人の一生に、まずレールを敷くのは、神仏である。が、そのレールの上を歩くのは人間である。レールの方向の違いは、神仏の意思である。人間は、ただ黙々とその上を歩かなければならない。.天職をコーリングと呼ぶのはこの辺の事情かと思われる。
仏の道を説く一方で、説く道とあまりかけはなれたことを言動すると、やはり滑稽が先立つ。それは嘲笑を引き起こす。
正しい見方 正見。真実に、一致した姿をそのまま見る。 これを身につけないで、自分の見方だけに、固執すると、人は間違いを犯す。曲がった木をまっすぐだと思うと、まっすぐな木を見ても曲がったように見える。これは間違いを犯している証拠である。
人には4つのイドラ・偏見があると昔の哲学者は説いたが、どうしても人は、自分なりの見方で物を見てしまう。
そこで、あえて真実に一致した姿を、そのまま見ることの大切さを取り上げてみた。
涙を流さずして、他人の飯は食えない。
他人の飯を食うて初めて、我が家の居心地の良さがわかる。可愛い子には旅をさせよとはよく言ったものだ。他人の飯を食う。その中に、一人で生きて行く本当の人生が、あるからだ。
艱難辛苦汝を玉にす。
これは至言である。だが、人生の味を知らなくても良い連中には、これは至言どころか、愚の骨頂の見本みたいなものになるだろう。
一期1会の大切さ
ふっと泡のように浮かんできては、瞬時に消え去ってしまうアイディアを捕まえるのは、ひと苦労である。思い出すのも一苦労。一期1会の大切さ。
緑の風とわよく言ったものだ。
5月のさわやかな風を緑の風とわよく言ったものだ。その緑の風にこいのぼりが泳いでいる。緑の若い命がもくもくと湧き上がっている。
突然無我に
頭を使って何かをしているとき、突如として心が真空状態となり、無になることがある。無になろうと努めていると雑念が、沸いてくるのに。何か一つの事に集中しているとき、とつぜん無我になる。これは一体どういうことだ。自分をコントロールできてない1場面である。セルフコントロールをするための修行でも、した人でない限り、みな同じであろう。