パソコン仲間の勉強会 と言っても
手と一緒に口の方が動く
おしゃべりが楽しい
テーマは決めていないがそれぞれの勉強
必ず一つは発見して帰る
今日も元気を貰った
ガガイモを写しに行ったSさん
1っ個だけよりないそうだ
暑いので写しに行かなかった
(私は見つけられないだろう)
周囲の開発が進み草むらが少なくなってきた
新しいイラストは完成しなかったので
コスモスのアレンジを
パソコン仲間の勉強会 と言っても
手と一緒に口の方が動く
おしゃべりが楽しい
テーマは決めていないがそれぞれの勉強
必ず一つは発見して帰る
今日も元気を貰った
ガガイモを写しに行ったSさん
1っ個だけよりないそうだ
暑いので写しに行かなかった
(私は見つけられないだろう)
周囲の開発が進み草むらが少なくなってきた
新しいイラストは完成しなかったので
コスモスのアレンジを
母はコスモスの花が大好きだった
戦争中は 道路脇までも ジャガイモなどを植え
野の花も愛でる余裕がなかったが
落ち着いてからは
毎年コスモスを植え楽しんでいた
花瓶にいれ 部屋中飾っていたこともある
晩年は穏やかに101歳まで生き
明るく笑顔を絶やさなかった
母が亡くなって10年
実家には もうコスモスの花はない
真夜中に白龍丸は出航した
稚内港がいつぱいで 小樽まで行くという
20時間かかるそうでがっかりした
甲板に張ったテントに数家族が入った
トイレはなく甲板の端でする
海は時化て嵐のよう テントにも雨水が入る
すぐに酔って動けなくなる
夜が明け左側遠くに北海道の陸地が見えるが
20時間すぎても小樽に着かない
船倉の方へは行かないようにと言われていたが
チラリ覗くと 地鳴りのようにわめき声が聞えてきた
大勢の朝鮮の人がお酒を飲んで騒いでいる
今まで虐げられていた鬱憤を晴らそうとしていたのだろう
暴動がおこるのではないか恐ろしかった
再び夜が来た
緊迫した声で目が覚める
船はすべて灯りを消しエンジンの音も聞こえない
暗闇の中で目を凝らすと 船長らしき人の指図する声
乗組員が慌ただしく動き回っている姿が異様に見えた
緊張が走る
誰かが「潜水艦がいるらしい」という
戦争が終わったのに・・・・まさかと思うが不安で恐ろしかった
船はエンジンを止めて漂ったまま
どのくらいの時間だったか覚えていないが
危険が去ったらしい
夜が明け船は動きだした
小樽の港が見えた時は
疲労と船酔いで歩くのもやっとだった
嬉しいと言うよりホッとした
留萠沖で引揚げ船 小笠原丸など三船が
国籍不明の潜水艦に沈められたのを知ったのは
ずっと後の事である
我たち一家は幸運だった
父は三年後痩せ衰えて帰国した
戦争犠牲者の冥福を祈り 平和を願う
コルサコフの港(大泊)
HPやブログに載せたことがあるが
72年前の忘れられない出来事を再び記す
1945年(昭和20年)
樺太(サハリン)
8月9日ソビエトが宣戦布告し
13歳以下の男子と婦女子の疎開命令が出される
8月15日に敗戦 疎開は引揚げになった
豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた我家は8人家族
父(45歳)を除いた
母(38歳) 長姉(18歳) 次姉(14歳)
私(12歳) 妹(9歳) 弟(4歳) 末妹(11か月)
7人が 北海道の伯父宅へ引揚げることになった
着替えと食糧だけ持ち
8月18日午後 豊原駅に向かった
奥地からきた貨物列車には
大勢の人たちが鈴なりに乗っている
国鉄勤務の父は 少しでも早く港の大泊へ行くよう
貨物列車に乗るように促すので 急いで乗った
父は見えなくなるまで手を振っていた
戦争はもう終わったと 少し開放感を感じていたが
奥地からきた人たちが口々に
ソビエト軍に追われて命からがら逃げてきたと話すのを聞き
恐ろしさと緊張感を感じた
無蓋車のシートで覆われた荷物は大砲らしい
ゴツゴツと座り心地が悪いが我慢するよりない
汽車は度々停まる 真っ赤な大きな太陽が傾いていく
新場という駅で停車すると 長い間動かない
オシッコをしようと貨車を降り草むらへしゃがんだ時
ポーッと汽笛が鳴りゆっくり動き出した
慌てて走ったが高くて足が届かない
誰かが手を引っ張り上げて貨車に乗せてくれた
無我夢中夢中だった
手を差し伸べてくれたのは
豊原医專の学生さんだったと後で知る
暗くなって大泊に着いた
駅も道路も人々や荷物で溢れかえっている
姉が逓信局に勤めていた関係で小笠原丸に乗船予定だが
誘導され映画館で待つことになった
館内も溢れんばかりの人人人である
万が一にと保存してあったもち米で搗いた豆餅
暫らくぶりの美味しい味は忘れられない
乗船の順番はまわって来ず 一夜を過ごす
再び夜になりやっと順番がきた
港までは遠かった 暗い夜道をひたすら歩いた
母は末妹を背に大きな皮のトランクを持ち
4才の弟は長姉に手を引かれ
3人も後に続いた
母は荷物が重く途中捨てようとした時
兵隊さんが現れ持ってくれた
やっと港にたどり着き 乗せられた船は
小笠丸ではなく 白龍丸という貨物船だった
つづく
ユジノサハリンスク駅と レーニン広場(2012年7月)
NHKスペシャル 15日の放送
1944年(昭和19年)
当時ビルマと呼ばれていたミヤンマーの地から
密林や大河を渡り山を越え
インド北部のインパールを目指す作戦
目的は
蒋介石への支援ルートを遮断する
三つの部隊が三方向からイギリス軍基地を
目指すが多くの戦死者を出した
食料の補給もなく雨期に入り
勝ち目はなく作戦は中止され日本軍が撤退した
最も悲惨な戦闘の記録は
戦ったイギリス軍のフイルム
やっと生き延び帰国出来た高齢の帰還兵の証言
作戦を指揮した隊長の肉声テープ
長い間立ち入りできなかった
現地での取材 映像など
戦死者よりも撤退中密林で
餓死や赤痢コレラなどで病死した人が多い
白骨街道と呼ばれている密林
戦友の肉を食べ生き延びた事実
隊長付きの少尉がすべてを記録していたものも公開される
5000人殺せば勝てる
隊長がの話した記録で 味方の兵隊のことを言っている
少尉は病気で置き去りにされ
死ぬ寸前捕虜になり助かる
車椅子に乗り老いた96歳の元少尉が
涙ながらに語った言葉に
一緒に泣いた
無謀な戦いの 犠牲になるのは 一兵隊
指図した大本営 隊長など
責任者は誰もいない 取っていない
不可解な事実
この国の総理大臣に絶対見てほしい
戦争を知らない世代にも必ず知ってほしい
戦争の恐ろしさ むごさ 浅ましさ を一層強く持った報道だった
犠牲者のご冥福を祈る
NHK総合
NHKスペシャル
樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇
終戦後も戦った日本軍
真岡(ホルムスク)に近い熊笹峠で戦闘を続けた
2012年訪れ悲惨な戦いを知る
樺太を引揚げたのは18日
潜水艦攻撃の恐怖を体験したが
無事生きながらえて72年経った
父は地上戦には遭遇していないが
豊原の空襲に遭い
ソビエト軍の進駐後
三年以上帰国出来なかった
映像ではじめて知ることもあったが
一番の被害者は国民である
戦争は庶民を不幸にする
戦争を二度としてはいけない
絶対反対である
祈る
お盆のお参りに久しぶりに実家へ行く
同じ市内でも端から端と離れており
バスを乗り換えて行くと1時間半以上はかかる
86歳の姉は
母を看取った後は一人で暮らしており
すぐ近くに81歳の妹が住んでいる
久しぶりに三人で近況を語り合った
母に似て
気丈な姉は 楽天的 私より若く見える
88歳までは今の生活を続けたいと言う
マージャン大好きで
妹も交えすぐ前の会館で
週3回はマージャンをしている
妹は娘夫婦と暮らし炊事担当役
お互いに
いつまで生きられるか分らないので
定期的に会おうという話になった
行動できる範囲 互いの家の中間 街の中に決めた
母の永代供養をしてから疎遠になっていたが
母も喜ぶだろう
ぐったり疲れ帰りのバスの中で居眠り
随分体力が落ちた