日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

雑言1,

2008年04月04日 | Weblog

人の一生に、まずレールを敷くのは、神仏である。が、そのレールの上を歩くのは人間である。レールの方向の違いは、神仏の意思である。人間は、ただ黙々とその上を歩かなければならない。.天職をコーリングと呼ぶのはこの辺の事情かと思われる。

仏の道を説く一方で、説く道とあまりかけはなれたことを言動すると、やはり滑稽が先立つ。それは嘲笑を引き起こす。

正しい見方 正見。真実に、一致した姿をそのまま見る。 これを身につけないで、自分の見方だけに、固執すると、人は間違いを犯す。曲がった木をまっすぐだと思うと、まっすぐな木を見ても曲がったように見える。これは間違いを犯している証拠である。
人には4つのイドラ・偏見があると昔の哲学者は説いたが、どうしても人は、自分なりの見方で物を見てしまう。
そこで、あえて真実に一致した姿を、そのまま見ることの大切さを取り上げてみた。


涙を流さずして、他人の飯は食えない。
他人の飯を食うて初めて、我が家の居心地の良さがわかる。可愛い子には旅をさせよとはよく言ったものだ。他人の飯を食う。その中に、一人で生きて行く本当の人生が、あるからだ。

艱難辛苦汝を玉にす。
これは至言である。だが、人生の味を知らなくても良い連中には、これは至言どころか、愚の骨頂の見本みたいなものになるだろう。

一期1会の大切さ

ふっと泡のように浮かんできては、瞬時に消え去ってしまうアイディアを捕まえるのは、ひと苦労である。思い出すのも一苦労。一期1会の大切さ。

緑の風とわよく言ったものだ。
5月のさわやかな風を緑の風とわよく言ったものだ。その緑の風にこいのぼりが泳いでいる。緑の若い命がもくもくと湧き上がっている。

突然無我に

頭を使って何かをしているとき、突如として心が真空状態となり、無になることがある。無になろうと努めていると雑念が、沸いてくるのに。何か一つの事に集中しているとき、とつぜん無我になる。これは一体どういうことだ。自分をコントロールできてない1場面である。セルフコントロールをするための修行でも、した人でない限り、みな同じであろう。



















虐待の恐れがある乳児がいる

2008年04月04日 | Weblog
虐待の恐れがある乳児がいる」二回岸和田子ども家庭センターに和歌山の病院から通告があった

足 次は頭を骨折

府児童虐待等危機介入援助チーム 川野医師 診断の結果 
子供を家に帰してはいけない.
  判定身体的虐待 直ちに保護して適切な保育監護を行うべし.


助言は無視され幼い命が奪われた。センターは事実上何もしなかったのと同じだ


センター所長の言い訳

通告を受けて以降両親との面談家庭訪問を繰り返していた

子供を保護者から引き離して保護する事はセンターにとって重い判断だ

乳児期に保護者と離れると生育に影響するだけでなく、再び一緒に暮らすのが難しくなる保護者との緊張関係する。

定期的に職員が家庭訪問して今度けがをしたり、両親が安全確認を拒んだら直ぐに保護する

子どもの将来を考えた末の非常に難しい判断だった。重大な結果となったことは思うくけ止める

所長の言い訳はこういう事件の場合、いつも言われて既に定番化されている。何事も早目はやめに手を打たないと、一人の命が瀬戸際まで追い詰められている現状には対応できない。と言う感覚や責任感が起きないのであろうか。

親に問題がある場合、子どもは社会的存在であり、その養育を親が受け持っているに過ぎないと言うことを、職員一同が自覚して、親にもそのような説得を受け入れさせるべきだ。
受け入れないのなら、そんな親は養育権放棄として、子どもを社会的存在と位置つけて両者の分離を図るべきだ。この辺の見定めが両者を引きはなす限界だろう。

当然責任は問われてしかるべきだ。はっきりもの申せば職務怠慢だ。

大阪府は学識経験者らで作る委員会でセンターの対応が適正だったどうか検証する。
とにかく対応が遅い。この種の事件が何回も繰り返されるのはなぜか。何故今検証委員会の立ち上げか。しないよりましだという感覚だったら、やめてしまえ。そんなものの中身はしれたものだ。

親が子どもを虐待死させる。子どもが親を殺す。一体現代社会とは どういう社会なのだ。これだけを問題視すれば狂った社会に我々は住んでいる。