賽銭目当て
アンコールワットでもバイヨンでもそうだった。回廊や祠で仏像の守をしている人達、尼僧がおおかったが、近づくと拝めという。
それは信仰心からというよりは賽銭目当てであろうと思われた。線香を供えたら仏教徒の日本人のこと、なにがしかのお賽銭をあげるのは常識だ。
僕は思う。理由が何であれこの堂守の尼僧も明日に命をつなががなくてはならないから必要なのだ。賽銭は正当な生活費だ。
篤く三宝を敬えと言う教えがあるが、その中の三宝の一つ、僧については納得しかねることがある。
我われの僧への期待やイメージが強すぎるのか、平安の昔から、僧に対しては表面は敬意を表すが、心の底では坊主とさげすんでいる節がある。僧は確かに聖職者であり、尊敬を受ける立ち場に居る人間で、それにふさわしい振る舞い を要求されてはいるが、僧とて人間飯を食わねばやっていけない。
つまり聖職的立場にいながら、どろくさい飯の種を考えて生きていかなければならない。この面を取り上げると僧も俗人も営みは同じである。しかし僧は俗人とはイメージが違う。そのずれが坊主という侮蔑的な言葉が使われることになるのだが、僧とて人間。いくらでも間違ったことをする。
僧も人間だと認めるところから始めなくてはならない。
アンコールワットでもバイヨンでもそうだった。回廊や祠で仏像の守をしている人達、尼僧がおおかったが、近づくと拝めという。
それは信仰心からというよりは賽銭目当てであろうと思われた。線香を供えたら仏教徒の日本人のこと、なにがしかのお賽銭をあげるのは常識だ。
僕は思う。理由が何であれこの堂守の尼僧も明日に命をつなががなくてはならないから必要なのだ。賽銭は正当な生活費だ。
篤く三宝を敬えと言う教えがあるが、その中の三宝の一つ、僧については納得しかねることがある。
我われの僧への期待やイメージが強すぎるのか、平安の昔から、僧に対しては表面は敬意を表すが、心の底では坊主とさげすんでいる節がある。僧は確かに聖職者であり、尊敬を受ける立ち場に居る人間で、それにふさわしい振る舞い を要求されてはいるが、僧とて人間飯を食わねばやっていけない。
つまり聖職的立場にいながら、どろくさい飯の種を考えて生きていかなければならない。この面を取り上げると僧も俗人も営みは同じである。しかし僧は俗人とはイメージが違う。そのずれが坊主という侮蔑的な言葉が使われることになるのだが、僧とて人間。いくらでも間違ったことをする。
僧も人間だと認めるところから始めなくてはならない。