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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

受け身的・主体的

2019-02-24 23:22:24 | 言語

>○受け身的な人の思考パターン
>1.自分中心思考 >「~と私は考えました」「~をアピールする」と自分を主語に考える

主体性のある発想法は、良いですね。他力本願・神頼みの態度は良くありません。

>2.方法論思考 >「どうすればいい?」と方法論をすぐに考え始めるが答えがなく、1~10まで答えを求めてくる

日本人は、非現実 (考え) の内容の表現に難渋する。だから、思考停止になっていることが多い。それで、相手に答えを求めざるをえなくなる。

>3.曖昧思考 >「何をすればわからない」と作業への落とし込みができない、解決策が分からないで堂々巡りしている

曖昧な言語を使用していることが、曖昧思考の原因ではありませんか。

>4.完璧主義思考 >「~すると危ないか?」「~してはいけない」と完璧を求めて動けない

備えあれば憂いなしですね。注意は怠ることが無いようにしたいものですね。

>5.被害者思考 > 何で自分ばかりが、上司が悪いと相手の責任にしてモチベーションが下がっている

日本人には、意思がない。だから、加害者意識の経験がない。被害者意識ばかりが募る。それで、恨みがましくなる。

>○主体的な人の思考パターン
>1.相手中心思考 >「相手は何を求めているのか?」と相手を主語に考える

相手の問題点を求めるのは、建設的な態度ですね。

>2.目的思考 >「そもそも何がどうなればいいのか?」と目的を考え抜くことができる

‘あるべき姿’ を考えることになれているのですね。これは、大切なことですね。

>3.具体化思考 >目的から発想して何をするか、何を聴くかを落とし込むことができる

手順書の作成ですね。

>4.柔軟思考 >行動へのリスクを計算し、許容できる、行動計画を効果・効率の視点から柔軟に変更できる

考えには、柔軟性が必要ですね。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>5.自分責任思考
>全ては自分のコントロールできることに集中する、自分への成長の意味を考え、モチベーションを向上させることができる

自分の責任範囲を知っていることが重要ですね。
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>いかに自分発ではなく、相手発に変えることができるか。>成功の鍵はそこにある。

自分自身の発想と、相手の問題を把握していることが大切ですね。



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国語教育

2019-02-24 03:57:25 | 言語

>なぜ、国語が重要なのか。その本当の理由
>日本が明治時代から近代国家の仲間入りを果たした背景にあった、国民の高い国語力。

高い識字率のことですか。それとも、忖度 (推察) のことですか。忖度は、聞き手の勝手な解釈でありますから、話し手には何の責任もありませんね。ですから、議論になりません。

>その根幹をなす国語教育が、いま危機的状況にあると警鐘を鳴らすのが、齋藤孝さんです。

確かに、日本語には深刻な問題がありますね。

>国語が人生の基礎をつくると語る齋藤さん。>本日は国語の重要性に関するお話を紹介します。>特集「国家百年の計」 齋藤 孝(明治大学教授) >国語の重要な点は精神の涵養に関わっていることです。

日本人の精神活動は、文字・言説をもって表現できるものではありません。心から心へ伝えられるものです。ですから、日本人は、言葉をおろそかにします。そして、つかみどころのない人間になっています。

>江戸時代の寺子屋は素読によって人間性を高めるという側面が非常に大きかったのですが、国語という教科もまた、ものの考え方や人格の成熟を担います。

そうですね。音読が言語の習得に非常に効果的であることが知られていますね。ところがわが国では、漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、肝心の音読の成果が出るのが遅れています。特に、非漢字圏からきた外国人の初学者には、仮名漢字表記は絶望的です。日本語をローマ字表記にすれば、たちどころに外国人にも音読が可能になります。日本語のローマ字表記がわが国の国語教育の第一歩と考えられます。日本語が世界の第二言語になる道も開けます。

>単純な言葉のトレーニングではなく、文学を趣味として読むのでもない。

国際的な意思疎通が必要ですね。会話を上達させるには、単純な言葉のトレーニングが必要ですね。そのためには、日本語のローマ字表記が非常に有効と考えられます。

>人間性と言葉をセットにして成長させていくことを促してきたのです。

現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。話がわかる為には、文章の理解が必要です。
日本人の判断では、見ることができる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は、’嘘’ である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分自身の非現実の内容を語らない。これが、我々の思考停止の状態であります。結果的に、全ての日本人が受け売りの専門家になっています。これは、非常に危険な状態です。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

>国語のテキストに採録されるような文章は非常に深みのある多義的な内容を含んだものが多いので、議論していくとより深さが増していきます。

日本語の内容が浅薄であるのは、現実のみを表現するからであります。
非現実 (考え) の内容を表現できれば、もっと思慮深い文章になるでしょう。
非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要です。時制は、英文法にあって、日本語文法にはない。
時制のある文章は、独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。
日本人には、夢と希望がない。それは、夢と希望は、未来時制の文章内容として表現されるものだからであります。
我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、時制の重要性を十分に理解して、自己の考えを表現できるように努力しましょう。

>それゆえ知的な対話を喚起する素材になるのです。

文章が無ければ、意味も無い。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままでは、議論・対話はできません。
矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示しています。ですから、正解は一つではない。人さまざまです。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになります。ですから、対話・議論は役に立ちます。

>国語は人間性の成長とは無関係であり、日本語という言語を教えればいいのだと考える方もおられますが、教科書が人間の精神性と切り離して言葉だけを教えるドリルのようなものであるとしたら、あまりにも物足りないと言わざるを得ません。

言葉は人のものですね。自己実現の手段として各人で自由に表現しましょう。

>むしろ人間性を養うという重要な役割を担ってきたと考えるからこそ、国語が重要なのだと言えると思うのです。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>人間性を養うという点では道徳という教科もあります。>しかし、道徳は国語ほど時間数が多くないし、教える内容もあまりはっきりとしていません。>道徳に限定して人間性を養うというのも狭い感じがします。

そうですね。スポーツのルールを教え込むように人間に道徳の徳目を教え込むというのは見逃しえない事実ですね。自分自身で道徳が考えられない民族の証拠のようなものです。

>その点、国語はいろいろな文章からいろいろな意味を受け取ることができます。

‘伝達される情報は言葉の中で全て提示される’ という行き方が必要でしょうね。 正確性が必要とされる言語をつかう練習が必要ですね。忖度の世界よさようなら。

>クラス全員で話し合って意味を見出していくという作業を行えば、対話もでき、思考の深化も期待できます。

‘言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する’ ‘重要な情報でも言葉に表現されないことがある’ といった曖昧な言語を使っていては、対話も議論もできませんね。日本語と英語の猛勉強が必要ですね。

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最良の教育

2019-02-23 05:55:48 | 言語

>非常に幼い頃から、日本の子どもたちはベストを目指して競争させられる。>幼稚園、小学校、中学、高校。>それぞれの段階は、成功するための最良の教育を受けていると見なされる。

最良の教育とは何ですかね。

>詰め込み教育(放課後に長い時間学習する)はそれらのほとんどの段階を占めている。

考える余地のない教育が、最良の教育ですかね。

>最終目標は最良の大学に入学することで、そのときすべてが変わる。

わが国の大学は、国際的に見て程度が低いのですが、このことを深刻に考える人はあまりいませんね。我々は、井の中の蛙たちか。

>学校がすべてだった数年間の後は、ついに自分の人生を謳歌し、がむしゃらに勉強する必要はなくなる。

我々には、生涯教育が必要ですね。

>日本の教育の目標は未来の日本を創造することであり、この点から言ってこのシステムは実によく成功している。

我々の国には、どのような未来像があるのでしょうか。

>日本の学生が18歳となったとき、彼らは真の日本人は日本語以外話せないということに強い確信をもつようになる。

序列人間として、序列社会に飼い馴らされるわけですね。

>nihonjinron(日本人論)や日本人のユニークさに完全にくるまれ、日本国外の事柄を無視し、彼らの今後50年の生活のためにどうすればよいか完全に精通し、ほとんどすべての認識の技術を欠き、外国人恐怖症となり、目立たず、出る杭にならないよう精神的に完全に訓練されている。

島国根性の完成ですね。’あるべき姿’ の喪失ですね。無哲学・能天気の状態ですね。

>日本の教育システムでは、いかに日本人となるかが第一のゴールとなる。>ときが経つにつれ、若者はより保守的になっていった。

序列人間の完成を目指しているわけですね。

>外国に対する興味は驚くほど欠如しており、ロボットとなる以外のいかなる望みも持たない。

日本人には、意思がない。意思のない人間は、他人に従うよりほかに道はありませんね。

>これはインターネットの情報に簡単にアクセスでき、旅行費用は安く、大部分の日本人が裕福であることを考えると不思議なことである。

不自由を常と思えば不足なし。個人的な発想がない。

>実際にはほとんど学習が行われない――生徒たちは、成功に必要な批判思考(クリティカル・シンキング)の精神をほとんど与えられない。

世界観を持たないから、’あるべき姿’ (things as they should be) の内容を個人として持っていない。だから、自己の理想を基準とした批判精神も宿らない。

>日本の教育制度は、ほとんどの人が高卒で工場で働くような時代にデザインされたものだ。>この種の教育は、大量生産と大量消費が経済の原動力となるような工業化された社会ではよく機能する。

そうですね。わが国は、ただいま深刻な人手不足に陥っている。だがしかし、頭脳不足であるという話は聞いたことがない。わが国の仕事は、頭脳労働を人手の仕事に切り替えて処理しているところがあるに違いない。資源小国のわが国が、頭脳労働を切り札として使わないのは残念なことです。

>しかし、世界は変化している。アイデアのクオリティや、問題解決の創造的な能力が経済世界や個人の成功を決定するようなポスト消費者主義社会へと。

そうですね。わが国は、昔ながらの山桜かな。

>いくつかの国はこのことを学習したが、日本は明らかに理解が遅く、さらに教育世界がこの現実に適応するのはさらに遅い。

我が国人には、意思がない。意思のないところには、方法 (仕方) がない。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。わかる為には、理解が必要である。
日本人の判断では、見ることのできる内容は本当のことである。見ることにできない内容は、嘘である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分自身の考えた非現実 (考え) を語ることをしない。だから、思考停止に陥っている。現実に適応するのは難しく、’生きる力’ がない。

>日本経済が減退していることのいくらかはこれによって説明できる。

我々の精神活動の低下ですね。

>教育問題と社会問題を混同しているかもしれないが――日本の教育システムの失敗を世界発展の観点から見ると――創造性の欠如、独創性の欠如、グローバルな領域で交流が不可能であること、世界の仕組みに関する部族的な理念(石器時代のようだ)、意思決定や方向決定に対する無能性や無意思、完全な受動性が存在する。

非現実 (考え) の内容を現実の中で実現させたら、それは創造力を発揮したことになる。
現実の内容を現実の中で再現させたら、それは模倣になる。特亜三国 (日本・中国・韓国) の国民は、模倣が得意で、創造が苦手である。模倣の競争は比較的容易で参入者が多く、過酷なものになりがちである。
現実の内容は、ただ一通りである。唯一の正解がある。だが、非現実 (考え) の内容は、ただ一通りではない。考えの内容は、人さまざまである。
矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。だから、正しい考えは、一通りではない。幾らでもある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えになる。だから、相手と対話することは、正しい考えを得るための役に立つ。
非現実の内容を文章にするためには、時制 (tense) というものが必要である。時制がある文章は、独立した三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。だから、人は世界観を持つにいたる。グローバル (全地球) 、ユニバーサル (全世界) の内容を持つ話が可能になる。時制は、英文法にはあるが、日本語の文法には存在しない。だから、日本人の話は、とかく小さいものになる。
日本人には意思がないので、意思決定ができない。しかし、恣意 (私意・我儘・身勝手) があるので、恣意決定をする。意思は、文章内容であるから、意味がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、意味がない。だから、恣意決定をする人は、説明責任を取ることができない。そして、とかくこの世は無責任なっている。
我々は、どこに向かうのかといったような方向を決定するためには、世界観が必要です。日本語文法には時制がなく、日本人には世界観がない。だから、無哲学・能天気のままでいます。日本人には意思がないので、能動的な行動がとれません。ですから、やむを得ず受動的な行動をとる人間になっています。

>特筆すべきは筆記形式の入学試験である。>このことが日本教育について何を語るだろうか。>これは学生たちに次の段階の教育へ橋渡しするために、十分な装置なのだろうか。

筆記が悪いわけではないが、自己のない人間が何を書いても、建設的なことが起こるわけではありませんね。だから、絶望的になります。

>この国の塾Jukuの必要性について対処してはどうか――だいたい、なぜ子どもたちは魂を破壊するようなところへ行かなければならないのだ。

全ては、処世術に従っていますね。処世術万能の世の中です。頭の中に現実しかないので、夢と希望 (未来時制の文章内容) を持つ余地がありません。

>学校における画一的な教育についても対処する必要がある――言いかえれば、批判精神の欠如や問題解決能力が行われていないことに対処すべきだ。

‘あるべき姿’ を自己の脳裏に持っていれば、それを基準にして物事の批判ができる。意思があれば、問題解決の方法 (仕方) が見つけられる。Where there’s a will, there’s a way. 無意思では、どうにもならない。
我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、時制の大切さをよく理解すべきです。さすれば、自己の意思の表現も可能になり、自己の問題解決の方法を示すことも可能になります。そして、世界の指導者になれる。

>現在の教育システムは、標準試験の要求に向けてすべてが調整されている。

そうですね。没個性的な標準人間の育成に向けてすべてが調整されていますね。反省が必要ですね。


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生きる力

2019-02-22 06:02:05 | 教育


>●「生きる力」の本質は興味や好奇心を持ち続けること >上木原孝伸氏:文科省の指導要領で、「生きる力」ということがすごく言われています。 >「生きる力」って、平成10年……20年前に言われ始めていて。 >今回、平成30年の学習指導要領が変わるんですが、ずっと「生きる力」と言ってるんですね。 >私は20年前に教員採用試験を受けて落ちた人間なので、恨みのようなこともあるんですけど(笑)。
>「なんなんだ、生きる力」って。 >定義としては、「知=確かな学力が必要です」「徳=豊かな心が必要です」「体=健やかな体が必要です」ということが一応、定義になっているんですね。 >私はこれが納得いかなくて。
>ちょうど先日、英訳された指導要領を見せてもらう機会があって、生きる力がどう訳されているかというと、「ゼストフォーリビング(Zest for living)」。>それで、英英辞典でゼストを調べてみると、いわゆる「exciting」とか「interesting」とか「Enjoyable」の質を求める、と書いてありました。>日本語でボヤっと「生きる力って何なんだ」と思っていたんですけれども、「もっと興奮できて、もっと興味をもって、もっと楽しめる」。 >これからの社会では(興味や好奇心を)ずっと持ち続ける力が重要ですよ、ということを発信していたと思うと、これが、いわゆる「これからの社会で生きる力なんだな」と納得したと。(中略)

日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳には未来時制がなく、日本人には意思がない。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人は、仕方なく無為無策でいる。だから、’生きる力’ がない。
Zest (強い関心) は、英語にあって日本語にない。だから、英語を知らないと、日本語 ‘生きる力’ の意味が分からない。これが、日本語の指導要領の難しさである。
我々日本人は、日本語と英語を共によく学んで、’時制’ の大切さを深く理解して自己の意思を表現できるようにしなくてはならない。さすれば、’生きる力’ を獲得できる。そうでなければ、優柔不断・意志薄弱のままでいる。見るに見かねて、精神主義に走る。
これは、危険な方向である。先の大戦でも経験した。日本人には意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は文章になるので意味があるが、恣意 (self-will) はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、文章にならず意味がない。恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。精神を鍛える手段として、武芸を利用する。これにより、動作は機敏となるが、リーズン (理性・理由・適当) のある人間は育たない。


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学習指導

2019-02-21 00:53:19 | 言語
>「進んで勉強する」「自分から挨拶する」。>親が描く「主体性のある子ども」は往々にしてこうしたイメージで、そこからはみ出したとたんに怪訝な顔に変わるという親御さんがほとんどではないでしょうか。

そうですね。親に言われたことを忘れずに励行する子供が、主体性のある子供と考えられているようですね。

> 【本当に主体的な子は、先生や親の気持ちなど忖度しないで突き進む】 >私が小学2年生を担任したときのことです。 >ある男の子が、夏休みに入ってすぐに宿題を全部片付けてしまいました。>「宿題を全部先にやってしまって、後は遊びまくる!」と決めたからだそうです。

意欲満々ですね。

>私はこの話を夏休み中の保護者面談のときにその子のお母さんから聞いたのです。>話をしている間、お母さんの顔はずっと曇ったままでした。>お母さんとしては「せっかく宿題を早くやってしまったのだから、宿題以外の勉強もさせたい」と思っていたのです。>それなのに遊びまくると宣言されて、嘆く気持ちのほうが強かったのです。

お母さんの判断は残念ですね。

>それを聞いて、私は「主体性のあるすばらしい子ですね。こういう子が、自分の人生を切り開いていけるのですよ」と言いました。

そうですね。それが正解ですね。

>この子は、「夏休みは遊びまくりたいから宿題をさっさと片付けてしまおう」とやる気に燃え、実際に片付けてしまいました。>これこそが主体性です。>主体性は、「こうしたい」「こうしよう」という意欲ややる気があるからこそ生まれてくるものです。

そうですね。意思のある人には、主体性がりますね。英米人を見習いましょう。

>親が自分の価値観を優先させ、「このようにさせよう」と働きかけても、主体性は育まれていかないのです。

そうですね。親の価値観で動いていては、子供が受動的な人間になるばかりです。

>今、教育改革の必要性が声高に叫ばれていて、学習指導要領も新しくなるのですが、その一番のテーマが「主体的な人を育てる」ということです。>これはとてもよいことだと私も思いますが、一つ心配になるのが「主体的」の意味を勘違いしている大人が非常に多いということです。

同感です。
日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容ですが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。それで日本語の脳裏には未来時制がなく、日本人には意思がない。英語には時制がある。そして、英米人には意思がある。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人は仕方ないので、無為無策でいる。この状態が我々日本人の問題ですね。
日本人には意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は、文章内容であるが、恣意はバラバラな単語 (片言・小言・独り言) で存在するので意味がない。この恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。これがわが国の精神主義である。この種の精神修行には、武道が用いられる。鍛錬により動作は機敏になるが、人はリーズン (理性・理由・適当) の持ち主にはならない。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>つまり、先生や親がやらせたいことを子どもが忖度して、それを進んでやってくれることを「主体的」だと思い込んでいる人が多いのです。

そうですね。忖度 (推察) は、その内容が聞き手の勝手な解釈ですから話し手に責任はありませんね。忖度は、議論の対象にはなりませんね。

>そんなものを主体的と呼んではいけません。>本当に主体的な子は先生や親の気持ちなど忖度しないで、自分がやりたいことを自分で見つけて自分でどんどんやっていく子なのです。

そうですね。同感です。日本人は、優柔不断・意志薄弱であるところが問題です。忖度も精神主義もその解決法にはなりません。そのことを認識していることが、我々の教育改革には必要ですね。



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