日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

恋衣 

2008年04月30日 | Weblog
  
恋衣            

赤い夕日に 身を染めて   北を指して帰る鳥たち

白い翼に悲しみ乗せて    お前達かえるのか

かなわぬ恋に 身を焼いて  北を指して帰る私

つらいさだめを一人逃れて 私は帰るのよ

ああー貴方は今も  私のそばにいる

ああー貴方は今も  私を愛している

誰よりも誰よりも   私を愛している


朝は5時起きして僕はとりあえず京都を目指して車を飛ばした。京都からはサバ街道を北上した。小浜についたのは午後1時は回っていたと思う。
まず市立図書館へ行った。彼女に関する本を出来るだけ集めてあると思ったが、案外少なかった。彼女自身の著作物は少ないのは判るが、彼女に付いての研究書や解説書ならいくつもあるはずだ。

図書館には確かに山川登美子コーナーがあったが、ほんのわずかなスペースでお添えものと言う感じがした。その土地の名士であれば、郷土史家がいて詳しく掘り下げて調査、研究をしている人がいそうなものだが。そういう思いが強かった。ひょっとしたらそういう人に出会わなかっただけかも知れない。僕は彼女が学んだ梅花学園に電話して関連事項をコピーしておくってもらい、それだけでは足りないから、ここで彼女に関する本は全て借りることにした。

図書館を出ると、僕は駅へ走った。線路を渡って、これから彼女の墓に詣でることにした。彼女は発心寺の墓地に眠っている。お寺の庭掃除をしている、修行僧に彼女の墓の在処を尋ねた。

墓地の中央の坂道を登って行って、左側の奥にあるという。朝5時起きをして車に8
時間ほど乗って到着したこと。主人公の墓参りをしたこと。我ながら彼女の悲劇に対する、思い入れの大きさに驚いていた。

若狭の空を天がける雲は恐ろしいほど険しい。その姿を若狭湾に映して、北陸の秋は早くも冬の到来を告げているようであった。                   


今は幻の恋人であっても 離したくない 離れない
恋の戦に敗れても     恋衣は破れない
例えこの身は召されても  私の恋は終わらない
あなた色に染まる     恋の炎は
激しくもえるのよ
ああー貴方は今も  私のそばにいる



最近思ったことだが、コンピューターでは作曲は出来ないと言うこと。アレンジは確かに便利ですぐ出来る。

最初にひらめく曲想は人間以外のものでは出来ない、ということが判ってきた。やはりギターとかピアノを演奏(さっきょくのための)することの方が便利である。

今年こそはとかけ声ばかりで、まこと今年こそはヒットする作品を書きたいものだと頑張るつもりです。
今書いているのは、鉄幹をめぐる2人の女、すなはち鳳晶子と山川登美子の恋愛もので、これを登美子サイドから書いてみょうと思っています。彼女については、かなり調べたので後は、作詞して曲をつければ良いのですが、さて歌手を誰にするか、が問題です。

恋争いで晶子に破れはするが、彼に対する思いは決して負けるものじゃないと言うところを強調して書くつもりです。人間の真実なんて誰にもわかったもんじゃない。ただ調べるほどに彼女が気の毒な運命にあったような気がします。

僕は彼女の実家のある福井県小浜まで車で行ってきました。1人の人間の命が掛かっている作品だけにふさわしい作品を作らなければと、はりきっています。

登美子に限らず、恋愛は成就したほうの数が圧倒的に少なく、人は切なく、苦い思いを経験させられる方が多いようです。何故なら人生は自分の思うようにならない運命みたいなものがあるからです。

だから登美子のことを書いても実は大多数の庶民感情をすくい上げてると考えています。どんなものが出来るか楽しみです。

人生の様相は人様ざまです。しかしなべて人生は思うようにならない上に孤独です。これは当たり前の話しですが、気持ちとしてそう思いたくありません。

ああー貴方は今も  私を愛している
誰よりも誰よりも  私を愛している
私を愛している

これがサビの部分で 絶叫調で書くつもりです。人生って思うようにはならず、哀しいものですね。20代後半でこの世を去った山川登美子に比べて、僕は彼女の二倍半は生きてきて、そう思います。罰当たりかも知れませんがね。

淫行も均等で

2008年04月30日 | Weblog
淫行も均等で


 二五歳の女性が一八歳の少年に、性的交渉を迫り、その少年を追いかけ回して、警察に捕まり送検されたと言う世間の常識とはまるで反対の事件が起こった。蛙が蛇を飲み込んだ類いで面白い。
時として人間社会では面白い事が起こる。

 私は何故こんなことが起こるのか、神様にお願いかたがた、聞いてみることにした。

「神様。女が男を追いかけ回して、性交渉を強要するという、面白い事件が起こりました。神様が人間に授けなさった性エネルギーの発現形態は違っているから、男は能動的で、女は受け身だとばかり思って参りました。
が、これをみる限り、男女平等です。
神様。よくぞ、このことを今度の事件でお示しくださいました。何でも平等平等と言う御時世、それも結構でございます。
 
そして願わくは、たとえ十年間だけでも、結構でございます。性エネルギーの発現形態を逆にひっくりかえして、つまり、女が能動、男が受動と言う形にはしてもらえますまいか。
そうすると世の中の有り様が、様変わりするのではないかと思います。

 我々男には手出しができると言う特権がありますが、時としてそれは手負い傷となって、心はうずきます。
 能動的に、積極的にモーションをかけると言うのも、気分の良いことばかりではありません。特に小生の様な、この面にかけてはドジな男は、自分で手だしするよりも、むしろ先方から、モーションを掛けられる方が気が楽です。
気にいればうけりゃいいし、気に入らなきゃ
ノーサインをだせば良いと言うのは気楽なもんですぜ。 それに自分のモテ具合が分かるのも、自分自身を客観的に眺め、評価する上で、必要な事だと思います。
それよりも神さん。なんでっせ。

現代の社会は男と女の現状に合わせて、何事もフィックスされているから、逆の行動パターンになると、いろんなところで、チグハグがでて来て面白いじゃないですか。
 ええ?何ですか?。お前は暇人じゃと。
仰せの通りです。
齢も五十を越えると、普通ならば第一線を退かなきゃならん年代。
どちらを向いても、楽しい事などありゃしませんよ。金をかけた子供は巣立つわ、住宅ローンの支払いはまだ残っているわ、それにくわえて、自分たちの老後の人生に向けて、なにがしかの準備をせにゃならんわ、それはそれは、ほとほと疲れます。
 その上、心ときめく様な事が、日常生活の上に起こってくるかと言えばそんな事一つもおこりっこない。
 せめて世の中をひっくりかえしてみて、何か面白いものはないかと探すぐらいがオチです。

 立場が逆になると言うのは、逆転の発想にもなり、新鮮な気分にもなること必定。中々面白いとはおもいませんか。

 神様は私と違って、この位のことをするのは、朝飯前の筈。
一度いたずらにやってみられたら如何です。