平泉駅から金色堂を目指して 、20分から30分歩いた。自転車に乗らずに歩いたほうが出来るだけ当時の様子に近い状態が、味わえるのではないかと思ったからだ。
柳御所跡は今は水田。小高い丘にのぼると柳御所のあたリが一望できた。
同じ血を分ける兄弟であリながら、又平家追討では、兄頼朝の為に、多大の貢献をしながら、最後はここ奥州で殺される義経とは、何という悲運の持ち主か。 丘の上では頭の中は、人間は正義、不正義に関わらず、一歩まちガえれば、死に至る、恐ろしい運命を持ってる。そんなことで一杯だった。ぼくは焦点を定めることもなく、惟ぼんやりと、辺りを眺めるともなく眺めていた。
結果論だが、歴史の流れから見てみると、確かに頼朝のほうが先見性がある。後白河法王や取り巻きの貴族なんて信用はできないし、義経のやっていることは貴族政治に従属した考え方である。
確かに頼朝の第一の家来梶原との確執もあるようだが、それは歴史の流れについての判断の理解の仕方によるというよりは、感情的な対立のほうが大きい。
義経の言い分もわからいではないが、彼の考え方は歴史の新しいページを開くものではなくて、従来の貴族政治の下での、政治体制の維持、すなわち現体制の維持が根底にある。
ところが頼朝は違う。貴族政治から脱却して、新しい武家政治を打ちたてようとしている。ここのところに両者の決定的な違いがある。意見が分かれ、共通理解がなく、紛争の火種はここに内包されている。
人間には感情と理性があり、両者のバランスが必要である。
情の面においては、義経に涙を寄せる人は多いことだろうが、歴史的にみると、やはり頼朝の決断の方が新しい歴史の方向を模索して、新時代を切り開こうとしている点、正しいようにも思える。
いずれにせよ決定的な対立となり、生死を分けたことは、歴史上の出来事とはいえ、いつの時代においても、日本人は悲劇のヒロー義経に同情して、涙を流すことであろう。
まるで小説で、悲劇のヒーローを描いたかのような義経の悲劇である。ひょっとしたらこのストーリーは神が書いて、役割を演じたのが、頼朝であり、義経であり、片方の主役をになった平家なのだろうか。
覆堂は何百年か毎に移動(移築)するみたいである。僕が見たのは杉木立の方へちょっと段になっていた。
名所であるから、連休とも重なって、全国から大勢の観光客が来ていた。
とくに有名な金色堂は、我も我もと押しかけるので、ラッシュアワーの満員電車のように肩が触れあって、堂内見物をするのが難しい状態であった。
そこで私はいったん金色堂をでて、入り口のそばにたたずんでいた。人の切れ目を待っていたのである。しかし人は切れ目なく続いて、出たり入ったりしている。
少なくなることはあっても、人が途切れるということがないので、私はあきらめ、堂に入った。金色堂内は管理人とおぼしき人がいて、ブースの中に坐っていた。
私はぼんやり、須彌壇の方を眺めていたが、突然人波が途絶えた。管理人も席を外している。堂内には私を除いて誰もいない。ほんの一瞬の出来事である。
そのとき私は体がまるで、雷にでも打たれたかのように、脳髄から背骨のあたりにかけて、ジーンと音がして、頭の髪の毛が逆立つのをおぼえた。髪の毛が逆立つ?確かに逆立っていた。
そこには誰もいない。管理人さえもいない。助けを求めても、誰もいない。
存在するのは藤原3代のミイラと私しかいない。ぞぞっとという身ぶるいと髪の毛が逆立ったことしかわからない。不思議な恐怖体験である。
いったい何が起こったというのであろうか。強いてこじつけをするならば、千年余りの時を経て、この藤原の誰かの魂と私の魂が感応現象を起こしたということではあるまいか。
そうでも考えなければ、私には何故、こういう現象が起きたのか、説明がつかなかないし、また納得がいかなかった。
確かに肉体は7、80年もたてば、この世から姿を消すが、魂は果して体の消滅とともに、消滅するものであるのだろうか。、、、その答えは誰も知らない。わからない。 輪廻転生を固く信じている人は別だが。
夢のような体験をして、夢遊病者のように自分の魂を浮遊させて、しかる後にこの世に戻って正気をとりもどすと、気がついたときには、再び大勢の人が身の回りに、がやがやと立ちさわいでいた。
今の未知体験の正体はいったい何だったんだろう まさに夢のような不思議体験であった。間違いなく正気は何者かによって奪われていた。 薄気味の悪い、奇っ怪な感じとその記憶だけが残った。
そのあと何か変化が起こったかというと、それは何もない。 一体何だったんだろう。
謎は今も解けていない。