HPやブログに載せたことがあるが
72年前の忘れられない出来事を再び記す
1945年(昭和20年)
樺太(サハリン)
8月9日ソビエトが宣戦布告し
13歳以下の男子と婦女子の疎開命令が出される
8月15日に敗戦 疎開は引揚げになった
豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた我家は8人家族
父(45歳)を除いた
母(38歳) 長姉(18歳) 次姉(14歳)
私(12歳) 妹(9歳) 弟(4歳) 末妹(11か月)
7人が 北海道の伯父宅へ引揚げることになった
着替えと食糧だけ持ち
8月18日午後 豊原駅に向かった
奥地からきた貨物列車には
大勢の人たちが鈴なりに乗っている
国鉄勤務の父は 少しでも早く港の大泊へ行くよう
貨物列車に乗るように促すので 急いで乗った
父は見えなくなるまで手を振っていた
戦争はもう終わったと 少し開放感を感じていたが
奥地からきた人たちが口々に
ソビエト軍に追われて命からがら逃げてきたと話すのを聞き
恐ろしさと緊張感を感じた
無蓋車のシートで覆われた荷物は大砲らしい
ゴツゴツと座り心地が悪いが我慢するよりない
汽車は度々停まる 真っ赤な大きな太陽が傾いていく
新場という駅で停車すると 長い間動かない
オシッコをしようと貨車を降り草むらへしゃがんだ時
ポーッと汽笛が鳴りゆっくり動き出した
慌てて走ったが高くて足が届かない
誰かが手を引っ張り上げて貨車に乗せてくれた
無我夢中夢中だった
手を差し伸べてくれたのは
豊原医專の学生さんだったと後で知る
暗くなって大泊に着いた
駅も道路も人々や荷物で溢れかえっている
姉が逓信局に勤めていた関係で小笠原丸に乗船予定だが
誘導され映画館で待つことになった
館内も溢れんばかりの人人人である
万が一にと保存してあったもち米で搗いた豆餅
暫らくぶりの美味しい味は忘れられない
乗船の順番はまわって来ず 一夜を過ごす
再び夜になりやっと順番がきた
港までは遠かった 暗い夜道をひたすら歩いた
母は末妹を背に大きな皮のトランクを持ち
4才の弟は長姉に手を引かれ
3人も後に続いた
母は荷物が重く途中捨てようとした時
兵隊さんが現れ持ってくれた
やっと港にたどり着き 乗せられた船は
小笠丸ではなく 白龍丸という貨物船だった
つづく
ユジノサハリンスク駅と レーニン広場(2012年7月)