の上下にこだわることにより、個人的な尊敬の念を表す余地が無い。

>●「誠」より~「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。

序列社会においては、言論の自由は無い。面従腹背でなくては生きてゆけない。

>…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障であった。

恣意 (私意・我がまま・身勝手) を鍛えて、意地・根性・大和魂に育てる。リーズン (理性・理由・適当) が無いので、リーズナブルな答えは、期待できない。

>『武士に二言はなし』二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている」

一言の下に猪突猛進か。考え直すことは出来ないか。考える人にはなれないか。

>●「名誉」より~「名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。

世俗の序列を人格の上下に対応させている。これで本人は、満足できるのか。

>… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つであった。

世俗の上下に反した場合には、時分は、’恥ずかしながら、、、、、’ と言うことになる。見栄と外聞か。

>『笑われるぞ』『体面を汚すぞ』『恥づかしくないのか』等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであった」

罪が無くて、恥がある。日本人には意思が無いから、罪の意識 (加害者意識) が無い。だから、恐ろしい。恨めしい。

>●「忠義」より~「シナでは、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれた」

我が国では、序列第一主義ですね。相対敬語の国ですね。

>●「武士の教育及び訓練」より~「武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。
>思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。

学識経験には、関係ありませんね。これでは、学問の国にはなりえない。

>武士道の骨組みを支えた鼎足は、知・仁・勇であると称せられた」

これで、’文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以て徹底責任をとる’ ことになるのでしょうかね。
我が国の ‘責任’ の意味が英米とは違っているので、武士の世は、’とかく、この世は無責任’ となりますね。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
昔の日本人は、15歳の見習い乗子の責任は考えられたが、5代将軍と佐土原藩主の責任については考えられなかったようですね。

>●「克己」より~「克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにあり」

日本人にはリーズン(理性・理由・適当) というものが無いから、理性で自己の感情を抑えることは難しいのでしょうね。

>リンク■『国家の品格』と武士道精神~藤原正彦 より引用



一喜一憂

2018-04-09 10:12:27 | 教育
>■□■くらべて一喜一憂しても仕方がない
>試験の答案用紙を、隣の子どもに覗かれないように腕でかくして、顔を近づけて書いている子がいる。

私も、答案用紙を隠していました。

>わたしの小中学生のことにもそういう子がいたし、いまの学校にもいるようだ。>覗かれて、隣の子どもがいい点をとると、自分が損をすると思うからである。>でも、どうしてそれが損になるのだろうか…。

いずれ、入学希望者の選抜試験を受ける身の上ですからね。相手が上位であることは、自分の損になる事は明らかです。

> 試験というものは、本来は自分の成長度を確認するためのものである。>漢字のテストであれば、以前とくらべて自分はどれだけ漢字を覚えたかを確認し、よかったときは喜び、悪かったときはこれからがんばろうと思う。>そのためのテストだ。>隣の子が何点とろうが、自分位は関係ない。

そうですね。あるべき姿は、マイ・ペイスの成長ですね。

>それなのに、現在の学校では、子どもたちを競争させるための試験が行われている。

教育を盛んにするために、学校は子供の向上心をあおるのですね。これも学校の手柄かな。

>そんなことをするから、学校が刑務所さながらになってしまうのだ。>子どもたちに学習の喜びがない。

そうですね。個性を無視された競争ばかりをさせられているから、こどもたちには学習の喜びがありませんね。

>子どもたちが学校で味わうものは、他人との競争に勝った、負けたの優越感、屈辱感でしかなくなっている。

縦社会に生きる序列人間は、優越感と屈辱感の連続生活ですね。

>これは、農耕民族であった日本人の宿命かもしれない。

‘隣の芝生’ の様なものですかね。

>日本人は、隣の田んぼばかりを見て暮らしてきた。>隣の田んぼより自分の田の稲の実りが悪ければ、どうも恥ずかしいと思い、自分の田が成績がよいと安心する。>かといって、あまりに成績がよすぎても、隣のやっかみを買うのではないかと心配する。>いつも判断の基準が隣なのだ。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから日本語を話す時には、’ものの上下’ を考えざるを得ない。要は比較の問題である。
英米人であれば、’あるべき姿’ と ‘今ある姿’ の比較になる。だが、日本人は無哲学・能天気であるから、’あるべき姿’ が無い。それで、日本人にもある ‘今ある姿’ 対 ‘今ある姿’ の比較になる。それで、基準が隣になることが多い。

>とっくの昔に、日本は農業人口が三パーセント以下になってしまって、日本は農業国ではなくなった。>そのかわりに、世の親たちは、稲ではなく子どもの成績のくらべっこをしているらしい。>子どもたちがかわいそうだ。

そうですね。これは大人の責任ですね。言葉に無頓着な日本人の性癖か。親たちの反省が必要ですね。日本人の反省が必要ですね。

><<「隣と比較して勝ちや負けか」が、判断基準になってはいないか。>>

そうですね。とかく話がちいせえのう。これも無哲学・能天気のせいでしょうね。


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