昭和20年8月18日 父を残して母子7名は豊原を発つ
大泊港から引揚げ船白龍丸に乗り小樽港へ向かう
船倉には大勢の朝鮮の人が乗っており 暴動が起きそうな不穏な雰囲気だった
私たちは甲板のテントにいたが 途中 潜水艦が出没し
船はエンジンを止め灯りを消して難を逃れた
最初乗る予定だった 小笠原丸
他2隻が 留萌沖で攻撃され沈没 大勢の人が犠牲になった
幸運に生き永らえた幸せを感じている
樺太の野原にあった ”フレップ”
同じかどうか判らないが 今年我が家で生った コケモモ
昭和20年8月18日 父を残して母子7名は豊原を発つ
大泊港から引揚げ船白龍丸に乗り小樽港へ向かう
船倉には大勢の朝鮮の人が乗っており 暴動が起きそうな不穏な雰囲気だった
私たちは甲板のテントにいたが 途中 潜水艦が出没し
船はエンジンを止め灯りを消して難を逃れた
最初乗る予定だった 小笠原丸
他2隻が 留萌沖で攻撃され沈没 大勢の人が犠牲になった
幸運に生き永らえた幸せを感じている
樺太の野原にあった ”フレップ”
同じかどうか判らないが 今年我が家で生った コケモモ
終戦66年を迎えた日であり お盆の中日
今年は東日本大震災という大変な出来事があり 多くの人が亡くなり
思いを深める記念日となった
夫の長兄 私の従兄も戦死し 樺太からの引き揚げ 震災の被災者と同じような
18畳の部屋に 4家族14人が暮した共同生活
命があっただけ幸せだが
戦争は絶対嫌で してはいけないことだと思う
戦争知らない世代の方が多くなったが 女学校一年生(今の中学一年生)の
記憶は鮮明に残っている
昭和20年8月15日は 樺太豊原市(ユジノサハリンスク)も暑い日だった
朝早くお寺へお参りに行く
帰宅後久しぶりにカメラを手にする
作品展をする喫茶店のママさんからいただいた ネジリバナが
気がつかないうちに枯れそうになっていた
庭の花も夏枯れ状態
夫は二階で トントン 作業に余念がない
昼には娘夫婦と孫が来る予定
慌ただしい日が続く
夫の軸装展の案内状を印刷していたら Google Talk の知らせのサイン
急いでマイクを差し込みヘッドホーンをかけると
妹の声が飛び込んできた 久しぶりに近況をおしゃべり
キュウリを沢山収穫したというので
この間教わったパン粉を使った漬物のレシピを伝えると
早速漬けてみると喜んでいた
こちらは昼の11時少し前だが 向こうは夜の10時少し前
アメリカの猛暑も少し落ち着いたそうである
暑い中 夫は軸の作成に励んでいる
いよいよ今年が最後の作品展になるらしい
富良野での詩吟大会も無事終わったが 哀しい出来事が重なり
慌ただしい数日だった これからも忙しい日々が続くが
白樺学園の試合をチラリと見るゆとりができた
北海道勢の勝利は嬉しい!
急用ができて札幌へ用事の後娘宅へ
久しぶりに会った孫 高二の女の子 170cm以上になり
まだまだ伸び盛り 食べ盛り
一緒に食べるとつられて美味しく 私まで大食いしてしまった
二人で10kgのお米は2週間でなくなるそうだ
昨年9月 夫が軸装展を行った時の写真で
奈良のお寺の古い瓦の拓本
今年も9月に行うので 暑い中製作に励んでいる
今日も朝から トントントントン 裏打ちの音
毎年最後と思いながら続けてきた
肺年齢が95歳以上といわれた体には過酷な作業だが
気力だけは若い人に負けない
お友達が交通事故で入院 お見舞いに行く
自転車に乗っていて 頭を怪我したが大事に至らなくてホットする
帰り 青信号の横断歩道を渡ろうとしたとき 車がびゅ~んと走り去る
気をつけなければ
クラブの撮影会だったが欠席
パソコンの反乱も収まり整備をぼちぼちする