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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

大学院修了者  

2024-04-27 01:42:43 | 文化

>キャリコネニュース   >「高学歴とは大学院修了者をいう。偏差値の高い大学であるかは無関係」院卒の男性がそう思う理由とは……   >キャリコネニュースの意見・   >18時間   

>今の時代、学歴は必要なのだろうか。   

 

そうですね。わが国の学歴は特に序列の言い換えにすぎませんからね。その内容に問題がありますね。          

 

>兵庫県の60代前半の男性(教育・保育/年収1000万円)は、「必要」と答えたうちの一人だ。   

>男性は神戸大学のの大学院を出たというが、こう自身を分析している。   

>(文:長田コウ)   

>「物事を深く掘り下げ理解し、論理的に説明できるために『考える』ということを数多く行ってきたので、日常生活で見る出来事(現象)の変化(目先のこと)に右往左往することが学歴のない人と比較して少ないように思う」   

 

そうですね。    

わが国は資源小国である。天然資源は不足しているが、人口は一億以上ある。決して小国ではない。この人口の頭脳を活用すれば、わが国は衰退途上国から脱することができる。

我が国には人手不足はあるが、頭脳不足の話はない。日本人は思考を停止しているが、それが当たり前のことになっていて頭脳不足とは考えられていない。

わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。だから議論がない。ただ、気分・雰囲気・感情を伝えることにより満足している。 

日本語は写生画の言葉である。現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、日本語はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが英語の文法により文になる。だからその内容は理解できる。文にならないものは考えではない。日本語の内容では考え (非現実) にならない。  

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っているから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。    

 

>トレーニングを受けた期間の違いで「能力の『差』が生じている」   

 

そうですね。    

 

>一方で、自身の学歴について「少なくとも満足感はない」と本音を明かした。   

>また、男性の考える高学歴について、次のように書いている。   

>「高学歴とは大学院修了者をいう。   

>偏差値の高い大学であるか否かとは無関連に、短大卒、学部卒、修士課程修了、後期課程修了とは学習歴に長短がある。   

 

我が国は序列社会で世間は偏差値狂ですね。わが国の学歴は単なる序列の言い換えに過ぎないものになっていますね。      

 

>つまり、トレーニングを受けてきた期間が異なるため、それぞれの能力の『差』が生じているはずだからである」   

>加えて、「その『差』を活用できるか否かは、また別の問題である」と持論をつづり、投稿を結んだ。   

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。、、、、、日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

 

 

 


杉村太蔵氏  

2024-04-26 05:25:36 | 文化

>アサ芸biz   >「騙されちゃいけない」自民党改革案に痛烈ダメ出し!杉村太蔵に賛同の声   >アサ芸bizによるストーリー・   >15時間   

>派閥の政治資金パーティー裏金事件を受けて、423日に自民党が政治刷新本部の会合を開いた。   

>会合では、政治資金規正法改正の具体案をまとめたが、その内容に世間からは《甘すぎる》《改革になっていない》と猛批判が寄せられている。   

>政治ジャーナリストが明かす。   

>「たとえば、問題が起きた時に秘書だけでなく、政治家にも罪を問う連座制。   

 

秘書は政治家の指導に従うだけですね。子分が悪いのは親分が悪いからです。      

 

>これの導入については、立憲民主党、日本維新の会、共産党、国民民主党の野党4党と公明党が賛成しているにもかかわらず、自民党は『議員の確認が不十分』という条件付きで公民権停止とするもの。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。日本人の責任者捜しは難しい。優柔不断・意志薄弱の人間は指導者として通用しない。          

日本語文法には時制 (tense) というものが無い。だから、未来時制もない。未来時制の構文内容である意思 (will) もない。やむを得ない反応だけをして生きている。これでは立つ瀬がない。

意思のあるところに方法がある。Where there’s a will, there’s a way.   

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

>企業・団体献金についても野党3党が禁止を訴える中、継続の方向で進んでいます」   

 

議員たちには理屈を嚙合わせる意図も習慣も見られないですね。   

 

>この改正案にダメ出ししたのが元衆議院議員でタレントの杉村太蔵。   

424日放送の「大下容子ワイド!スクランブル」に出演した杉村は「収支報告書の確認」について「確認が不十分だった議員には公民権停止の罰則を科すのがひとつのポイントですよね」と前置きしてこう語った。  

 

そうですね。確認が不十分なのは議員の監督不行き届きによるものですね。      

 

>「これね、『一歩進んだ』とか『半歩進んだ』って言う人いますけど、まったく進んでないから!断言するから!これどう言うかっていうと『私は確認したんです。   

>だけど秘書が勝手にやったんです』って決まってるんだから。   

 

意思の無い人間には意思疎通も無いのですね。   

 

>これね、騙されちゃいけない。   

>絶対これではね、一歩どころか半歩どころかまったく進んでない」   

 

意思の無いところには方法もありませんね。万事休すですね。我々日本人はやむを得ない反応だけをして暮らしています。         

 

>政治家がよく口にする「結果責任」という言葉についても、杉村は「自分が任命した会計責任者が不記載やったらその結果に対しては責任を取った方がいい」として“一発連座制”を主張した。   

 

そうですね。任命権者には任命責任がありますね。やたらの人間を任命するなどあってはならないことですね。       

 

>これにはSNSでも《太蔵よく言った》《そのとおり!》と賛同の声が相次いでいた。   

 

我々日本人もまともな議論のできる人間に成れるとよいですね。   

 

>「裏金問題で派閥の事務所で家宅捜索が行われた昨年12月、杉村さんは『大量の辞職者が出るんじゃないか』と語っていましたが、フタを開ければ辞職したのは逮捕・起訴された池田佳隆元衆院議員と略式起訴された谷川弥一元衆院議員の2人。   

4000万円以上のキックバックを受けていた大野泰正参院議員は離党しただけで、今も議員バッジをつけています。    

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。日本人の責任者捜しは難しい。優柔不断・意志薄弱の人間は指導者として通用しない。このことが常識にならなければわが国は良くならない。           

 

>多くの議員がきちんと責任を取っていない中で、杉村さんが『まったく進んでない』と批判するのも当然かもしれません」   

 

日本の常識は世界の非常識ですね。   

 

>(メディア誌ライター)   

>そもそも甘い蜜を吸い続けてきた自民党に「政治刷新」は期待できないかもしれない。   

 

そうですね。日本語による思考が致命的ですね。       

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。     

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 


政治資金改革案  

2024-04-25 03:35:57 | 文化

>毎日新聞   >「小手先」「なんちゃって」野党、自民の政治資金改革案に集中砲火   >毎日新聞によるストーリー・   >6時間・   

> 参院予算委員会は24日、政治資金などに関する集中審議を実施した。   

>岸田文雄首相は、自民党がまとめた政治資金規正法改正の具体案を巡り「責任の厳格化については自民も強い問題意識を持ち、具体的な対策を講じていきたい」などと強調した。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。だから政治家の責任追及は難しい。   

 

>一方、野党は「連座制」に関する自民案の甘さなどを指摘する質問を連発し、「小手先の案だ」などと攻勢を強めた。   

> 「全く連座になっていない。   

>なんちゃって改革じゃないですか」   

> 立憲民主党の蓮舫氏は、政治資金収支報告書の提出時に議員の「確認書」を添付させ、虚偽記載などがあった場合は一定の条件下で議員本人を罰するとした自民案について「2段階になっている」などと指摘。   

>議員本人の処罰につながるか疑問を呈し、今回の裏金事件を受けた自民議員の処分一覧を示して「仮に確認書を導入しても、誰も新たに処分されない。   

>どこが連座か」などと追及した。   

 

政治資金に政治家が責任を負わないのは矛盾していますね。   

 

> これに対し、首相は「一覧表は政治責任の処分の結果だ。   

>法改正の要件とは違う」とした上で、「今回、検察の判断として会計責任者のみに処罰が科せられていることにとどまっていることに対して、議員本人の責任を明確にする」と強調。   

 

こと政治に関する不正は、政治家が最終責任を負うべきです。政治家でない人が政治責任を負うのはお門違いですね。政治家の政治活動に関する監督責任は政治の要でしょう。         

 

>「物足りない」などと指摘した日本維新の会の片山大介氏に対しては、「収支報告書の不備と議員の関係をしっかりと確定した上で法律を構成する必要があることから、確認書という具体的な方策を間に挟んだ」と説明した。   

 

収支報告書は議員の報告書ですからね、議員との関係しっかり確認するなど子供じみていますね。意思の無い人間の責任とはこういったものになるのでしょう。      

 

> また、自民案が収支報告書に記載しなかった収入の相当額を国庫に納付させるなどとしたことに関し、蓮舫氏が「ヒューマンエラーの軽微なミスでも、意図的な不記載でも全額納付させるのか」とただすと、首相は自民案の項目の読み上げに終始。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間にはヒューマンエラーと、意図的な不記載は区別できませんね。これが日本人の問題ですね。      

 

>蓮舫氏は「先頭に立つと言いながら私も持っている同じ条文を読んでいるだけで、首相は中身を全く理解していないことがよく分かった」と批判した。  

 

政治改革をするには政治改革をする意思を持たなければなりませんね。日本人には意思が無い。だから、改革の意気込みも迷走する。      

 

> 共産党の小池晃氏も、自民案について「企業・団体献金の禁止もなければ、政策活動費の見直しもない。   

>ひとかけらの反省もない中身だ。   

>そもそも真相解明に背を向けていて、まともな改革案が出せるわけない」と切り捨てた。    

 

意思の無い人間には責任もない。だから、責任者を立てることも難しい。これではまともな改革案など出せるわけない。       

 

> 一方、首相は国会議員に月100万円支給される旧文書通信交通滞在費の使途公開などの課題について「この国会で結論を出せるよう、各党と議論を行っていく」と述べた。   

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

意思の無い人間には責任もない。責任とは自己の意思を使って義務を果たす事である。日本人には意思が無い。だから、責任もない。兎角この世は無責任しなっている。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

自由とは ‘意思の自由’ の事である。日本人には意思が無い。だから自由そのものにも意味がない。

だが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は‘自由のはき違え’となるからである。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。日本人は昔の姿のままでいる。   

 

英米の高等教育は子供が大人になる為の教育である。子供は現実 (事実) に関する知識のみを持っているが、大人には非現実 (考え・哲学) に関する知識もある。それを若者に持たせるのが彼らの高等教育である。

日本語には非現実を内容とする構文がない。それは日本語文法には時制 (tense) というものが無いからである。日本人には非現実に関する知識がないのでわが国では英米の高等教育がなりたたない。だから、日本人は子供らしくみえる。   

非現実の内容を現実の内容に転換する方法を見つけることができたら、人間固有の創造力を発揮したことになる。日本人はその創造力に欠けている。         

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。     

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

 

>【樋口淳也、池田直、川口峻】   

 

それでどうした。 我が国には社会の木鐸 (ぼくたく世の人を教え導く人) が必要である。わが国のジャーナリストはその要請に応えることができる人達であろうか。わが国から国際的にも有力なジャーナルが多数出ることを期待しています。      

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

 

 

 

 


変な国  

2024-04-24 05:17:40 | 文化

>現代ビジネス   >外国人が見抜いた「日本」を「変な国」にさせている「3つの原因」…日本を支配する「フィクション」   >松岡正剛の意見・   >16時間   

>日本文化はハイコンテキストである。   

 

そうですね。   

 

>一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。   

>「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!   

>*本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。   

>日本を支配するフィクション   

>カレル・ヴァン・ウォルフレンに『日本/権力構造の謎』(早川書房)という二冊組の本があります。   

>ウォルフレンはオランダの新聞の極東特派員をながく務めて、「フォーリン・アフェアーズ」の198689年の冬号に書いた「ジャパン・プロブレム」が評判になったので、これを機に本格的に日本の権力構造の歴史と現在にとりくんだジャーナリストです。   

>ウォルフレンの言う「ジャパン・プロブレム」とは、80年代の日本に疑問をぶつけたもので、自動車をはじめとする日本の輸出品の優位がアメリカの怒りを招き、いわゆるジャパン・バッシング(日本叩き)がおこっていたとき、日本は基本姿勢を改めなかったばかりか、そのような姿勢をとることの説明をしなかったのはなぜかというところに発していました。   

>ふつうなら、この反応は日本がナショナル・インタレスト(国益)を守るべき明確な意志や意図があるからだと想定できることで、そういう意志や意図があっていっこうにかまわないはずなのですが、ところが当事者間の交渉のプロセスを見ても日本研究者たちの分析によっても、どうもその意志も意図も明確ではないのです。   

>「失礼しました、できるだけ改善しましょう」と言っているだけなのです。

 

そうでしょうね。日本人には意思が無い。   

 

>そこでウォルフレンは次のような推理をせざるをえないと考えます。   

>それは、日本にはおそらく三つほどのフィクション(虚構)があたかも現実のようにはたらいているにちがいなく、それが日本を「変な国」にさせているのだろうというものです。   

>一つ目は、日本は主権国家として最善のナショナル・インタレストの選択をしていると諸外国から思われているが、実はそのようなことができない国なのではないか。   

>だから何かが欠如しているか、何かを粉飾してきたのではないかというものです。   

 

そうですね。日本人には意思が無い。だから仕方なく反応するのでしょう。  

 

>二つ目、日本は自由資本主義経済を徹底していると主張しているけれど、どこかでごまかしているか、さもなくば内側では別の経済文化行為を許していて、外側の顔と内側の顔を使い分けているのではないか。   

>そういうふうになっていても、そのフィクションを国民が納得して許容しているのではないかというのです。

 

それはないでしょうね。    

 

>三つ目、日本には世界中がまだ理解できていない名付けにくい体制、たとえばかつての武家制度や天皇制がそうであったような、海外からは理解しにくい体制をどこかに温存しているのではないか。   

>しかし、もしそうだとしてもその体制について日本は自覚も説明もできていないのだろうというものです。   

 

そうですね。それはありますね。    

 

>この三つのフィクションが絡んで動いているだろうだなんて、ジャーナリストとしても鋭いし、日本論としてもなかなかユニークです。   

>穿った見方だとは思いましたが、私はおもしろく読みました。   

>権力が行方不明の国   

>ウォルフレンは、日本には本物の権力があるのかどうかを問うた。   

>権力構造にいいかげんなところや、不首尾なところがあるのではないかという疑問をもった。   

>もし欧米社会でそのようなことがあれば、たちまちその権力は解体するはずです。   

>でも、日本はそうならない。   

>だとしたら、それはどうしてそんなふうになったのか。   

 

それは国民の序列メンタリィティのせいでしょうね。   

 

>ずっと昔からのことなのか、それとも最近のこと、つまり敗戦後のことなのか、そこに分け入ろうとしたのです。   

>日本国憲法が定めるところでは、日本は議院内閣制の民主主義国家です。   

>主権は国民にあり、立法権は選挙で選ばれた議員によって構成された国会にあります。   

>したがって国会は法的にはすべての決裁者であるわけですが、ウォルフレンが見るところ、日本の国会は両院ともにそうなっていない。   

>議題はたくさん出入りしているけれど、野党は「内閣なじり」ばかり、与党は「責任のがれ」ばかりです。   

 

そうですね。日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任がない。だから日本人は責任者を見つけ出すことが難しい。   

 

>両院から委任された行政府として内閣がつくられ、そのガバメント(政府)のトップに内閣総理大臣が立つわけなので、行政権すべての決裁者は首相にあるのですが、日本の首相は自民党政治の領袖を争うだけで、国家の行政責任をまっとうするための権力を掌握もしていないし、行使もしていないというふうに、ウォルフレンには見えたのでした。   

 

事実その通りですね。    

 

>国会と首相が国家の権力を掌握していないとすると、これに代わって権力を動かしているのは官僚か財界かということになりますが、どうもこの両者にも権力が集中していません。   

 

権力は意思に付着した特権ですから意思の無い人間には権力が集中しませんね。   

 

>どこかの役所や官僚のリーダーが目立つことはなく、大半の官僚の見解は政府の見解の「下支え」か「上塗り」が多い。   

>経団連が国家の指針に対して明確なオピニオンを発表したことなどないし、有効な助言をしているとも感じられない。   

>おそらくボスが多すぎて、両方ともに決定的なボスをつくれないか、つくらないようにしているのです。   

>国会、首相、官僚、財界が権力の中枢をつくりきっていないのに、日本のどの部門も中央集権的な組織になっているのも解せません。   

>それぞれの団体、たとえば警察、農協、日教組、日本医師会、法曹界、体育界などは中央集権的にできているのに、それらが組み上がった全体としてのパワーシステム(権力構造)は、どこにも体現されていないのです。

>多少疑わしいのは自民党で、ここにパワーシステムや中央集権の秘密があるのかもしれないと、ウォルフレンは時間をかけて調べるのですが、いくら調べてみても、どうやら自民党には派閥のパワーバランスがあるだけで、あとは「利益誘導」と「集票マシーン」が動いているばかりです。   

>予算も財務省や各省庁に握られている。   

>中央集権力は中央の力が地方の末端に及ぶことでもあります。   

>けれども日本のばあいはその「押さえ」は地方にばらまく地方交付金や「補助金」に頼っているようで、それは政治意志や権力意志ではなく「お金」なのです。   

 

そうですね。日本人には意思がないですからね。   

 

>野党は野党で、のべつ権力奪取の声はあげているものの、それは与野党の力の逆転を選挙でどう勝ちとるかというところに主眼があって、あんなに時間があるはずなのに政治哲学を磨いているとは思えない、それが証拠に国民は野党の政治哲学に賛同して投票しているようではない。   

 

日本人は無哲学・能天気ですからね。政治家には政治哲学が必要であるという事が国民に理解できない。      

 

>また政治哲学を磨くには、あまりに政党改変をしすぎている。   

 

議員は政党改変が政治家の任務と心得ているのでしょうね。   

 

>こうなってくると、残るは警察権力と自衛隊と保守的圧力団体のどこかの深部に権力中枢の発動源でもあるのかという陰謀小説のような推測になってくるのですが、そういうものがこの国でひそかに動いているとは思えません。   

 

無哲学・能天気の人に、それはないでしょうね。   

 

>たとえば日本の警察権力は各国とくらべてみてもなんら遜色がないし、犯罪発生率や不正検挙率などを見ても格段の腕前をもっています。   

>極度に中央集権化されている度合いも国内随一のようです。   

>もしも野心を抱く一派がクーデターをおこすとすれば、公安警察と機動隊を握っている警察権力が一番の力をもっているといえます。   

>けれども日本の警察にはナショナル・インタレストに対する意志がないように思えます。   

 

勿論彼らに意思はありませんね。    

 

>好意的に見れば国内の正義と安定にはすばらしい機能を発揮しているとしても、対外的にナショナル・インタレストを守っているようには見えません。   

>日本の評判やプレステージを高めるという意図もない。   

>自衛隊はどうかといえば、こちらは日米安保体制に骨の髄までしっかり縛られていて、にっちもさっちもいかないでしょう。   

>三島由紀夫がかすかな望みをもったことはありましたが、自衛隊の隊員にも反逆の野望はひそんではいませんでした。   

>私は「モーニング」連載時から、かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』(講談社漫画文庫)のファンでしたが、ああいうことはとうていおこらないのです。   

>それなら他の保守的な圧力団体が何かを掌握しているのかというと、農協から神社庁まで、産業界から右翼勢力まで、政治権力をほしがっているとは思えません。   

 

日本人は無哲学・能天気ですからね。ノンポリ・政治音痴になっています。   

 

>自民党とボス交ができていればそれで十分なのです。   

>これではどこからもジャパン・クーデターなど、おこりっこない。   

>いったいどうなっているんだ、利権の構造ばかりが目立っているけれど、国家や権力は無用の長物なのか、そんなことはあるまいとウォルフレンは考えこみます。   

>そこで想定できたのは次のようなことでした。

>哲学なき権力構造   

>日本の権力は、それがないなどとはいえないのだから、きっと極度に非政治的なプロセスでできているのだろう。   

>そのシステムは欧米が規定してきた権力機構のしくみではなく、すなわち議会や内閣や官僚が制度的に掌握するのではなく、複合的なアドミニストレーター(管理者)によって連関的に体現されているのだろう。   

 

それは派閥政治ですね。    

 

>そう、想定したのです。   

>そうだとすると、そのしくみがパワープロセス(権力の行使過程)になっているだろうことはあきらかなので、またそのプロセスが中央集権的なプロセスになっていることもあきらかなので、それらがボディ・ポリティックス(統治の体制)としてのみ見えるようになっているということになります。   

>そして、そう見えるような努力ばかりが尽くされているのではないかというのです。   

>一言でいえば、システムなきシステム、「権力中枢の不在を補うシステム」でできあがっているのが日本だというのです。   

>日本の権力システムは部分と部分をつなぐアドミニストレーションの鎖でできていて、いわば関節技ばかりで決められてきたのではないかというのです。   

>リスポンシビリティ(行動責任)をとるけれど、アカウンタビリティ(説明責任)がとれないのは、説明する準備も哲学もないからだとも指摘した。

 

無哲学・能天気であっては説明責任はとれませんね。    

 

>これはあまりにも情けない日本の実情を推定されたなと、ギクッとせざるをえないことですが、ではこの推定に代わることを日本はとりくんできましたか、たとえば大学やマスメディアはこの推定をくつがえす研究や提案をしてきましたかと、ウォルフレンは挑戦的な問いを投げかけたのです。   

>以上、ウォルフレンの見方には日本人が言いにくいところを突いたという点を含めて、なかなか興味深いところがあります。   

>このあとも『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社)、『アメリカからの「独立」が日本人を幸福にする』(実業之日本社)、『日本を追い込む5つの罠』(角川書店)といった、かなり踏みこんだというか、そうとうお節介なタイトルの本も書いています。   

>辛口でユニークな視点が躍如しているように感じられますが、ここで冷静になってやや大局思想的なことを言っておくと、実はこういう論調は、海外の知識人に多いリヴィジョナリスト(日本見直し論者)がしばしば口にしてきた日本異質論に近いものです。   

>だから、その多くの議論は欧米の定見に沿って日本社会に切り込んだだけとも言えます。   

>たとえば、日本はナショナル・インタレストを守る主体がいないという見方については(日本が国益を軽視したことなんてありません)、欧米がそのための主体を前面に押し出して交渉決議してきた近現代史からすれば、そういうふうに受け取られても仕方がないところですが、日本はもともと合議的だったと、最近は中長期的な外交折衝に切り替わっていると見れば、反論可能です。   

>ただ、日本人はそのことを世界にわかりやすく説明できていなかったのです。   

 

日本人の説明責任は必要ですね。   

 

 

 

 


ハイコンテキスト  

2024-04-23 13:27:08 | 文化

>現代ビジネス   >明治時代、日本に来た外国人たちが「驚愕」した「日本の文化」のすごさ   >松岡正剛の意見・   >12時間   

>日本文化はハイコンテキストである。   

 

そうですね。

 [高文脈文化・ハイコンテキストと低文脈文化・ローコンテキストの比較の例]

《高文脈文化》の特徴:  言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない /

《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語  / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 /

出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)

 

>一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。   

 

日本文化の真骨頂は国際社会では通用しないですね。   

 

>「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!   

>*本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。   

>発見された日本美   

>こんなふうに、明治の「学び」は欧米主義一辺倒だったのですが、一方、意外なこともおこりました。   

>ハーンやフェノロサやコンドルのように、日本の実情を取材にきた作家、日本に欧米の美術や建築を教えにきたお雇い外国人が、初めて見る日本の文化に驚きの目を見張ったのです。   

>そして、この目を見張るほどの文化を欧米のロジックやテクノロジーが壊してしまうのではないかと心配した。   

 

西洋かぶれの日本人が多いですからね。   

 

>ラフカディオ・ハーンは松江で日本人の小泉節子と結婚し、日清戦争と日露戦争のあいだの明治29年(1896)に日本国籍をとり、小泉八雲として日本のしきたりや昔話を英文にするためペンをとりました。   

>『日本の面影』『心』『怪談』は傑作です。   

>アーネスト・フェノロサはハーバート・スペンサーの社会進化論をひっさげて来日した俊英の学者でしたが、日本の仏像や日本絵画を見てびっくりし、岡倉天心とともに日本人が誇るべきはそういう日本独特のアートだと考えました。   

>天心は『茶の本』『日本の目覚め』『東洋の覚醒』などを書き、欧米のリクツでは日本文化の精髄は説明できないと強調した。   

 

西洋の文化に対する、下位の文化 (subculture) でしょうね。    

 

>丸の内に煉瓦街を出現させた建築家のジョサイア・コンドルは、片山東熊(赤坂離宮・東京国立博物館表慶館など)や辰野金吾(日本銀行・東京駅・奈良ホテルなど)らを育て、かれらに洋風建築の精髄を教えるわけですが、自身は日本の絵画や三味線音楽に痺れ(端唄や小唄!)、河鍋暁斎に日本画を学んだり、都々逸の本を英語で出版したりしたのです。   

>ハーンやフェノロサやコンドルが見いだした日本の美は生活の中に生きていたり、徒弟的に師から弟子に伝えられたりしてきた技法やセンスにもとづくもので、教育的に継承されてきたものではありません。   

 

教育では継承は無理ですね。それは言語を介していないからです。   

 

>「生」と「技」と「美」がつながっていたのです。   

>かれらはそこに感動したのです。   

 

そうでしょうね。言語を介することのない文化がこの世に存在するのですから。   

 

>それまで外国にあまり知られていなかった浮世絵が注目され、大量に海外流出してジャポニズムとして話題になっていったのもこの時期です。   

>浮世絵も日本人には美術価値よりも江戸社会の風景や風俗を写したものとみられていたにすぎなかったのが、外国人にはたいそう特異な表現力の賜物として評価されたのでした。   

>しかしながら政府が学校の先生や生徒にもたらそうとしたものは、日本人がたいせつにしてきた「生と技と美」のつながりを解釈できる能力の提供ではなかったのです。   

 

そうですね。日本は低文脈文化に強く押されていましたからね。   

 

>少なくとも「学制」としてはそういうことをほとんど重視しなかった。  

 

言語を介することのない文化は学校制度では継承できませんからね。   

 

>かわりに明治近代の学制が強調したのは何だったのか。   

>「教育勅語」でした。   

>これからの日本人が大日本帝国の国民(臣民)として守るべき歴史観と道徳観を公式見解にしたような勅語です。  

 

そうですね。日本人はあくまでも序列社会の序列人間ですね。   

思考を停止しているので無哲学・能天気ですね。  

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。      

 

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