gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

木原育子氏  

2024-04-23 03:15:06 | 文化

>東京新聞   >謝罪もせず「研究させろ」とは何事か アイヌ民族と研究者の初対話から考えた「知りたい欲求」が持つ暴力性  >14時間・  

> アイヌ民族の文化やDNAの研究に関し、先住民族としての権利や尊厳を定めた研究倫理指針の最終案が公表された。   

>日本人類学会などが作成し、盗掘や遺族の同意を得ていない遺骨の利用を禁じることなどを明記したが、植民地主義に根差した過去の不正義に対する「謝罪」はない。   

>「研究ありき」の姿勢も維持したままで世界の潮流からは程遠い内容だ。   

>日本の研究者たちが掲げてきた「学問の自由」の暴力性について考えた。   

>(木原育子)   

>アイヌ民族の遺骨の無断利用を禁止 研究倫理ガイドライン案を公表 過去の盗掘の「謝罪」盛り込まず

>◆「私たちにも研究されない権利がある」   

> 13日、指針の最終案が公表された札幌市内の集会。   

>アイヌ民族の木村二三夫さん(75)=北海道平取町=の野太い声が会場に響いた。   

>「アイヌ民族の自己決定権が保障されずに、研究倫理指針が策定されるとすれば大問題だ」   

> 道アイヌ協会に属していない大多数のアイヌ民族と、案をまとめた研究者が一堂に会する対話は初めて。   

>遺骨返還運動をしてきた木村さんが呼びかけた。   

> 集会の名は「アイヌネノアンアイヌ」。   

>「人である人」「人間らしい人間」という意味だ。   

>これまでの人権意識を欠く研究姿勢を見直し、「人間らしい学問のあり方」を、との願いがある。   

>会場には90人近いアイヌ民族らが訪れ、4時間近く膝詰めの議論が繰り広げられた。   

> 口火を切ったのは樺太アイヌ(エンチウ)の子孫らでつくる「エンチウ遺族会」会長の田沢守さん(69)。   

>「なぜアイヌ民族だけ研究され続けるのか。   

>研究者が研究する権利を保障されているなら、私たちも研究されない権利がある」   

>◆お墓から遺骨を盗むのは研究ではなく犯罪だ   

> 多くのアイヌ民族には、祖先の遺骨を持ち出したことに謝罪もなく、指針が策定されることへの憤りがある。   

> 千島列島の得撫島(ウルップトウ)生まれのアイヌ工芸家、成田得平さん(80)は「お墓から遺骨を盗むのは研究ではなく犯罪だ。   

>研究者はアイヌ民族をまた、まな板にのっけようとする」と声を張り、アイヌ民族の権利保障を求め続けてきた石井ポンペさん(78)もアイヌ民族の死生観を語り「まずはアイヌ民族の今ある遺骨を土に返したい」と語った。   

> 指針案は過去の経緯を「謝罪」はしないが「反省」はし、アイヌ民族の意思を尊重する旨は記すが、インフォームドコンセント(十分な説明と同意)は通り一遍だ。   

1868年より前の遺骨は研究利用できる余地があるなど、研究禁止事項の例外規定も多く残す。   

> 浦河町のアイヌ民族、八重樫志仁(ゆきひと)さん(61)は「研究が前提になっている。   

>和解もしていないのに『研究させろ』とは何事か」と憤り、白老町のアイヌ民族、八幡巴絵さん(40)も「研究対象ではなく、アイヌ民族をパートナーの位置付けに」と提案した。   

>◆沖縄も同様、今なお根強い「植民地主義」   

> 先住民族の遺骨は19世紀以降、頭骨の計測で人種の違いを探る人類学が盛んになり、人種に優劣をつける植民地政策の下、研究者に大量収集された。   

>アイヌ民族は欧州とのつながりを指摘した学説で注目され、遺骨が国内外に散逸した。   

> 国際社会では2007年に、先住民族が遺骨返還を求める権利を記した「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択し、日本も批准。   

>ただ日本の返還の動きは鈍く、アイヌ民族以外も含めて返還訴訟が相次いだ。   

> 琉球人遺骨の返還を求める市民団体「ニライ・カナイぬ会」共同代表の仲村涼子さん(45)も集会に参加。   

>指針案は研究する側、される側の立場が前提にあるとして「これこそ植民地主義だ」と訴えた。   

>「遺骨返還のプロセスも国が判断し、決定権がアイヌにない。   

>遺骨の問題はヤマトに責任がある。   

>ヤマトが起こした問題はヤマトゥンチュが解決するべきだ」   

>◆単独でアイヌ民族に謝罪した学会も   

> 指針案をまとめたのは、日本人類学会と日本考古学協会、日本文化人類学会、道アイヌ協会の4学協会。   

>集会では、ひな壇に並んだ学術界側の苦し紛れととれる言葉も散見された。   

> 日本考古学協会副会長で、東京大の佐藤宏之名誉教授は「ご不満な点はあると思うが、非常に丁寧に議論してきた」と反論。   

>東北大総合学術博物館の藤沢敦教授も「アイヌ民族の参画は大前提だ」と繰り返した。   

> ただ、学術界といっても意見は一枚岩ではない。日本文化人類学会は今月1日付で、単独でアイヌ民族に謝罪を表明した。   

> 同学会で京都大の松田素二名誉教授は「植民地統治時代にさまざまな不正義が行われたが、その出発点が何も問われていない。   

>議論がないことは一番の問題で、修正しなければならない」とし、九州大の太田好信名誉教授も「このような案になり、じくじたる思いがある」と歩み寄った。   

>◆「先住民族の許可なく研究できない」のが国際的な常識   

> 一方、人骨のDNA分析などを手がける日本人類学会の所属で東京大の近藤修准教授は「純粋な研究としてやったことを否定できない。   

>許されないなら、私はここを立ち去るしかない」と意見を展開。   

>明治期に墓地を掘り返すなどして多くの遺骨を収集した東京帝国大医科大(現東大医学部)の小金井良精(よしきよ)について「アイヌ研究の最も基盤となった礎だ」と主張すると、アイヌ民族から怒声が飛び、日本文化人類学会側も反論した。   

> 立場の違いが鮮明になり、指針さえ定まらぬ様相だが、「知りたい」という学問的欲求と相対する人間の尊厳を、海外ではどう捉えているか。   

> 「カナダでは博物館協会が1999年に倫理指針を作り、遺骨の返還方針を盛り込んだ。   

>現在では先住民族の遺骨の所持自体が倫理的に問題だとして、先住民族と研究者が和解をし、パートナーシップを結んだ上で研究しようとしている」。   

>そう説明するのはカナダの先住民研究に詳しい鹿児島純心大の広瀬健一郎教授。   

>「先住民族の許可が得られない研究は、どんなに人類に必要な研究でも実施できないのは国際的な常識」。   

>カナダだけでなく、先住民族のコミュニティーから許可を得ていない遺骨を用いた研究は一切認めない国際ジャーナルは増えている。   

 

信無くば立たずですね。   

日本人には信用が無い。

日本人には意思が無く、加害者意識がない。だから罪の意思が無く、謝罪ができない。だから信用がない。   

 

> オーストラリアは84年、関係者の同意がない研究は禁止する法案が成立。   

>米国も90年に法整備しており、日本との差は開くばかりだ。   

>◆「学問の自由」=「無制限のアクセス」ではない   

> 日本人類学会に所属する米モンタナ大の瀬口典子客員教授(生物人類学)は「北米では先住民族のコミュニティーメンバーから出された提案をもとに共同研究を進め、『協働研究』と位置付けている。   

>学者の一方的な研究より、はるかに豊かな成果を伴っている」と指摘。   

>「日本人類学会はアイヌ民族から完全に信頼を失っている。   

>対話を通じて良好な関係を築かなければならない。   

>社会とのつながりを拒絶する学会に未来はないのだから」と訴える。   

> 米人類学会は昨年12月、遺骨研究の倫理的あり方に関する報告書で「学問の自由は『無制限のアクセス』と同義ではない」と位置付けたが、4学協会の指針案は「研究行為は、学問の自由の下に行われるものである」と掲げ続ける。   

> 先住民族の復権運動を担ってきた室蘭工業大の丸山博名誉教授は「自己正当化が垣間見え、依然植民地主義的だ」と指摘し、「日本の研究者は社会的使命に基づき、真実と和解に向け、国際的、学際的研究に取り組むべきだ」と続ける。   

> 今後、先住民族の研究はどうあるべきか。   

>「先住民族が自分たちに関するデータの利用方法の意思決定者になる『データ主権』を踏まえて、自由で事前の十分な情報に基づく同意を研究のあらゆる段階で得ることが求められる」とし、「日本の先住民族も世界の先住民族と連帯し、学問の不正義を止めるために研究倫理の遵守(じゅんしゅ)を徹底する努力をしてほしい」と説く。   

>◆デスクメモ   

> 沖縄の風葬墓を訪れたことがある。   

>森の闇の奥に小さな骨が見え、この墓に何度も足をかけ採集し尽くしたという旧帝大の研究者の姿を想像し、ぞっとした。   

>遺骨は「骨神(ふにしん)」とあがめられる。   

>民族の尊厳を踏み付けながら謝罪もなく「学問の自由」をうたうなど虫が良すぎる。(恭)   

 

信無くば立たず。    

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

 

 


まいどなニュースの意見  

2024-04-22 17:48:28 | 文化

まいどなニュース   外国人講師が選ぶ「日本人のここがすごい」ランキング2位の「礼儀正しい」を超えたのは   まいどなニュースの意見・   4時間   

>英会話サービス『駅前留学NOVA』『Gabaマンツーマン英会話』などを行う株式会社NOVAランゲージカンパニー(東京都品川区)は、このほど「日本の魅力」についての調査結果を発表しました。   

>同社所属の外国人講師287人を対象とした同調査によると、「日本人のここがすごい!」ランキングの1位は「親切(kindness)」となりました。    

>調査は、20242月にインターネットで実施されました。   

>   ◇  ◇   

>外国人講師287人に「日本人のここがすごい!」と思うところを聞いたところ、1位は「親切(kindness)」(43票)でした。   

>次いで、2位「礼儀正しい(PolitenessCourteousness)」(35票)、3位「敬意(Respectful)」(18票)が続き、それぞれの回答について以下のようなコメントが寄せられました。   

>【1位:親切(kindness)】   

>▽日本人がとても友好的で親切な人であることに感銘を受けました。   

>あらゆる年齢の人々が私のところに訪れ、会話しようとします。   

>▽自信を持って英語を話せなくても、外国人が問題を抱えていたら、その場の誰かが助けようとします。   

>▽日本人の多くがお互いを読み取る鋭い感覚を持っていることに驚きました。   

>信じられないほど親切で、私の経験上、意地悪な日本人に会ったことはほとんどありません。   

>日本の平和、友好的な雰囲気へのコミットメントを本当に尊敬しています。   

>▽海外では日本人は冷たい、外国人嫌いと思っている人も多いですが、日本に来て私はその反対が真実と知りました。   

>日本人は英語を使うことに緊張しているかもしれませんが、いつも親切で素敵です!   

>【2位:礼儀正しい(PolitenessCourteousness)】   

>▽他人に対するあらゆる面での礼儀正しさと配慮は、日本人の素晴らしさの1つです。   

 

日本人の礼儀作法は序列作法ですからね。序列上位の者に対しては礼儀正しいですね。      

 

>▽日本人はとてもフレンドリーで礼儀正しいです。   

>私は多くの日本人に非常に歓迎され、受け入れられていると感じました。   

>▽日本人の多くは信じられないほどの自制心を持っています。   

 

日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱の人間は自制するしかありません。   

 

>私はその絶妙に美しい礼儀作法が大好きです。

 

それは場合によりけりでしょうね。    

 

>▽日本人は物静かで、他人を尊重します。   

>トラブルを起こしたり、他人に迷惑をかけません。   

>公共の場でリラックスできます。   

>【3位:敬意(Respectful)】   

>▽ほとんどの日本人は、伝統に対する強い敬意(特に食べ物や祝祭日に関して)を持っています。   

 

日本文化は形式があって内容が無い。内容が無いだけに、日本人はそれだけ余計に形式には拘ります。だから保守的です。      

 

>▽日本の価値観に敬意を示せば、日本の人々も私たちの文化に感謝と敬意を示してくれます。   

>▽日本人は、尊敬に値するコミュニティへのコミットメントを持っています。   

>地元企業は建物周辺を熱心に清掃し、住宅地では苦情や問題を起こさず、リサイクル・ゴミのスケジュールや清掃を守っています。   

 

日本人は無意思ですからね。同調圧力で動いていますね。一糸乱れずやりますね。      

 

>▽不文律と周囲の人への敬意。   

>これをひとたび理解できれば、他人に影響されずに自分の人生を生きるのがとても簡単になる。   

>海外の多くの人がこの「集団心理」を否定的なイメージで描き、個性が欠けていると言う。   

 

日本人は思考を停止しているから没個性的ですね。   

 

>しかし、これは真実とはかけ離れていて、誰もがなりたい自分になる自由はあるが、他人の平和を犠牲にしてはいけない。   

>実際、私はイギリスよりも日本で出会った人たちのほうがずっと個性的で、世界が自分を中心に回っていると考えることなく生活している。   

>以降、4位「忍耐」(10票)、同率5位「清潔」「勤勉」(いずれも7票)、7位「思いやり」(6票)、同率8位「ユーモア」「謙虚さ」(いずれも5票)が続きました。   

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。     

 

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに発達する言語能力を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制を活用して非現実の内容を文章にする訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする努力である。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本語は現実の内容だけを伝える言語である。日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘ばかり (きれいごと) を語っていては学習に力が入らない。だから思考停止になっている。日本人は相変わらず無哲学・能天気の民にとどまっている。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。考えの内容がものを言う時代である。個人の哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっている。これらは高等教育の賜物である。

当の日本人の若者はいまなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりで持切りである。注意力不足で井の中の蛙ばかりになっている。国際取引で印欧語族の知識人を取引相手にして苦戦を強いられることになる。   

 

 

 

 

 

 

 


日本の文明  

2024-04-20 11:08:09 | 文化

>現代ビジネス   >「日本の文明」に圧倒的な衝撃を与えた「3つ目の黒船」の正体…史上「最初で最大」の文明的事件   >松岡正剛の意見・   >19時間・   

>日本文化はハイコンテキストである。   

 

そうですね。   

 

>一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。   

 

日本語は文章にならないことが多い。文章にならないものは意味がない。   

 

>「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!   

 

気分・雰囲気・感情には意味がありませんね。趣味には論拠がない。There is no accounting for tastes.   

 

>*本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。   

>史上最初で最大の文明的事件   

>日本という国を理解するためには、この国が地震や火山噴火に見舞われやすい列島であることを意識しておく必要があります。   

>いつどんな自然災害に見舞われるかわからない。   

>近代日本の最初のユニークな科学者となった寺田寅彦が真っ先に地震学にとりくんだのも、そのせいでした。   

>日本はフラジャイル(壊れやすい)・アイランドなのです。   

>しかも木と紙でできあがった日本の家屋は、火事になりやすい。   

 

焼夷弾で良く燃える。   

 

>燃えればあっというまに灰燼に帰します。   

>すべては「仮の世」だという認識さえ生まれました。   

 

日本人には現実 (事実) があって非現実(考え・哲学)がない。灰燼に帰するものしか手にしていない。    

 

>けれども、それゆえに再生可能でもあるのです。   

>こうして復原することは日本にとっては大事な創造行為になったのです。   

>熊本城の破損や首里城の炎上は心を痛める出来事でしたが、その復原こそは多くの人々の願いとなった。   

>そのため「写し」をつくるという美意識が発達します。   

 

そうですね。形があって内容が無い。それだけに、形には拘りがありますね。      

 

>ひるがえって、日本列島は2000万年前まではユーラシア大陸の一部でした。   

>それが地質学でいうところのプレートテクトニクスなどの地殻変動によって、アジア大陸の縁の部分が東西に離れ、そこに海水が浸入することで日本海ができて大陸と分断され、日本列島ができあがったと考えられています。   

>このような成り立ちをもつゆえに、日本列島が縄文時代の終わり頃まで長らく大陸と孤絶していたという事実には、きわめて重いものがあります。   

>日本海が大陸と日本を隔てていたということが、和漢をまたいだ日本の成り立ちにとって、きわめて大きいのです。   

>その孤立した島に、遅くとも約3000年前の縄文時代後期までには稲作が、紀元前4~前3世紀には鉄が、4世紀後半には漢字が、いずれも日本海を越えて大陸からもたらされることになったという話を、『日本文化の核心』第1講でしておきました。

>「稲・鉄・漢字」という黒船の到来です。   

 

技術の革新ですね。  

 

>とりわけ最後にやってきた漢字のインパクトは絶大でした。   

>日本人が最初に漢字と遭遇したのは、筑前国(現在の福岡県北西部)の志賀島から出土した、あの「漢委奴国王」という金印であり、銅鏡に刻印された呪文のような漢字群でした。   

>これを初めて見た日本人(倭人)たちはそれが何を意味しているかなどまったくわからなかったにちがいありません。   

>しかし中国は当時のグローバルスタンダードの機軸国であったので(このグローバルスタンダードを「華夷秩序」といいます)、日本人はすなおにこの未知のプロトコルを採り入れることを決めた。   

>ところが、最初こそ漢文のままに漢字を認識し、学習していったのですが、途中から変わってきた。   

>日本人はその当時ですでに1万〜2万種類もあった漢字を、中国のもともとの発音に倣って読むだけではなく、縄文時代からずっと喋っていた自分たちのオラル・コミュニケーションの発話性に合わせて、それをかぶせるように読み下してしまったのです。   

>私はこれは日本史上、最初で最大の文化事件だったと思っています。   

>日本文明という見方をするなら、最も大きな文明的事件だったでしょう。   

>ただ輸入したのではなく、日本人はこれを劇的な方法で編集した。   

 

日本人は改良が上手ですからね。   

 

>中国語学習ムーブメント   

>漢字の束を最初に日本(倭国)に持ってきたのは、百済からの使者たちでした。   

>応神天皇の時代だから4世紀末か5世紀初頭でしょう。   

>阿直岐が数冊の経典を持ってきた。   

>当時の日本は百済と同盟関係になるほどに親交を深めていました。   

>阿直岐の来朝からまもなく、天皇の皇子だった菟道稚郎子がこの漢字に関心をもち、阿直岐を師と仰いで読み書きを習いはじめました。   

>これを見た応神天皇が、宮廷で交わしている言葉を文字であらわすことに重大な将来的意義があると感じて、阿直岐に「あなたに勝る博士はおられるか」と尋ねたところ、「王仁という秀れた者がいる」と言います。   

>さっそく使者を百済に遣わしてみると、王仁が辰孫王とともにやってきた。  

>このとき『論語』『千字文』あわせて11巻の書物を持ってきた。   

>この『千字文』というのは、たいへんよくできた漢字の読み書きの学習テキストです。   

>私も父に教えられて書の手習いがてら、いろいろ学びました。   

>王仁は「書首」の始祖となります。   

>その後も継体天皇7年のときに来朝した五経博士の段楊爾、継体10年のときの漢高安茂、欽明15年のときの王柳貴というふうに、何人もの王仁の後継者が日本に来ました。   

>このことは、見慣れない「文字」とともに「中国儒教の言葉」がやってきたことを意味します。   

>そうして朝廷に中国語の読み書きができる人材がいよいよ出現してきたのです。   

>それなら、こうした外国語学習ムーブメントが日本の中に少しずつ広まって、みんなが英会話を習いたくなるように、やがて中国語に堪能な日本人(倭人)がふえていくはずです。   

>実際、たしかにそういうリテラシーの持ち主はふえたのですが(貴族階級や僧侶に)、だとすれば今日の日本人が英会話をし、英語そのままの読み書きができるのと同じように、多くの日本人が中国語の会話をするようになって当然だったのですが、そうはならなかった。   

 

中国語会話は中国人同士でもうまくいきませんねえ。中国語は同文であっても同音ではないからです。   

 

>中国語をそのまま使っていくのではなく、漢字を日本語に合わせて使ったり日本語的な漢文をつくりだしたりした。   

>まさに文明的な転換がおこったのです。   

 

そうですね。   

漢文は中国人以外に通じませんからね。国際社会において便利さが少ないですね。   

日本語の仮名漢字記述法も国際社会において便利さが少ないですね。   

日本語をローマ字 (alphabet) 記述法にして漢字圏に以外の人にも日本語を使えるようにしたらよいですね。  

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。経文など漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

・・・・・

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北狄 (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。  

 

 

 

 

 

 

 


文化の核心  

2024-04-18 18:20:22 | 文化

>現代ビジネス  >「日本」は「一神教の国」でも「多神教の国」でもない…あまりに不思議な「その実態」   >松岡正剛の意見・   >12時間   

>日本文化はハイコンテキストである。   

>一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。   

 

日本人はつかみどころがないですね。   

 

>「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する!   

>*本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。   

>多神多仏の国   

>日本は一神教の国でもなく多神教の国でもなく「多神多仏の国」です。   

>神国でもなく、仏国土でもありません。   

>そのように主張した人々はいましたが、その思いや狙いはべつとして、結果として多神多仏なのです。   

>その「結果として」は、けっこう昔からのことでした。

8世紀や9世紀に神宮寺ができて、神前読経が始まったころから(神の前で仏教の経典を読んでいたのです)、多神多仏なのです。   

>八百万の神々がいるだけではなく、そこに仏教、道教、民間信仰のイコン(聖像)たちがまじりあってきた。   

>石ころも鰯のアタマもまじってきた。   

>そのせいか、「日本人の宗教観はよくわからない」「はっきりしない、どうもあいまいだ」とはよく言われてきたことでした。   

>たしかに一人ひとりの宗教観はわかりにくいし、家の宗教(宗旨)もはっきりしない。   

>神道なのか仏教なのかと聞いても「ま、両方ですかね」などという答えです。   

 

日本の文化には形式 (現実) があって内容 (非現実) が無い。日本人は無哲学・能天気ですからね。      

 

>しかし、こんなふうになっているから「多神多仏の国」だというのではありません。   

>もとより多神多仏なのです。   

>多くの日本人は結婚式では神主さんの前で三三九度の杯をかわし、葬式ではお坊さんを呼んでお経を誦んでもらって、仏式になります。   

 

日本人は気分・雰囲気の良いものを選びますね。   

 

>神棚と仏壇が両方ある家も少なくはない。   

>また仏壇がなくとも、たいていの家にはお数珠は用意されている。   

 

日本人の宗教には儀式があって教義がない。日本人は無哲学・能天気ですからね。    

 

>年末年始になると、きっとあまり意識せずにそうしているのでしょうが、日本人は大胆な行動に出ます。   

>クリスマスをやって商店街のジングルベルを何十回も浴び、年の瀬には煤払いをしてお節を用意し、門松を飾って、除夜の鐘を聞き、正月には初詣で神社やお寺に行くのです。   

>その初詣の人口は平成年間平均で8000万人を超えています。   

>統計データでは平成20年(2008)が9818万人の最高記録になっている。   

>ちなみに平成20年の全国初詣トップテンは、(1)明治神宮(東京)、(2)成田山新勝寺(千葉)、(3)川崎大師平間寺(神奈川)、(4)伏見稲荷大社(京都)、(5)鶴岡八幡宮(神奈川)、(6)熱田神宮(愛知)、(7)住吉大社(大阪)、(8)浅草寺(東京)、(9)武蔵一宮氷川神社(埼玉)、(10)太宰府天満宮(福岡)、というふうになっています。   

>けれども残念ながら、それらの神社仏閣の御祭神や本尊について言える人は少ないはずです。   

 

日本人の宗教には儀式があって教義がない。日本人は無哲学・能天気ですからね。    

 

>熱田神宮は? 氷川神社は? そういうことには無頓着なのです。   

>信心深いのか、テキトーなのか、どうにも一貫していない。   

>寛容? 信仰心がない?   

>もうすこし話をつづけると、日本各地にはお地蔵さんがいて、観音巡礼の札所が津々浦々にあって、鎮守の森にはたいてい八幡さまが朱色の鳥居をかまえています。   

>多くの日本人がそのいずれにもそれなりの敬意を払い、お賽銭も上げ、手も合わせます。   

>けれども地蔵信仰のことも観音信仰のことも、八幡さまのこともあまり知ったことじゃない。   

>地蔵は仏教的には地蔵菩薩で、観音さまは観音菩薩のことです。   

>だからこれらはインド由来の菩薩信仰のヴァージョンなのですが、日本人は自分たちが菩薩信仰をしているなどという意識はもちません。   

 

インド人にはインド哲学がある。日本人は無哲学である。      

 

>八幡さまは必ず八幡神を祀っているのですが、それが鎌倉時代以降に奉られた武神であって、誉田別命すなわち応神天皇と同一視されてきたことなど、やっぱり知ったことじゃないのです。   

>お稲荷さんや七福神をありがたがってもいる。   

>けれどもその由来も気にしない。念のためいうと、お稲荷さんは稲荷神社のことですが、その御神体はウカノミタマ(宇迦之御魂神)と稲を担いだ神さま(稲荷神)とキツネが習合したものです。   

>インド仏教の夜叉(やしゃ=ヤクシャ)に属する荼吉尼天(ダキニ天)との関係もわかっています。   

 

印欧語族は印欧語の文法に従って考える。  

彼等の文法には時制 (tense) というものがあって非現実 (考え) の内容を文章にすることができる。すると一人一人に世界観ができる。       

 

>でもそのお稲荷さんは日本では商売繁盛にしっかりむすびついていて、会社の敷地に小さな稲荷社を置いているところもあるほどです。   

>一方の七福神は「恵比寿・大黒天・福禄寿・毘沙門天・布袋・寿老人・弁財天」ですけれど、これらはインドの神や禅僧や日本の海神など、ごちゃまぜです。   

>恵比寿は日本古来の漁業の神、大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の異名、福禄寿は道教の神さま、毘沙門天は仏教の四天王の一人……。   

>それでも多くの日本人は、この七福神がたのしそうに宝船に乗ると、これをおもしろがり、町の七福神めぐりもする。   

>おそらく中国の福神思想が長崎あたりに流れてきて、近世に七福神化したのだろうと思います。

 

そうでしょうね。日本人は無哲学・能天気ですからね。    

 

>これらはまさに多神多仏の現象です。   

>ではいったい、なぜこんなふうになったのか。   

>何かがもともとでたらめだったのか、あるいは寛容なのか。   

>実は無宗教なのか、信仰心がないのか。   

>それとも日本人は宗教に関して考えることが苦手なのか。   

 

日本人には世界観が無いから宗教に魂の救済を求める必要もないですね。   

 

>日本の信仰はシンクレティズム [syncretism: (哲学・宗教上の)混合主義]  

>歴史をふりかえれば、日本人が無宗教であったとか、信仰心がなかったとはとうてい言えません。   

>聖徳太子の「唯仏是真」宣言や東大寺の大仏開眼このかた、日本人は仏教や仏像を愛し、読経に親しみ、その一方で伊勢や出雲や各地の鎮守の八幡さんをはじめとする神祇神道にも親しみ、さらには数々の民間信仰にも関心を寄せてきたのです。   

>つまりもともと神仏習合的だったのです。   

>中世には熊野信仰が流行しました。   

>近世には富士信仰が流行しました。   

>こういったことはずうっと続いているのです。   

 

それは世界中で広く見られる自然崇拝でしょうね。    

 

>だから日本人が無宗教だとか無信仰だとかとは、とうてい言えません。   

>それなのにあいまいで、自分自身の宗教性は語らない。   

 

日本人には世界観がない。だから、あるべき姿の内容が無い。   

 

>信仰力を大事なものと見ない傾向がある。   

>どうしてなのでしょうか。   

>阿満利麿は話題になった『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)という本のなかで、日本人は「創唱宗教」にもとづく信仰には全般的に無関心なのであって、それをもって必ずしも信仰心がないとは言えないだろうと書きました。   

>創唱宗教というのは教祖・教義・教団がはっきりしている宗教のことです。   

>そういう創唱宗教を各自がもっているわけではないが、みんながそれぞれ勝手な信仰心をそれなりに発揮してきたというのです。   

>つまり日本人は宗教を拒否しているわけでも、否定しているわけでもなく、そのつど「信仰の向き」を選択しているのではないかというのです。   

>欧米の宗教学者たちは、こうした日本人の信仰は「シンクレティズム」(混淆的信仰観)だと言います。   

 

日本人は猿真似ですからね。その内容は想定外になっている。      

 

>まあ、当たらずとも遠からずです。   

>ただし、日本のシンクレティズムは宗教だけにはかぎりません。   

>いろいろな場面で混淆的です。   

>リミックスが得意なのです。   

>このことはまた話します。   

>ともかくも、たしかに親鸞や座禅や初詣が好きなのは、その依ってきたる浄土真宗の教義や禅の清規や初詣をした神社の御祭神のせいではなくて、おそらくはたんに「ありがたい気分」がするだけからかもしれません。   

 

日本人は気分・雰囲気・感情を大切にしますからね。    

 

>その一方で、たくさんの人々が伝統宗教や八十八ヵ所巡りや新宗教にかかわって、今日も仏前にロウソクを灯し、神棚の水をとりかえているのも事実なのです。   

>というようなことで、私たち日本人にとって神道と仏教は実はわかるようでいて、なかなかわからないものの代表のようです。   

>それでも、日本の神と仏はずうっと習合しようとしつづけた、と言うべきです。   

>神と仏を分離しようとしたのは、明治政府が神仏分離令を発布して行われた廃仏毀釈のときだけです。   

>この痛手はのちに影響をのこしたものの、大きくは今日にいたるまであいかわらず神仏習合が主流になってきたのです。   

>*   

 

印欧語の文法には時制 (tense) というものがある。

未来時制を使って意思 (will) の内容を表現できる。

自己の意思を実行すると加害者意識を体験することになる。高じて罪 (sin) の意識となる。

彼等には世界観 (world view) がある。 過去・現在・未来 (前世・現世・来世) の独立した三世界が念頭ある。罪の意識を持った者には未来・来世の到来が恐ろしい。   

だから彼らには救済のための宗教が必要である。哲学 (インド哲学・スコラ哲学) がそれに応える。地獄に落ちなければ、それは天国・極楽に行けることになる。   

 

‘あいつ [J. ロバート オッペンハイマー] の手が血塗られているだって? 冗談じゃない。あいつには私の手についている血の半分もついていないさ。泣き言を言うなんて、けしからん。’ (ハリー・トルーマン大統領)   

彼等の発言には自省の念が滲み出ている。   

 

日本語の文法には時制というものが無い。だから、日本人には意思が無い。被害者意識はあっても加害者意識がない。これはアニマルも同じである。    

我が国には犠牲者と被害者だけがいて加害者のいない国である。これではどうしようもない。意思のあるところに方法がある。Where there’s a will, there’s a way. 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

 

 

 

 

 

 

 


吉野創氏  

2024-04-14 17:12:30 | 文化

ZUU Online   >人は、最後は人間性で判断され、選ばれてゆく   >10時間・   

>本記事は、吉野 創氏の著書『自分ものさし仕事術』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています。

>人は、最後は人間性で選ばれる―専門性能力と人間性能力   

>「自分理念」を持つと、日々の生きる方向性が決まるので、ブレることが次第に少なくなっていきます。   

 

そうですね。   

 

>自分の生きる目的に沿っている感覚があるので、行動することや、自分のために仕事を頑張ることが、自分の人生に全てプラスとなって積み重なっていく実感があり、 ストレスが少なくなります。   

>しかも、それが同時に会社のためにもなり、仕事の成果につながっていく実感も得られるでしょう。   

>それまでは、ただなんとなく、惰性で生きる毎日だったとしても、「自分理念」を持つようになると、「今日は自分理念に沿った1日を過ごせた」と実感できる毎日に変わります。   

>そして、そのことによって徐々にあなたの人間性は磨かれていきます。  

>仕事においても、知識や技術のレベルの高さといったことも大切な要素ではありますが、それ以上に周りの人は、あなたが日々「どんな思いで仕事をしているか」を見ています。   

>人が仕事で成果を出していくには、大きく分けて2つの能力が必要だと考えています。   

>それを、私は「専門性能力」と「人間性能力」と呼んでいます。   

>「専門性能力=スキルや知識」は結局、あなたの「人間性能力」という土台の上に乗るものです。   

>いくら仕事の知識が豊富で、技術力が高くても、それは土台である「人間性能力」の器の範囲でしか発揮されないでしょう。    

>だから人は、最後は人間性で判断され、選ばれていくものだと思うのです。   

>そして、この人間性とは結局、その人が「どんな価値観に共感するか」によって決まってくるのではないかと考えています。   

>それがその人の「在り方」です。   

>「在り方」とは例えば「損得に共感するか、善悪に共感するか」。   

>これは、個人の損得だけで判断する価値観でしかないのか、それとも、個人を超越して社会の善悪、すなわち、人や社会の良い在り方にまで思いを広げて考える価値観を持っているのか、ということです。   

>自分1人のことしか見えていない人よりも、社会全体にまで視野を広げている人の方が、器が大きく、豊かな人間性=在り方を持っているように思います。   

>また、「在り方」とは他にも、「自分自身が本当に生きたい人生を生きているかどうか」ということでもあります。   

>これは、家庭や職場において与えられた役割をただ生きていくのか、あるいは、それを超えて、本当に自分が大切にしたいことや、大切にしたい価値観を追い求めながら生きていくのか、ということです。   

>無意識に与えられた環境に甘んじている人よりも、自分自身で納得する道を追い求めている人の方が、自分の人生を生きている、という感覚は当然高まりますし、周囲にとっても、その人間性=在り方がよりよい影響を与えていくのだと思います。   

>このような価値観に対して、今の時点で100パーセントの共感を持てなかったとしても、それはそれでいいのです。   

>「自分理念」を持つことにより、少しずつ視野が広がる中で、さまざまな価値観に深い共感を持てるようになっていくものだと思います。   

>徐々に共感が深まるにしたがって、行動や発言の「選択」も自然と変わっていくことでしょう。   

>すると、その変化が未来に向けての「原因」となります。   

>そして、最終的に、未来における「結果」に変化が生じるのです。   

>そんなふうにして、「自分理念」は人の人間性を変え、未来にも変化を生じさせていきます。   

 

そうですね。  

 

>そして次第に、あなたにとって「一番大切なことを一番大切にする」人生にシフトしていくことができるようになるのです。   

>吉野 創(よしの・はじめ)<   

>株式会社トゥルーチームコンサルティング 代表取締役/一般社団法人 自走式組織協会 代表理事 北九州大学法学部卒業後、ジーンズメーカー大手EDWINで営業に従事。   

>その後、経営コンサルティングファームにおいて約300社の財務分析と管理会計の構築ノウハウを習得。   

>マネジメント責任者、支社長などを歴任し、コンサルタントの育成にも携わる。   

>人や組織に、さらに深く関わる合宿や研修を延べ5,000人へ実施。   

>社員が自発的に動く成長ノウハウを見出し、体系化。   

2014年「株式会社トゥルーチームコンサルティング」を設立。   

>指示なしでも社員が動く組織づくりは、経営者の組織と業績の悩みを同時解決する手法として公式認定され、「自走式組織®」として2018年に商標登録。   

100社以上の「自走式組織®」を生み出し、クライアントは3年で売上2.1倍、経常利益4.3倍、わずか1年で粗利益率7.9%改善や、離職率を0%にするなど多くの成功事例を持つ。    

>自身の経験から、特にマネジメント層の思いに寄り添う人間味溢れる支援が強み。   

>業績がアップするだけでなく、働く社員のやりがいと一体感のある理想の組織になったと多くの経営者から厚い信頼を受けている。    

>著書に『売上を2倍にする 指示なしで動くチームの作り方』(ぱる出版)がある。   

 

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに発達する言語能力を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文章にする訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得するための教育である。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本語は現実の内容だけを話す言語である。日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘ばかりであっては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の信頼と尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっている。これらは高等教育の賜物である。

当の日本人の若者はいまなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会で優位に立つた話ばかりで持切りである。日本人は注意力不足で井の中の蛙になっている。国際取引で印欧語族の知識人を取引相手にして苦戦を強いられることになる。