日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

3, 十二社神社 お菊神社

2008年04月06日 | Weblog
3, 十二社神社 お菊神社

 
 お菊神社は姫路市の中心部にあり、十二社神社の神々とともに祀られている。境内には2つの神社があり、そのうちの一つが於菊神社である。
ここはお城から南南西約1kmほどの所にあって、市内中心部である。
国道二号線に沿面しているので、昼夜を問わず交通量が激しくて、騒音のやむときはない。 
何百年かしらないけど、お菊さんもこんな所では気を静めて、おちおち眠ってもいられないだろうなという雰囲気である。
城内にあったお菊井戸を見学してきているから、それと比べて、ここは何となく明るい感じがする。 
於菊神社の前は藤が植えられていて、花が咲く頃には見事だろうと思われた。神社の横には由緒書があり、それには次のような由緒がかかれていた。
  それをここに引用すると、次のような物語である。

永正年間(つまり現在の姫路城が出来る前)、姫路城第9代城主小寺則職の家臣、青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾(許嫁)だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせ、増位山の花見の席で毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。
一度は、乗っ取りに成功した鉄山だが、家中に、密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めた。
以前からお菊のことが好きだった弾四朗は自分の女になれといいよったがお菊は拒否した。
その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理していた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿のうちの一枚をわざと隠して、お菊にその因縁を付け責任をとうて、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える悲しげな声が聞こえたという。
 
やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後300年程経ってに城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
これは小寺・青山の対立という史実を元に脚色された物と考えられている。そして、この話はバリエーションとして たとえば以下のような物もある:

お菊は衣笠元信なる忠臣の妾で、鉄山を討ったのは衣笠であったというもの。
お菊は船瀬三平なる忠臣の妻で、お菊の呪いが鉄山を滅ぼしたというもの。
お菊の最後の姿に似た「お菊虫」なる怪物によって鉄山が殺されたというもの。
なお各地に存在するお菊怪談の話は姫路市の十二所神社に伝わる「播州皿屋敷実録」が原型とされているらしい。

真偽のほどはともかくとして、いずれにせよ、このような事件があった可能性は高い。時代は戦国時代。実力のあるものが、自分が仕えた主人に対して下克上をしてでも、領国を奪いとるという殺伐とした戦国風景。現代から考えると随分人道や正義に反する無茶な話であるが、当時の世相を思い浮かべて、当時のこの城の中の雰囲気に思いをいたすと、まるで架空のでっち上げた話ではあるまい。そこには伝承通りかどうかは別にして、悲劇を思わせるような事件があったはずである。
 これが巷に知れ渡るや、民衆の心に共鳴し、それを脚色再現した見せ物として江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃の題材に取り上げられ、巷間の涙をしぼったのだろう。
そういうわけで、いろいろな脚色がなされているので、史実すらもはっきりしないし、何せこの事件が起こったと言われる時から、既に500年余りの歳月が経ってしまっている。今からでは真相究明もままならぬ事である。もしそれをやるというなら、お菊さんに直接聞いてみる他はない。

僕はできることなら何としても、真相を知りたいと思い、今は魂の世界に帰って霊的存在になっている伝説の人、お菊さんと心の中で会話することを試みた。

「お菊さん。ご存じのように伝説の話の真偽はもう、追求して調べるわけにはいきません。今から私が唱えるお経の功徳の力によって、どうかお姿を現して、それができなければお声だけでも聞かせてください。そして問答にお答え願えれば幸いです。なにとぞよろしくお願いします。」と祈った。そうしたら、不思議にも狛犬の前に作られた藤棚の葉が風もないのにざわざわ揺らめいた。そのざわめきの中から声らしきものが響いてきた。

「どちらのお方かは存じませぬが、私の事に関心をもってはるばる遠方からおいで下さったことに感謝します。根も葉もない噂が噂を呼んで、いろいろ語り継がれているようですが、今の私の気持ちからすると、どのように語られてもそれはそれでよいと思います。どの話も真実の部分もありそうでない部分もある。人々の願いもあるし、期待もある。だからどんな語り口でも結構ですが、私の世の去り方が尋常でないのは紛れもない真実です。私に関していろんな語りがあるようですが、どれもこれも私が謀られて自分の意志に反して殺された。そしてそれが怨念となってこの世になにがしかの発信をしたというのはまさに事実です。

巷間で語られている、皿を数える悲しげな女の声。
1マーイ、2マーイ、3マーイ、8マーイ、9マーイ、1枚足りない、うらめしや
そしてまた1マーイ、と数え始まる話は、この世に恨みを残して殺された女の怨念を表すには、適当な言葉だと思います。このセリフがあってこそ、人の共感をを呼び起こすのではないでしょうか。
私自身について言えば、どうしても叫ばなくては自分がどうにもならなかった苦しい胸の内を語らずして、また理不尽な出来事には我慢がならなかったのです。」
 「そうでしょうとも。」
同情と言うよりは、共感した。

城を見学したけど、全体から受ける印象は外見の華麗な優美さとはちがって、内部は薄暗いところが多く、不気味な感じがした。
誰が名付けたのか知らないが、切腹櫓など血なまぐさい臭いのするようなところもある。
さらにお菊井戸の立て札を読むと、まさに怪談の世界に迷い込む。
青空と白亜の壁、黒の屋根瓦、白と黒のコントラストは遠目にみる城の華麗さと城の内側に漂う不気味さをいっそう際だたせる。

「改めてお尋ねするが、お勤めされていた時代のお城とはどんな感じだったのですか」
「今のお城を見て、私が勤めていた時代の城を想像することはおそらくできないでしょう。元々あの場所は姫山といって小高い丘に過ぎません。
頂上付近には刑部神社や称名寺があり、その一部が砦に毛の生えたようなお城がありました。女の私のことですから、時の政治向きや領内の政
りごとなど詳しくはありません。私の知識と言うのは、自分の知りうるごく狭い範囲に限られて居ますが、他に衣笠様の話を耳に挟んで、当時お仕えしていた殿様や執権様のご様子を知ることぐらいでした。
ただ確かにいえることは今の白鷺城とはとても似ていない貧弱なものであると言うことです。代表の天守閣は言うに及ばず、化粧櫓だの、長屋局だのそんなものは何もなかった。この付近はすべて雑木林でした。」
お菊の声は時に高くまた時には低い。それはきっと心の中の感情を表しているのだろう。
「そうでしょうね。今僕が見ている城は徳川家康の娘婿池田輝政が本格的に築城に乗り出してできたものらしいです。それから400年あまりの時を経て今の姿があるのです。それでもやはり世間では、姫路城を知らなくても播州更屋敷のおきく物語は知ってますよ。言い方を変えれば、国宝のお城よりはお菊さんの方が有名ですよ。」
「それはそれは。モット明るい話で皆さんに知っていただけるのなら私もうれしいのだけど、何しろ惨い死に方をしたもんで」
「では単刀直入にお伺いしますが、町坪弾四朗によって斬り殺され、井戸へ投げ入れられたという伝説は事実なのですか」
お菊はそれは事実だという。そのとき彼女の顔色は変わった。当時の感覚が生々しく蘇ってきたのかもしれない。
現代と違って女性の人権などないがひとしい時代だから、女性が生きる事は、男子の侍よりは難しかった。
お家騒動の渦の中に巻き込まれ、刃の先を裸足で歩くような危険をおかし、愛を貫くというのは至難中の至難の技である。
お菊でなく、よほど世慣れた世渡り上手の女でも、この刃で身を損じることなく、果たして刃の上を渡りきったであろうか。

 彼女の働きが露見したとき、町坪弾四朗に色目を使ってなびき、彼の想うがままの女になって助命を請うか、命をつなぐか、衣笠に恋の命を捧げて文字通り、命をなくすか、究極の選択である。
 だが彼女の下した結論は後者であったのだ。それはまさに生死が掛かった究極の愛の選択であった。
好きで愛した男の密命の露見によって、命を失う所へ追い詰められた人間の心情は察して余りある。

彼女の話によれば、うらめしいのは彼女を死に追い詰め、折檻を繰り返して挙げ句の果ては刀によって命を奪い、古井戸に投げ込むその残忍さに対して復讐する怨念もさることながら、そのような恋と忠誠を尽くす運命を背負って生まれてきた自分の宿命に対しても恨めしいのであった。
なるほど生々しさがだいぶ飛んでいる。あく抜けしているのだ。
しかし彼女の語った物語の中ではそこの点だけは救われた感じがした。

それは彼女の許嫁、衣笠元信とのデートの模様である。
お菊の受けた密命には 文字通り命がかかっていた。そういう緊張感の中で交わした交情だ。
お菊がいうには、この快楽の中では死んでもよいと何回思ったことか。いやこの快楽を自分の好きな人によって与えられるのなら、二人といわずとも自分ひとりだけでも、この快楽のなかで死んでいきたい。もっと積極的に言えば殺してほしい。そんなことも味わったので、死ぬことは怖くはなかった。つらいのは今この快楽の中で殺されるのならそれは最高の女の喜びのひとつだ。命を懸けた恋であるから、こんな気持ちに成れる。明日の命の保証はなく後がない。今この一瞬の恋の喜びなのである。その味わいはこの世の誰にも負けないだろう。
この世には神がここまで快楽を与えたのが不思議くらいである。
とお菊は言うのだ。
「そうでしたか。そういう話を聞いて、僕自身が救われたような気がしました。この世の恨めしさの限りを尽くして、皿を数える極限の悲しげな声が心に刺さって悲話の最たるものとしてしか、お菊物語を受け止めていませんでした。
確かにこの世にはたくさんの不合理が存在して、その不条理のために何人の人があたら命を落としているか、考えようによっては人間というのは
不条理の中に生きて 不合理な理屈によって悲しい運命をたどる動物かもしれない。それは多かれ少なかれどの人にも降りかかるもので、死だけを問題にすれば、青山鉄山一味も次々に殺されているから似たようなものになります。もしこれがお菊さんと衣笠さんのロマン物語だったらどうでしょうか。おそらくそれはいかなるロマンであってもとうの昔にこのよから忘れ去られていることでしょう。人間って変なところがあって、自分がその当事者になるのは真っ平ごめんだが、他人がかぶる不幸や悲しみには特段の関心を寄せるものです。あなたは先ほど私に心が明るくなるような話を聞かせてくださったが、人間であればそういうこともあっただろうし、またあってもおかしくない話だと思います。
現代版では愛の極致をテーマにして愛の流刑地という本さえ出版されているくらいです。それをあなたは500年以上も昔に体験されたのですね。それは唯一明るい話で、心が和みます。流れる涙が途切れます。
それにこれはあなたには厳しく聞こえるかもしれないが、似たような不条理で、弱い立場の女性が殺傷されることは、珍しいことではないと想像されます。そういう出来事の中であなたがそのような女性の代表みたいなことで、歴代巷間に伝えられたものだと思います。当人にはまことに相すまぬ言い方になってしまいますが、戦国時代という切り取り合戦があちこちで行われていた時代には、女性は戦勝武将の慰みものみたいなところがあって現代の感覚では計り知れないほど人間扱いを受けていない。それを時代の所為だといっては失礼になるかもしれないがそうとしか言いようのない部分もあります。
話は変わりますが、あなたが明神様に遷化されてから、女性や水商売を守護なさるには何かわけがあるのでしょうか。」

僕は気に触ったことを言い過ぎたかなという反省を含めてそうたずねた。「特に理由などないが明神にはそれなりの働きが必要になります。
私は女性だから女性を守りたい。そして女性の本領を発揮して働くのは今も昔も水商売の女性です。女性は物腰がやわらかく、男に比べて愛想もよくささくれ立った人々の心を癒すのは愛嬌のある笑顔とお酒です。それでも表面とは裏腹に、この世界にこそ本質が隠されているのです。
そこには人には言い知れぬ悲しみが渦巻いています。誰にも打ち明けられない 女の不安や悲しみ、寂しさなどをここにおまいりになって私に打ち明けられます。私ほどむごい仕打ちを受けた人は多くはないにしても、守ってあげたい女性や助けてあげたい女性をまたその願いを何とかかなえて苦しみをとってあげたい。そういう一心です。この魂の世界に来て見ると人の心が手に取るようにわかるのです。生身を背負っていると、それに邪魔されて真実が見えません。だから心にもないことを言われて信じてしまったり、軽口に乗ってしまったりですが、この世界からは真実が見えます。神の座に祭り上げられた以上私は全力を尽くしてここにお参りになる方々をお守りするのです。今までもそうだったが、これからもここに社がある限り、私は守ります。
いかがですか。この辺で私のことも大体はお分かりになったようですから。元の社に帰ります。行く先に幸があるように祝福してお別れします。」

僕はお菊大明神になんとお礼を申し上げたらよいのやらわからなかったので、そのまま無言でお礼ももうさなかった。ただ目の前にある神殿に向かって合掌するのみだった。

悲しいことだが、この世に人間がいる限りこのような悲しい物語は絶えることがないだろう
時代がどんなに変わろうとも人間のやることにはあまり変わることはない。少なくとも人間性の進歩なんてものは1000年単位でしか変わらないのだろう。いやこれは進化論に反して改善はされないのではないか。ねたみ、そねみ、そしり、悪口 二枚舌、うそつき
真実と違う言葉。間違った見方、人間の弱点とされるものはおそらく未来永劫に変わらないのだろう。ということは世相がいかにに変わろうとも、反応体そのものが変わらないのだから、変わるはずがない。未来永劫に。
お菊の場合もそうである。真実とは違うことが喧伝され、それが正説として信じられていく
いつの間にか真理にまで高められていく。小説にでもなればその作者の思いがそのまま無批判に受け入れられて、まるで学説であるかのように、固まっていく。伝承物語というのはその時々によって塗り替えられることもしばしばあるし、それでよいのだ。
お菊の場合もそうである。これが「菊雄」になったら困るがそんなことはありそうもない。

古井戸もお城もお菊神社もこれから先ずっと続くことだろう。歴史的な事実が解き明かされることなく。いつの世にも変わらない人情というものの機微に触れて時代がいかに変わろうとも、これに触れる人々の紅涙を絞ることだろう。
というkとは様相は違うにせよいつの世にも起こりうることだから。
人の世というものは時代をこえて、いつも悲しみに満ちているからだ。
これだけは人間がいる限り変わりようがない。

2,お菊井戸

2008年04月06日 | Weblog

2,お菊井戸

 備前門をくぐり中に入ると、天守閣の前の広場・備前丸に出る。
そこから天守閣に登れるが、僕はそちらの方に行かないで、門の前の下り坂を下りて行った。腹切り丸をやりすごし、リの門を潜ってだらだら坂を下っていくと、上山里と呼ばれる広場に出る。この広場は備前丸のような大きさではなくて、こじんまりしている。その中央付近に、お菊の井戸がある。直径が2mはあろうか。周囲は石柱の柵で囲まれているが、その柵は頑丈なもので、表面には井戸に落ちないように金網のふたがしてある。

立て札には 1500年ごろ、播州更屋敷物語とは、お家のっとりの企てを女中お菊が知り、城主の難を救ったが、家老とその一味はそれを恨み、家宝の皿一枚を隠し、お菊を責め殺し、井戸に投げ込んだという趣旨のことがかかれていた。
私なりに解釈を加えて、もう一度繰り返すと、お菊という女性が大切な皿を割ったとか、無くしたとか言う罪に問われて、実際には無実の身であるにもかかわらず、殺されてこの井戸に投げ込まれ、その後、お菊の怨念が亡霊となって夜なよな現れて、井戸の中から亡霊が「お皿が一枚……二枚……」「九枚……一枚足りない……」と恨めしげな声で皿を数えたと言うのである。

立て札を読んで、物語のあらすじを頭に入れて、井戸の中を見ると確かに気味が悪い気がする。
中をのぞくと、真っ暗で底は見えない。おそらく10m以上はあるのでは無かろうか。
水が見えないから、井戸とは名ばかりで、いざというときにどこかに逃げる逃げ道に使われたのではないかとも思った。井戸の途中からまた横につながる穴が掘られているみたいな感じがした。井戸の縁は掘ったままの土がむき出しで、これが掘られた当時の様子を思い起こさせた。暗くて見えない底を じーっと眺めていると何故が胸が苦しくなってきた。
この井戸を掘った人達は、ここがお菊の井戸として、後世に悲劇の現場として名を残すなんて事は、想像だにしなかったのではないか。
どこにでもありそうな井戸がかくも有名になったには、ここを舞台にして何か事故や事件が、井戸そのものにまとわりついた事によるものだ。事の真偽は別にして、江戸時代にはこれらの話がいろいろ脚色されて怪談として巷間に伝えられ、浄瑠璃・歌舞伎の題材とされて、当時の大衆の関心を引き、涙を誘ったのだろう。これが怪談として今に伝わっている。

この城にある切腹丸という所は、お菊の井戸とは、又別な意味で気持ちの悪い所である。城の中心から見ると、東南方向にあり、切腹を命じられた
武士が自らの手で、命を絶ったのだと思うと、やりきれないものがある。
時代の差とは言うものの、現代の感覚からすると、割り切れないし、納得がいかない。
検死役の座るところがあったり、前に首洗いの井戸があったりして、薄気味悪いところである。しばしここにたたずみながら、僕は時代というものを感じた。人間はこういう歴史を経ないと、現代にたどり着けなかったのか。
一方、「建物の形が、時代劇に出てくる切腹の場を連想させるので、いつのまにか、このような名が付いたようです。当時、罪人の切腹は屋敷内の庭先などで行われるのが普通でした。ここは神聖な城内で、城主の住居のあった備前丸にも近い場所であり、切腹が行われたとは考えられません。」と解説されている。
しかしながら、その切腹場所を見たイメージというものはかなり強烈で、この解説をすんなり受け入れることは、難しかった。僕の場合は腹切りイメージというマイナスイメージがこびりついた。それというのも実際に切腹させられた人の想いというのはどのようなものであったのだろうかとわが身において考えてみたからだ。時代の風がいかなるものであろうが、どんなに時代にそぐわないことをしたといっても、文字通り腹を切って自殺するというのは、今の僕には想像がつかないのだ。そのくせその場面のイメ^ジは頭の中にあり、それが1枚の絵として頭に浮かぶのだ。
世は戦国時代。殺すか殺されるか。極端にいえばこのような時代である。安穏として生きているわけではない。常に武士は命を懸けて今日の命をつないでいたのだ。それがその当時の世相だ。腕力が強いものが、弱いものを征服していく。そこには常に腕力がものをいって、必ずしも正義のためにというわけではない。強いもの勝ちの時代で強いのが正義なのだ。
それはお菊という無名のどこにでもいそうな女性の運命にも重くのしかかる。いつの時代にもある人間の運命のさだめなのだろうか。そんな気の毒な星の下に生まれてはかなわないと思うよりも、同情が先立つ。
井戸のふちにたって僕はいろいろなお考えにふけった。

事の子細をもう少ししりたいと思ったので、お菊が祀られているというお菊神社を訪ねることにした。












姫路城

2008年04月06日 | Weblog
姫路城

富士山の美しさは、離れたところから見ると、まさに霊峰富士だが、五合目くらいまで登って頂上を見上げても、赤ちゃけた岩がごろごろしているばかりで、霊峰だなんて、うそみたいな気がする。

 姫路城もそうである。大通りの突き当たりにある城を、駅前から眺めると、小さいが、全体が見渡せて、その姿は美しい。
最も美しく見えるのは、大手門を入り3の丸広場から、まっ正面に見える白亜の城を眺めるときだろう。
これは文句なしに美しい。しばらく見とれてしまう。国宝でもスケールは日本一のお城。天守閣の美しさは際だっている。世界文化遺産になるのも納得できる。世界各地から、やってくる観光客は年間、約80万人だそうな。

元々ここは姫山と呼ばれる小高い丘で、古くは古墳が築かれたり、お寺があったりしたらしい。城を見て回って気がついたことだが、これだけの石垣を作るにはどれほどの石が必要であったかと言うことである。
とにかく、この大きな城を作るためには莫大な数の石が必要であったということが窺える。
近郊の石という石は、かき集められ、墓石こそ丸出しにはされていなかったが、石積みの中には、この丘にあった寺(称名寺)の墓石など、これとばかりに石垣の内部には組み込まれたことだろう。
いやもっとふるくは古墳時代に、ここに埋葬された人の石棺の石が備前門の直ぐ横に石垣の一部として使われている。
死者の尊厳も何もかもあったものではない。とにかく、この大きな城を作るためには石が必要であったということがよくわかる。
これだけではない。水門1の近くの石垣には老婆が差し出したと言われる石臼まで石垣の石として使われている。そこまでして膨大な数の石集めをして難攻不落の城を造ったのだ。
築城の際の石集めの苦労が偲ばれる。と同時にかなり無理があると思った。
この城の築城の歴史をのぞいてみると、この城は幾多の変遷を経て、今にその姿を現している。
1333年(元弘1)の守護職赤松則村がここに砦を造ったのが姫路城の始まりで、豊臣秀吉も西国攻めの際、天守のある城を築いた。
いまの縄張り、つまり建築、構築物の配置は、徳川家康の娘婿池田輝政によるもので、築城は1601年(慶長6)から8年かけて進められた。
姫路城では「菱の門」を入ったあと、「い、ろ、は・・・・・」、天守に近づくと「水一、水二、水三・・・・・」の順に名付けられた門が続く。菱門の中に入っですぐ左手におれで、緩い坂道をあがったところから西北側を見ると、化粧やぐらがある。これは徳川家康の孫、千姫が大阪落城の際、助け出されて本多忠刻と再婚、この城に住む。そのおり幕府から贈られた化粧料で建てられたので「化粧櫓」と呼ばれている。、、、以下略
千姫については、燃え盛る大阪城から必死の覚悟で彼女を救い出した向坂出羽守の話がある。顔に大やけどを負いながらも千姫を救い出したのは彼である。冷静沈着な家康もかわいい孫娘の命には換えられなかったのだろう。彼女を救出したものに嫁として与えるといったとか。ところが救出されて後は彼女は本多に嫁している。そこで約束違反を怒った向坂は江戸で反乱するが、取り押さえられて処刑され、つぶされてしまったそうな。
なんとも残酷な。
向坂にとっては姫を救ったことが自分にも家臣にもあだになってしまうという皮肉ではすまない逸話?さえ物の本で読んだことがある。そんな余談さえも思い浮かべながら、一通り、そこを見て、城の天守閣に近づくように、歩いていくと、この城を作るのに、どれほど大量の石が必要であったかが、思いやられた。それが一つと、この城の防御の思想や仕掛けとその作りから読み取れる、築城の知恵のすごさに、少なからず感心した。
これは到底私の考えるところではない。私の知恵や思考を遙かに超えている。すごいものだな。あるのはその驚きだけであった。


池田輝政は、入城と同時に大規模な拡張工事に着手、秀吉時代の天守の位置に大天守、西・乾(いぬい)・東の各小天守、および櫓(やぐら)・渡櫓・櫓門の天守群をきずき、1609年に完成した。天守閣は高さ33mで外観5重、内部6階、地下1階、完成当時は江戸城につぐ大城郭で、建物はすべて白漆喰(しっくい)塗、瓦の重なり部分にも白漆喰がつかわれて、その美しさは白鷺城の名にふさわしい。
家康死後の1617年(元和3)には、池田氏にかわって本多忠政が城主となり、忠政の時代には西の丸が整備され、忠政の子忠刻(ただとき)がその妻千姫の居館とした。
以後、城主は奥平氏、榊原氏、結城(ゆうき)氏、酒井氏と、しばしば交替して明治維新にいたったが、さいわい戦火や落雷の被害もなく、天守閣はじめ櫓、門など多くの建物がのこされたと解説書には書いてある。

姫路城までは、姫路駅から一直線に伸びる大通りを歩いて、城の入り口・大手門迄は約20分かかる。その中にはいると大きな広場がある。ここからみる城全体姿、とりわけ天守閣の美しさは、すばらしい、美しい、優雅の一言に尽きる。観光客が記念写真をとる場所である。
そこを左曲がりに道なりに沿って砂利道を歩くと、入場券売り場にたどり着く。入場料600円を払って城内に入った。

幸いなことにこの城は攻められて、落城することは無かったと、史書は伝えているが、それはこの城の持つ運命とでも言えばよいのだろうか。
戦国時代という背景を考えると、全壊半壊があっても、不思議でないのに、何百年の長きにわたって、無傷でいるというのはかなり難しいことであり、無傷で残ったという方がむしろ驚きである。
これだけのスケールの建物や構築物を維持管理して保存していくことは
相当の出費を覚悟をせざるを得ない事は、明白である。自分には直接関係のないことだけど、一体誰が、どのくらいの費用を出して維持管理保守をしているか、気になったので、調べてみると、下記のような説明がなされていた。
「廃藩置県により、無用の長物となった各地の城は、保存に巨額の経費がかかるため、次々に廃棄され、売りに出されました。姫路城も例外でなく、競売の結果、市内の神戸清一郎という人がわずか23円50銭で落札。ところが、買い取ったものの取り除きに莫大な費用がかかるため、権利を放棄したとのことです。」

この続きの話は、陸軍省の管轄の時代に、中村中佐がこの城を守るべしと主張、それが受け入れられて、現在の城がある のを思うとき、中村中佐はこの城の命の恩人だと思った。この思いは僕一人だけではなく、菱の門をくぐるとすぐ前に、中村中佐の顕彰碑が目に入る事から、城に思いを寄せる人は、みなそう思うのだろう。
城の側から見ると、時の氏神があわられて、保存が確実になった。そして1993年日本では法隆寺とともに世界遺産に登録された。中村中佐という一人の先見者のおかげで世界遺産にもなった。日本国民の一人としてうれしい話じゃないか。保存を提言した中村中佐に感謝したい。
きっと姫路城はそういう運命を持ってできた城なのだろう。戦乱の時代をくぐり抜け、天災地変で崩落することもなく、火災で消失することもなくまた、地震にも耐え、その維持費の莫大さに取り壊しが決定されてもおかしくないのに、国家によって維持されるようになり、その優雅な姿を今に伝える。この城はこういう運命の下に生まれてきたのだ。



天才の部分は

2008年04月06日 | Weblog
        
さだまさしは言う
「最初の曲は 残像 という歌、これを聞いていただきました。この歌には特殊な思い出があるんです。若いころ一時期天才だった時期があるんです。天才、これはもう自分でもそう思っているんです。一時期ですよ。この残像という歌は、その天才の時期に作ったものなんです。それはどういうことかと申しますと、ステージで、こうやってお客様がいらっしゃるですよ
そのステージの上で歌いながら別の曲を作ったんです。いや、信じてもらえないと思いますけど、そういう感覚てあるんです。例えばで、ちゃんと歌っているんですよ、いつもと同じように。
すると歌っているうちに、別の曲が頭の中で成り立つんです。これはよいメロデイじゃないかって思うんです。そうすると歌いながら、その頭の中の新しいメロディーをしっかり覚えておいて、あとでそれを楽譜に移すんです。そうやってうまれたのが、この 残像 という曲です。中略

「曲作りというのは実に面白いもんでね。どういうんですか、意志の集中力の勝負なんですね。曲を作ろうと集中している時ですね.5時間ぐらいたっても5分くらいにしか感じないんです。そうかと思うと、いくら集中しようと努力しても全然集中できなくて、時間ばかり過ぎてしまうということもあります。ですから集中できないときはどんなに時間もかけても曲はできません。もう3日間そうやって徹夜を続けても、一曲もできないときもあれば、一晩に6曲も作ることがある、恐ろしいもんであります。」 中略

「曲作りするときは集中するから誰にも邪魔されたくないんです。結婚して1番気がかりだったのは、その曲作りの時、邪魔されるんじゃないかっていうことでした。邪魔するという言葉は適切じゃないんですがね、リズムをくるされたくない。」
時の流れに お伽詞集Ⅲ 93ページ

-以上はさだまさし本人がいうんだから、まず嘘ではなかろう。もう一度繰り返してみると、ステージで歌を歌っている最中に、頭の中ではもう一つの、まったく別の曲が鳴っている。それを記憶しておき、楽譜化したものが 残像  という作品である、というのである。
カンナで木を削っているときに、頭のなかで曲ができるというのならば、ある程度まで話はわかる。一曲を歌いながら、同時進行で全く違った別のも一曲を作るという場合、曲と曲がお互いに邪魔をして、できたものじゃあない。
たとえ、1つの曲を作るのに夢中になっていても、例えばラジオから関係ない曲が聞こえてきたら、私の場合、すぐ筆をおいてスイッチを切る。そうでなければ、音が混合して1つの音の流れを作ることが不可能になる。これは日常茶飯事的に、私が経験することであるから、歌いながら別の曲を作曲するというのは、正しく、天才というべきであろう。
しかし、私はこの天才部分を、なんと表現するかは別にして、その部分があることは100%信じることができる。というのは、私にも似た経験があるからである。
その時私は右手にチョークをもち、左手に教科書をもって、重要事項を黒板に書いていた。
3年1組の日本史の授業で、江戸時代の説明をしている最中に、
ミミミ ・ミー・ フアミレ・ ミー ・と曲が頭のなかでなりだしたのである。、ともかくも忘れないうちに、メモしておかなければと思い、懐の中に忍ばせてある小さな五線紙を取り出して、教卓の上におき、生徒に見えないように出席簿で、五線紙を隠しながら、16小節を、一分もかからないうちにメモしておいた。
口で一生懸命にしゃべりながら、手で黒板に字を書き、それと並行して作曲?してしまったのである。
子供達とはいえ、いやしくも、多数の生徒を前にして、授業している最中に、私は一曲作ってしまったのである。
しゃべっているときは、おそらく、神経はいましゃべっていることや、次に口から出てくる言葉や、その内容に集中しているはずなのに。
完全な曲がすらすらとできたのである。そして不思議なことに、エイジングしてみても(作曲した時から時間をおいてもう一度曲を見直し部分修正すること)こういう感じて作った作品は、修正するところがない。本当に不思議なことなのである。
作曲したいという強い衝動にかられて作っても、なかなか満足するものは生まれてこないというのに。
すべては己の感性にかかっているので、心身共に体調がよいときは、わりに順調にできても、心にももやもやすることがあったりして、もやがかかったような状態のときには、作曲自体が死闘であり、曲作りには大変な苦労しているのが私の現状である。人間には何かひとつのことに集中しているときに、果たして、まったくそれと関係ない次元の創作をすることが果たして可能なのか。
歌を歌いながらまったく別の曲を作曲したり、夢中になって授業している最中に、作曲したりすることは私は人間技では、不可能だと思っている。しかし現実には、さだまさしも、私も最低一曲ずつは作曲ができている。されればこの事実をどう解釈するのか。
こういう至難の技をできるのが、さだまさし によると、天才の部分なんだが、私は人間技では不可能だと考える以上神の技としか思えない。だから私は天才の部分だとは言わないで、神仏からの頂もの、とういうふうに表現している。
 ともあれ、私はこのようにして、あの哀しみあふれる 姥捨て を作曲した。


吉兆さん

2008年04月06日 | Weblog
先日吉兆さんにおよばれでいった。昼から、フルコースである。出てくる料理はどれもこれも、超一流の味付けと、いろいろな食材を、腕を磨いた腕自慢の料理職人が料理した盛り合わせばかりで、季節の旬のものも量も、考えられている。さすが日本で1,2をあらそう料亭である。味付けと、素材の新鮮さと、磨かれた職人芸の料理や盛りつけを楽しみながら、僕なんか一生涯で何回こられるのかなと思いながら舌鼓をうった。
おいしいごちそうとは、一体どんなものなんだろうかと考えながら、さかんに箸を動かせた

フルコースだから吸い物をはじめとして、煮物、揚げ物、酢の物、香のもの、デザートでしめたけど、満腹を通り越して、食べすぎで体がしんどくなってきた。

そこで考えた。

一番おいしいごちそうとは、

1,自分の食べたいものを、(ほしい食べ物)
2,そのときの体調に合わせて、食べたいだけ、食べることである。(適量)

自分の食べたいものは、その日の体調によってかわる。
例えば、からだが疲れていると、すしのような酢の気のようなものがほしいし、甘いものも食べたい。
日によってはウナギの蒲焼きのようなあぶらっこいものが食べたくなるし、またある日には、体調に合わせて、刺身のようにあっさりしたものがほしい。

食べたい量を決めるのは、そのときの体調による。たくさん食べたい時もあれば、あまりほしくないときもある。その日の食欲を、まあ満足させてくれるだけ食べれば最高だ。
食べ過ぎてしんどくなるよりは、食べたりない方がまだいい。

ここまで考えた時、この世の中でものの値打ちというものは、自分が決めるものだなと思った。

吉兆さんだから、おいしいという前に、そのおいしさを決めるのは自分であること、つまりものの価値を決めることに関しては、個人は宇宙の中心なんだということだ。

考えたら、当たり前の話である。その当たり前が、心の芯から判るのに、50年以上かかった。
ひょっとしたら、自分は人間として、物事の理解にあまりにも時間がかかりすぎる、お粗末人間かも知れない。