中央塔から2
昼寝をするだって?お釈迦様だって座って鎮座ましますのに。己は寝ころぶなんて! 厚かましいことを、ようも考えるものだ。そんなことを考えてる暇があるのなら、壁面のデバターの数でも数えてみてはどうだ。
僕はこういう思いに駆られて降りることにした。
ここまで登ってきたが、降りる石段は怖い。階段が急すぎる。登ってくるときは後ろを見ないが、降りるときは前向きにならざるを得ない。僕は一つ一つの石段を、丸で何か捜し物でもしているのかと思われるほど、慎重にゆっくり降りた。どうも危ない気がしたので、途中からは後ろ向きになって降りた。人が見てたらお笑いものだろう。だが転落してけがでもしたら、お笑いものどころではなくなる。こんな時こそ、人は慎重でなくてはならないと自分に言い聞かせながら足を運んだ。
時計を見ると3時を過ぎている。
西正門を入って一直線に通ってきて、この中央塔のてっぺん迄のぼって、降りて正門まで戻るまでには4時間かかった。それで何が分かったかというと、心の中に取り込んだワットの姿をのぞいては、中央塔のてっぺんから回りの様子を見渡して、近郊のアウトラインがつかめた程度である。一番記憶に残ったのは、塔の最上階は眺望がとてもよいという印象である。
360度全開と言うわけにはいかないが、プノン・バケンの石造遺跡もかすかながら、ジャングルの木々の間に見え隠れする。西側から遥か前方で光っているのはきっと西メボンの水面だろう。南側からは僧院が見え、茶黄色の衣まとった僧が一人二人と姿を現して、生活の一端を覗かせていた。中央塔から見ると、石畳の参道を歩く人々の姿は、豆粒のように小さい。それほどまでにこの石造建築物は高さもさることながら、スケールも大きい。西側はまっすぐに延びた石畳がかなり小さく見える。
これだけ大きいスケールの寺院を作るだけの財力とは。今のカンボジアの国力だけでは、到底このような、大きな建造物は作れそうにもない。
アンコール・ワットを作る、当時のカンボジアの支配権が及ぶというところは、
インドシナ半島の大部分だったことだろう。カンボジャは勿論、タイも、ラオスも、ミャンマー、もベトナムもその一部或いは大部分がアンコール王朝の支配権の及ぶところだったのだろう。
「栄枯盛衰世の習い」と言うが、それはひとり人の一生にとどまらず国家の盛衰にも及ぶものなのだとつくづく思った。
時がたてばどんなに栄えた国でも必ず衰退に向かい、その姿を変えるというのは歴史の物語るところである。
そして今を花よと栄えるところはいいが、単に遺跡だけしか残っていないというのは哀れを誘う。今僕が見ている此の壮大な石造建築物は国際協力で修理や補修を加えて、保存がなされているが、当初完成したときの壮麗さは、いかばかりかと思うと胸の詰まる想いがする。
どのようにイメージを描くのも、それは個人の自由だが、各人が描くイメージはバラエテイに富みすぎはしないか。というのはここがけた外れに大きいからである。どこかで往時の姿の一部を忠実に再現して、後は各人がご自由に、というプレゼンスがほしかった。
暑かった熱帯の真昼の太陽も、夕方近くになると光が弱くなり、その分吹く風は涼しく気持ちがいい。
もうしばらくすると、太陽は沈む。その時アンコール・ワットはどんな姿を見せてくれるのだろうか。そして漆黒の闇に包まれたときのシルエットは。
いや朝まだき、東の空がぼーっと薄赤く染まるとき、この寺はどんな姿を見せ、どんな雰囲気を辺りに醸し出すのだろうか。
興味はつきなかったが、いかんせん疲れた。これらのことはまた後日と言うことにして、今日はこれまでにしよう。
僕はあんちゃん(兄ちゃん)が運転するバイクの後ろの座席にまたがって、定宿に向かった。
その日は薄曇りで、太陽は直接ささないが、かなり熱く、すぐ汗ばんでしまう。
境内では牛がゆっくり草をはんでいるし、農夫は草を刈っている。午前11時アンコールワットの1番高い中央塔の上に登った。そこでメモを取る。
確かに建築美という観点から眺めてみると、間違いなく壮大な造形芸術である。
しかしこの建築の中身に盛られたものは何であろうかというと、それは宗教である。ヒンズー教であり、仏教である。
アンコール・ワット寺院がつくられるために使われた、ばく大な石(それは紛れもなく財力なのだが)を見ながら、創建当時の姿に思いをはせた。
僕は今1000年余り昔の石畳の上に立ち、そのぬくもりを感じながら、地面に生えてた、青々とした草を眺めている。
あまりにも風が気持ちいいので、直接肌に風を受けたくなって、シャツを抜いだ。
風のそよぎ、自然の恵みを感じながら、長袖を着ているなんて、もったいないじゃないか。
アンコール・ワットに吹くさわやかな風を、体中て受け止めないとアンコール・ワットは味わえないとさえ思った。これはアンコール・ワットが僕にくれたプレゼントだ。