日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

航空業界の実情

2008年04月22日 | Weblog
        航空業界の実情

関西空港は、1994年9月4日に華々しく開港した。予期されたことではあるが、連日万単位の人々が、関西空港へやってくる。モノ珍しさもあろうが、海外旅行へいく人々も、大勢やってくる。マスコミの発表によれば、年間、海外へ向かう人は、ビジネス・観光含めて、1200万人とか。
わが国では確実に海外旅行は大衆化された感じがある、そのわけは、格安航空運賃に、円高が相乗効果もたらせて、国内旅行よりも割安感が出てきたことなどで、スキーを楽しんだり、ハワイでダイビングを楽しむなんて、わざわざ海外にかけなくても良いのに、もったいないことをすると戦後のが貧しい生活を体験した私は一人ぼやいたこともある。世の中は、僕ら世代が見るような、そんな時代ではないのだろう。
ところで、1000万人からの日本人客がありながら、日本航空をはじめ、我が国の航空会社は軒並み赤字経営だという。こだけの客がありながら、儲けることのできない企業体質とはいったいどんな経営をしているのか不思議に思う。
赤字に、陥っている日本航空は背に腹は代えられないということで、来年は時給1300円のアルバイトスチュワーデスを採用することによって、人件費の負担軽減を実施しようとした。その発表があった直後に亀井という運輸大臣が待ったをかけた。彼の言い分はこうである。
 待遇の違うスチュワーデスを同一機内で働かせると、安全上問題が発生する。リストラをかけるなら、安全に直接結びつかない部署から手をつけるべきだ。もし、俺の言うことを聞かない場合は、増便などで考えるざるをえない。
この発言は、問題だと思った。案の定翌日、朝日新聞は、漫画を乗せた。背中に、背負ったロケットを約逆噴射させながら、垂直尾翼にまたがって、鶴のマークをふんずけている大臣の姿が描かれている。
事の本質をズバリ、一目瞭然に、また、簡単明瞭に、描いた絵の下に
「逆噴射さ亀さんにお手上げする鶴さん」
とコメントが入っている。この亀井発言に対して、各方面から反対や批判の声が上がったのは当然だろう。

反対論
1、規制緩和を目指している内閣にあって、緩和に逆行指示を出した大臣発言は、実情をよく理解したものではない。
2,安全上の問題というが、アルバイト、スチュワーデスをしっかり訓練できたら解決できる問題である。
3,、外人の乗組員との方がもっと問題があるが、外国では、リストラの一環として当たり前のことで、これをしなかったら、日本の航空業界は、世界の業界で後れをとることになる。
4,民間企業に圧力発言したのは問題である。
5,、自己顕示欲や政治力の誇示に利用としている。本音が見え見えで
、今回の問題は彼の人柄によるところが大きい。

私の主張
彼の主張する論理には無理がある。
 第一に、安全上の問題について、端的に言えば、アルバイトスチュワーデスでは安全でないという発想自体がおかしい。これは訓練によって、解決できる問題である。また、外国では、自分の国よりも、賃金の安い外国人スチュワーデスを実際に採用して、乗務させているが、問題が起きていない、この実情を知っているならばこのような幼稚な発言はできないはずである。この程度のレベルのことを行政の長が発言すれば、安全上という論理は、あくまで隠れみの。本当はもっと違ったところに、彼の本音は、あるのではないかと勘ぐりたくもなる。そしてなによりも、世間の人から批判されたのは、彼の人柄の問題である。
このような横柄な態度がたたかれるのは、当たり前の話である。権力を笠にきた強圧的態度。俺の言うことを聞かない官僚はやめてもらうと言ったとか。なんと己を知らない傲慢なバカなやつだ。
さらに、こういう類の発言をして、自分の政治力を誇示し、自己顕示の具に利用。恣意的な態度。どれをとっても、世間の人の反感を買うモノばかりである。

これらを総合すると、今回の発言によって、彼は自分の人柄の資質のお粗末さを余すところ無く、はしなくも人前に露呈して、ひんしゅくをかった。
またこの発言内容は、まことに根拠が、乏しく、幼稚なもので、ハチのひとさし、じゃないけれど、リストラも分からず、経営に口をはさむ、大臣の[アホはあんたです。]という週刊誌が、事の本質をズバリ端的に言ってのけている。このフレーズに共感した人は多いはずで納得。納得。

結局、何だったのか。運輸省のアホ大臣と、日本航空経営陣のけじめのなさを浮き彫りにしただけで、何の問題の解決にもなっていない。



















火宅の人々

2008年04月22日 | Weblog
火宅の人々
我々がこの世に生まれているということはもうそれだけで十分火宅の住人である。
地位を求めて、名誉を求め、金を求めてヨーイドンを始めるから、
自分よりに先を走るやつらの足を引っ張り、同じレベルのもの当然のこと、まして後を追いかけてくるやつは蹴飛ばして人生競争を夢中で突っ走る。
こんな状態に巻き込まれてどうして、心豊かな人生が送れるだろうか。
これは素足で火の上を走るようなものである。

そしてこれは火渡り神事に似ているところがある。

神事の場合は、各おのの作法にのっとって順序や要領が決められており
ヤケドをする確率は最小限に抑えられている。
それでも偶にはヤケドして救急車で運ばれる人もいるみたいだ。
ゴマ木を燃やし、その残り火の上に、大量の塩をまいて、その上を素足で渡り歩く。

一見炭のように見えても、先ほどまでは赤々と燃えていたものだから、表面は炭でも、中には熱があり、火のついたものもある。右足左足を早急に、こ走りに走るようにして渡って行かないと、熱さを感じるだけでなく、文字どおり、ヤケドをしてしまう。

この世に生まれて、人生コースを走り始めると、ゆっくり歩いていくと間違いなく、ヤケドを負うし、小走りに走れば、ヤケドを負わないかというと、そういうものでもない。途中で転んだら、やけどを負うだけでは済まない。
場合によっては、人生そのものを失う可能性だってある。
宇宙からこの様子を眺めてみると、いかにもウジ虫的なものか、我々の生存競争は。

ところがまれには悠然として歩調を確かめながら、自らのペースを守り他人に乱されることもなく、堂々と人生レースを生きる人間もいる。
さような人は人生をフルに生きて、この世を去るときは、人生に思い残すことなく、ただ次の世界でも、なるに任せてと達観している。
確かになるにまかせないと、来世が自分の意思どおりに展開すると言うものでもなさそうだ。でも、普通人は自分にはこだわるものだ。人生を渡り切ったという自己満足充実感があると、悔いもなければ、後悔もない。歴史上の人物にはこんな傑物もいる。










甲子園の砂

2008年04月22日 | Weblog
          甲子園の砂

先生。これ土産だよ」
ぞろぞろと教卓を取り囲んだ野球部員のなかの一人が、私に紙袋を差し出した。中を覗いたら、砂。私はとっさに「甲子園の砂だ」と思った。

 何千何万という球児たちの青春の汗と涙を吸い込んだ甲子園の砂。
己と己の戦いに死闘を繰り返し、青春の思いのすべてを打ち込んだ砂。
それがこの小さな紙袋に収まって、いま私の手に重くのしかかっている。
「ありがとう。大切にするよ。」
私はクールに礼を言った。

 自分が毎時間、教室で顔を合わせている生徒が出場するということが決まってから、私の心もはずんだ。

本校は文武両道の学校である。有名大学に合格する数は県下で3本の指に入るし、以前はサッカーでも全国優勝したキャリアをもつ。
甲子園出場が決まって、この狭い地方都市は沸いた。

私も胸を高鳴らせながら、甲子園へ行った。そして、今まさにグランドへ降りていこうとする選手一人一人に両手を出して、握手を求めた。

 「勝負は時の運だ。君達は同じ世代の誰もがあこがれる甲子園の土をいま、その足で踏もうとしている。君達の青春をあの砂の中に投げ込んで、この素晴らしい体験を生涯の記念にしてくれ。全力を出せばそれでよいのだ。手抜きは許さないぞ。さあいけ」

私は一人一人の背中を突いて、グランドで送り出し、彼らの健闘を祈った。

私や地元の熱い期待とは裏腹に、彼らは勝負にならない大差で、この試合に敗れた。一方的に打ちまくられて
出鼻をくじかれたナインは最後まで、本来の力を発揮することができずに、試合はおわった。私は言いようのない腹立たしさと、いらだちに覆われたが、それでもナインは最後まで球児らしく振舞ってた。
その姿は立派だったが、一人一人は背中で泣いていた。


グランドの隅でしゃがんで、せっせと何かしている姿は、甲子園を去る。球児がよくやっていう仕草だが、彼らもきっと涙をこぼしながら、この作業をやって、土産に砂を持って来てくれたのだろうと思うと胸が熱くなる。

私は10年らい、大切なものとしてその砂を机の中に仕舞い込んでおいた。それが今年引越しの際に、行方不明になった。おそらく、作業員が単なる砂としてそのへんに捨ててしまったんだろう。丁寧に見れば、自宅の床下にでもバラ巻かれたのだろう。

 この世から蒸発したわけではないのだが、あの懐かしい袋と肌触りの良い砂は今はもうない。しかし、彼らの青春は私の心の中で、いつまでもいつまでも燦然と輝き続けることだろう。