両手なくした尼僧の話 大石順教尼
高野山にはよく行くが、奥の院にはめったに行かない。ところがどうしたわけか、今日は久しぶりに奥の院を訪ねた。
バスの終点を降りて御廟の方へ行く参道の両側に並ぶ墓を見ながら、ぶらぶら歩いていくと、三叉路になった角の北側に、大石順教尼の墓が目に留まった。
ああ、彼女もまたお大師さんの懐に抱かれてここに眠っているのか、と感慨もひとしおだった。
私がまだ小学生のころ、というと今から50年も昔になるが、酒が入って赤ら顔で父はよくこの両手首を失った尼さんの話を子供達にしてくれた。
その時父はこの話はおじいさんから聞いたとも言った。
祖父は大阪府警の検事補を努めたこともあるので、あるいは誰からか聞いたのを、自分にすり替えて子供、即ち私の父に話していたのかもしれないし、本当にご用提灯を手に持って現場の探索をしていたのかも知れない。父は子供の頃に聞いた話をオウム返しに、私達子供に話してくれたのだろう。
大阪堀江の6人斬りの話である。
ストーリーよりもむしろ単語の方が強烈な印象として、記憶に残っている。例えば切り落とされた生首、畳いっぱいの血の海、切り落とされた両腕、恐怖でぶるぶる震えている下女?など。
父が語った講談話はこうである。
ご用だと踏み込んでみると、年若い女が血まみれになってぶるぶるふるえていた。両手がばっさり切り落とされているのである。犯人は罪もないひとを6人も殺傷したわけだから勿論死刑である。
いよいよその時がきて、「何か言い残すことはないのか」と尋ねられた時、その下手人は最後の一言を残したのであるが、こういうことである。
「丹波栗今実がなって、今落ちると言ったらスパットやっておくんなせい 」
執行人は約束通りにヤッテーという声を合図に刀で首を切り落とした。と同時に前に掘られた穴に向かって、後ろから首のない背中を押すと、血しぶきはその穴に向かってどっと流れたと言う話だった。
父はその後の結果については何も言わなかったし僕らも何も聞かなかった。子供心には物語はそれで完結していたのである。明治時代にまだお仕置きとして首を切る斬殺刑があったのか、なかったのか、子供心にはそんなことはどうでも良かったのである。
そのたった一人の生き残りの女性・大石よねの墓が今私の目の前にあるのだ。墓前にたたずみながら私はとういむかしの怖い話をしきりに思いだしていた。あのときフトンの中で川の字になって寝たときの、父親の体温のぬくもりが急に体を通り抜けていった。懐かしくも怖い話だった。
図書館でかりた本は、順教尼・即ち堀江の6人殺傷事件の生き残り、両腕をなくした大石よね自身が書いたものだから、当時の様子や彼女が心に受けた傷やその癒しについて記述したものとしてはこれが一番正確なものであろう。
大阪の堀江新地でおきた6人斬り事件の概要はこうである
海梅楼で養女になっていた大石よねが17才の時養父である中川万次郎の狂気乱心の為に両腕を切り落とされた。他の家人5人は凶刃に倒れ皆命を失うという事件が堀江で起きた。犯人万次郎は自首して死刑になったが、原因は万次郎の妻が男を作って出奔してそれに逆上した狂気のあげくの殺傷事件だった。
此の実話はそのストーリーだけでも十分興味をそそるが、それよりもすごいのは、順教尼の生き方が並はずれて立派で、真面目に生きる者に勇気と示唆に富んだ人生の教えを与えていることである。両腕を失いながら彼女は口に筆をくわえて絵を描く画伯だと言うことである。画才のない私から見れば、口に筆をくわえて、これほど上手な絵が描けるのかと感嘆してししまう。絵は手を使って書く者だというのが常識だから、口でなんて言ったところでピンとこない。
この種の話は雪舟が、オツトメを忘れて絵ばかり描くのに業を煮やした和尚が、彼を本堂の柱にくくりつけた。後になって和尚は彼が本堂の床に零した涙で足を使ってネズミの絵を描いてびっくりさせたという逸話ぐらいだろう。
話を大石順教尼に戻すと彼女は「無手の法悦」と言う本を書いている。一読をお勧めしたい。人間の精神力がどれほどのものか。磨き方、考え方によって不屈の魂を持って生きられることを、この本は述べている。勇気つけられる1冊である。
不条理だとは思うが、神は時として人を選んでハンデキャップを与え、それを乗り越える智慧や力と勇気、聡明さなどを与えて、人間の可能性を目の前に示されることがある
現代ではこのような話も風化してしまって、人の口にのぼることはない。
だけれども彼女はなにがあろうとまったく意に介さないで生前のあの、レベルの高い崇高な精神状態を保ちながら この高野山の、奥の院墓地で静かに眠っている。
ものが豊かになり,心がやせ細った現代の人々は,何か生き方を学んだら良いと思う
高野山にはよく行くが、奥の院にはめったに行かない。ところがどうしたわけか、今日は久しぶりに奥の院を訪ねた。
バスの終点を降りて御廟の方へ行く参道の両側に並ぶ墓を見ながら、ぶらぶら歩いていくと、三叉路になった角の北側に、大石順教尼の墓が目に留まった。
ああ、彼女もまたお大師さんの懐に抱かれてここに眠っているのか、と感慨もひとしおだった。
私がまだ小学生のころ、というと今から50年も昔になるが、酒が入って赤ら顔で父はよくこの両手首を失った尼さんの話を子供達にしてくれた。
その時父はこの話はおじいさんから聞いたとも言った。
祖父は大阪府警の検事補を努めたこともあるので、あるいは誰からか聞いたのを、自分にすり替えて子供、即ち私の父に話していたのかもしれないし、本当にご用提灯を手に持って現場の探索をしていたのかも知れない。父は子供の頃に聞いた話をオウム返しに、私達子供に話してくれたのだろう。
大阪堀江の6人斬りの話である。
ストーリーよりもむしろ単語の方が強烈な印象として、記憶に残っている。例えば切り落とされた生首、畳いっぱいの血の海、切り落とされた両腕、恐怖でぶるぶる震えている下女?など。
父が語った講談話はこうである。
ご用だと踏み込んでみると、年若い女が血まみれになってぶるぶるふるえていた。両手がばっさり切り落とされているのである。犯人は罪もないひとを6人も殺傷したわけだから勿論死刑である。
いよいよその時がきて、「何か言い残すことはないのか」と尋ねられた時、その下手人は最後の一言を残したのであるが、こういうことである。
「丹波栗今実がなって、今落ちると言ったらスパットやっておくんなせい 」
執行人は約束通りにヤッテーという声を合図に刀で首を切り落とした。と同時に前に掘られた穴に向かって、後ろから首のない背中を押すと、血しぶきはその穴に向かってどっと流れたと言う話だった。
父はその後の結果については何も言わなかったし僕らも何も聞かなかった。子供心には物語はそれで完結していたのである。明治時代にまだお仕置きとして首を切る斬殺刑があったのか、なかったのか、子供心にはそんなことはどうでも良かったのである。
そのたった一人の生き残りの女性・大石よねの墓が今私の目の前にあるのだ。墓前にたたずみながら私はとういむかしの怖い話をしきりに思いだしていた。あのときフトンの中で川の字になって寝たときの、父親の体温のぬくもりが急に体を通り抜けていった。懐かしくも怖い話だった。
図書館でかりた本は、順教尼・即ち堀江の6人殺傷事件の生き残り、両腕をなくした大石よね自身が書いたものだから、当時の様子や彼女が心に受けた傷やその癒しについて記述したものとしてはこれが一番正確なものであろう。
大阪の堀江新地でおきた6人斬り事件の概要はこうである
海梅楼で養女になっていた大石よねが17才の時養父である中川万次郎の狂気乱心の為に両腕を切り落とされた。他の家人5人は凶刃に倒れ皆命を失うという事件が堀江で起きた。犯人万次郎は自首して死刑になったが、原因は万次郎の妻が男を作って出奔してそれに逆上した狂気のあげくの殺傷事件だった。
此の実話はそのストーリーだけでも十分興味をそそるが、それよりもすごいのは、順教尼の生き方が並はずれて立派で、真面目に生きる者に勇気と示唆に富んだ人生の教えを与えていることである。両腕を失いながら彼女は口に筆をくわえて絵を描く画伯だと言うことである。画才のない私から見れば、口に筆をくわえて、これほど上手な絵が描けるのかと感嘆してししまう。絵は手を使って書く者だというのが常識だから、口でなんて言ったところでピンとこない。
この種の話は雪舟が、オツトメを忘れて絵ばかり描くのに業を煮やした和尚が、彼を本堂の柱にくくりつけた。後になって和尚は彼が本堂の床に零した涙で足を使ってネズミの絵を描いてびっくりさせたという逸話ぐらいだろう。
話を大石順教尼に戻すと彼女は「無手の法悦」と言う本を書いている。一読をお勧めしたい。人間の精神力がどれほどのものか。磨き方、考え方によって不屈の魂を持って生きられることを、この本は述べている。勇気つけられる1冊である。
不条理だとは思うが、神は時として人を選んでハンデキャップを与え、それを乗り越える智慧や力と勇気、聡明さなどを与えて、人間の可能性を目の前に示されることがある
現代ではこのような話も風化してしまって、人の口にのぼることはない。
だけれども彼女はなにがあろうとまったく意に介さないで生前のあの、レベルの高い崇高な精神状態を保ちながら この高野山の、奥の院墓地で静かに眠っている。
ものが豊かになり,心がやせ細った現代の人々は,何か生き方を学んだら良いと思う