日々雑感

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日本律宗の開祖 鑑真大和上

2012年06月27日 | Weblog

、日本律宗の開祖 鑑真大和上

6月6日は鑑真和上の祥月命日である。律宗の本山唐招提寺に見学兼お詣りに行った。近鉄電車の駅をおりた段階で寺への道は混雑し所々に道案内兼交通整理員がたっていた。この日は日差しがきつく汗をふきふき大勢の人波に混じって見学した。今日は金堂も講堂もすっ飛ばして御影堂に直行したが、入場は順番待ちであった。
仏教で使う戒律という言葉の中身は2つあの意味があり、各自が自分で心に誓うものを「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。奈良時代初期、日本の仏教界にはまだ公の戒律がなく、僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民はどんどん私度僧になっていた。私度僧とは?。 律令制下、定められた官許を受けることなく、形だけ出家した僧尼の“にわか僧侶”たちのことで、仏法を学ぶ姿勢もなく、風紀は乱れまくっており時の朝廷はそれに手を焼いていた。そこで正式に戒を授ける高僧を唐から迎えた。それが鑑真である。
鑑真の授戒によって私度僧は激減した。そういう政治利用を朝廷は考えていたが鑑真その人は正式仏教儀式を取り入れることによって、僧の資格を真正なものにするだけでは無く、仏教本来の僧としてのあり方の模範を示した。
現代においても1200年も前のことながら、多くの日本人から尊師と慕われ尊敬されている。
5度の来日渡海に失敗し、6度目に来日出来た時は失明していたという。こういう苦難を乗り越えて、異国である日本に正しい仏教のあり方を教えんとする度量の大きさや自己犠牲の崇高な精神を偲ぶとき、改めて報恩の意を示さなくては成らないと思った。現在日本では盲目の鑑真像を国宝として唐招提寺の御影堂に祭っている。
1980年に中国の揚州大明寺に里帰りして、中国の聖人の偉大さを大いに知らしめた。このときに東大寺の清水公照師も随伴され、中国仏教界の会長をされていた趙撲初師とのやりとりが文章になっている。
清水公照師は趙先生の歓迎の挨拶の謝辞として「菜の花や、盲目の聖 里帰り」
と詠んでおられる。
名僧”探して苦節10年~栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の日本人僧の功績も称えられるべきだ。それは井上靖の小説 天平の甍 に詳しい。
今でも鑑真の弟子達は唐招提寺から全国へ布教の為に巣立っている。1250年前、こんな聖者が日本にいた。

昔中国には日本に多くのことを教えてくれた聖人が多かった。現代の中国の有り様とは桁違いで、東洋では中国思想が周辺国をリードした。日本でも戦前までは漢文は日本人必須の教養であった。中国は思想面ではあくまで先進国で日本は中華思想にどっぷり浸かっていた。それも鑑真のような聖人の教えを受けた日本人の中国への尊敬の念だったのでは無かろうか。