黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

大谷選手の満塁ホームラン

2023年08月19日 | お知らせ
かかりつけ医から帰り


何気なくテレビをつけた瞬間


大谷選手が満塁ホームランを打った \(^o^)/


私の重い心が パ~~ッと吹き飛び 軽くなった






今年の長い夏は


暑さに負けただけではなく 体調不良と重い心が続いていた



16日に施設に入った 夫


気がかりだが 手厚い介護をしてもらっている






久しぶりにフレーム遊びをする

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78年前の8月  樺太引揚げ

2023年08月18日 | 戦争
8月18日は 引揚げ記念日 


1945年(昭和20年)樺太(サハリン)


8月9日ソビエトが宣戦布告し

14歳以下の男子と婦女子の疎開命令が出される

8月15日に敗戦 疎開は引揚げになった

豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいた我家は8人家族

 父(45歳)を除いた

母(38歳) 長姉(18歳) 次姉(14歳)
 
私(12歳) 妹(9歳) 弟(4歳) 末妹(11か月)

7人が 北海道 木古内町の伯父宅へ引揚げることになった


小さなリックに着替えと食糧だけ持ち

8月18日午後 豊原駅に向かった

奥地からきた貨物列車には

大勢の人たちが鈴なりに乗っている

父は 少しでも早く港の大泊へ行くよう

貨物列車に乗るように促すので 急いで乗った

戦争はもう終わったと 少し開放感を感じていたが 

奥地からきた人たちが口々に 

ソビエト軍に追われて命からがら逃げてきたと話すのを聞き

恐ろしさと緊張感でいっぱいになった


汽車は度々停まる 真っ赤な大きな太陽が傾いていく

暗くなって大泊に着いた



駅も道路も人々や荷物で溢れかえっている 

姉が逓信局に勤めていた関係で小笠原丸に乗船予定だったが

誘導され映画館で待つことになった

溢れんばかりの人人人である

乗船の順番はまわって来ず 一夜を過ごし

再び夜になりやっと順番がきた

港までは遠かった 暗い夜道をひたすら歩いた 

母は末妹を背に大きな皮のトランクを持ち

 4才の弟は長姉に手を引かれ

 3人も後に続いた


やっと港にたどり着き 乗せられた船は 

小笠丸ではなく 白龍丸という貨物船だった




船は真夜中に出航した

稚内港がいっぱいで 小樽まで行くという 

20時間かかるそうでがっかりした

 甲板に張ったテントに数家族が入った

トイレはなく甲板の端でする

海は時化て嵐のよう テントにも雨水が入る 

すぐに酔って動けなくなる 

夜が明け左側遠くに北海道の陸地が見えるが

20時間すぎても小樽に着かない

船倉の方へは行かないようにと言われていたが 

チラリ覗くと 地鳴りのようにわめき声が聞えてきた

大勢の朝鮮の人がお酒を飲んで騒いでいる

 暴動がおこるのではないか恐ろしかった


再び夜が来た 

緊迫した声で目が覚める

船はすべて灯りを消しエンジンの音も聞こえない

暗闇の中で目を凝らすと 船長らしき人の指図する声

乗組員が慌ただしく動き回っている姿が異様に見えた

緊張が走る

誰かが「潜水艦がいるらしい」という

戦争が終わったのに・・・・まさかと思うが不安で恐ろしかった

船はエンジンを止めて漂ったまま

どのくらいの時間だったか覚えていないが

危険が去ったらしい

 夜が明け船は動きだした

小樽の港が見えた時は 

疲労と船酔いで歩くのもやっとだった

嬉しいと言うよりホッとした

留萠沖で引揚げ船 小笠原丸など三船が 

国籍不明の潜水艦(ソビエト)に沈められたのを知ったのは 

ずっと後の事である

我たち一家は幸運だった 


与えられた命に感謝し今まで生きてこられた

戦争犠牲者の冥福を祈り 平和を願う

 戦争は決してしてはいけない




留萌沖三船遭難 ~終戦秘話~

 






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78年前の8月 & 今朝の空

2023年08月15日 | 戦争
今朝の大雪山 空は秋の気配






78年前の8月


15歳だった夫は学年の皆と泊まり込みの援農中に


(戦争に行って男手ない農家の手伝い)8月15日を迎えた 


援農は中止になり 豊原市の師範学校に戻った 


15歳以上の男子は樺太に残らなければならないきまりになり


 学校側から 一旦家に帰り 


親に会って戻ってくるように指示され 


西能取岬(にしのとろみさき)の 知志谷(ちしや)にある家に


同じ村出身の友と二人で鉄道と徒歩で帰った 


 知志谷は北海道に一番近い 西能取岬 の近くの小さな村で 


父は教員だった 家族に別れを告げ


友と二人豊原に歩いて向かう途中  峠を越えた地の駐在所で 


豊原市が空襲で大きな被害を受けたこと 


ソ連軍が侵攻して来て


 危険が迫っているから家に戻りなさいと言われ 


引き返すことにした


二人が 知志谷に戻った時 ソ連軍の侵攻を知った家族は


地域の人たちと一緒に 漁船で北海道に引揚げる寸前だった


地図はネットからお借りしました

















同じような 戦争体験をした同士であり 同志


引揚げ者は難民と同じ その後の生活はもっと過酷だった


ウクライナと同じ


二度と戦争はしてはいけない




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入院中の夫は明日16日に介護付有料老人ホームに移る

昨日は電話が来なかったが 来ないと気がかりである

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78年前の8月 & 最近の様子

2023年08月10日 | 戦争

もうすぐお盆 78回目の敗戦記念日がやってくる


昭和20年(1945年)8月6日に広島9日に長崎に


原子爆弾が投下され街は焼け野原となり 


合わせて21万人以上が亡くなり15万人以上が負傷した 



8日には中立関係だったソビエトが日本に宣戦布告をした
(知ったのは9日)




夫は当時15歳 樺太師範学校の予科2年生で

 豊原市と大泊間の豊栄(とよさかえ)付近で 泊まり込みの援農

(出征して男手がない農家の手伝い)をしていたそうである




私は 12歳 樺太庁豊原高等女学校一年生

豊原市(ユジノサハリンスク)に住んでいたが

 ソビエトの参戦を知り不安と恐怖感でいっぱいだった

婦女子と13歳以下の男子の本土への疎開がはじまり

15日の敗戦で引揚げと変わり ますます命の危険が迫ってきた





サハリンと変わった樺太には2012年7月


二人で行くことができた その時夫が撮影した写真である




日本だった時の 博物館 は昔のまま 



樺太神社にあった狛犬







北緯50度境界線にあった標石





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9月に94歳になる 夫の最近の様子


 容態は落ち着いているがまだ入院中です


 9日に施設に入る予定でしたが 病棟でコロナ患者が出たので


足止め延期になり 来週になりそうです

面会が出来ないので可哀そうですが


時々介助してもらい電話をかけてきます


不安なことを言うので なだめておりましたが


今朝の電話は お手伝いのHさんに ○○をあげたいと


いう内容で 気持ちも落ち着いているようでした


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