ツールスレン
フランスから解放された後の、カンボジャの国情や歴史などの知識は、頭の中に小指のかけらほども無かった僕は、当然の事ながら、カンボジャの首都・プノンペン市内で、これほどまでの残虐な虐殺が行われていた事実を知らなかったし、また想像さえもしなかった。
インドシナ半島でも、カンボジャはベトナムとタイに挟まれた小さい国で、目が届かないと言うのか、それとも関心がないというのか、カンボジャといえばアンコールワットくらいしか、しらなかった。
ところがアンコールワットを訪ねるべくバンコクを飛び立った僕は、プノンペンに到着するやいなや、恐るべき事実を知ったのである。ポルポト時代に300万人(最近のアメリカの調査では推定170万人)もの人々虐殺されたというニュースを現地の人から耳にしたのである。
しかもその現場の一部が保存されているという。
僕はとりあえず現場を訪ねることにした。
ツールスレンはもとはリセだった。そこは僕の泊まっている宿から歩いても、30分とはかからない、市内の閑静な住宅街にあった。それが刑務所いや収容所として使われたのである。外見は何の変哲もない静かな高校の校舎であるが、中に脚をいれるにつれて心が凍りだした。サッカーのゴールは絞首台に、大きな水瓶は水攻めの拷問をして殺す拷問器具として使われたのだ。
にわか雨がしょぼしょぼ降り出した。それはあたかも殺された者の悲しみの涙のようであった。僕の頬も涙で曇った。
教室には20年の歳月で、サビの回った鉄製のベッドが置かれ、そばには逃げないように、足を繋いだ鉄の足枷があり、そのすぐ横には拷問器具が、元の姿のまま置かれ、その拷問器具によって虐殺された大勢の人たちの、実際の姿を写した写真がはられていた。
何でも、インテリは字が読めると言うだけで、虐殺されたと言うのである。僕は心のなかでそんな馬鹿な、と何回も叫んだが、思いをはるかに越えて、現実は現実である。
校庭は夏草の緑が目にしみる。静かで、のどかである。だが、
1歩校舎の中に入ると、地獄絵そのものである。これが500年以上も前の出来事で有ればまだしも、ほんの2・30年ほど前の出来事である。僕はアウシュッビッツの強制収容所を解放したときに、ここを訪れたアイゼンハワー将軍の写真を思い出した。こんなことが起こるのなら、例え国内問題の内戦といえども、世界人類の名において、人類を救うために世界警察は不可欠だ、警察がいないと、悪い奴はやりたい放題をする。正義も人権もあったもんではない。
いまこの場で僕はなにをすることができるのだ、と自問したが頭が混乱して、何も浮かんでこない。僕はだらだらとそこへ、へたりこんで、ただ、祈る事しかできなかった。
悪魔や悪鬼はこの世にいる。それは人類が続く限り、常に人類の側にいる。そして常に人類に危害を加えようと画策している。こいつらを退治しなくては。これからは世界の英知を絞って、これらの悪どもと常に戦って、人類の平和や幸福を守らなくては。
この悲劇の現場に立って僕は心からそう思った。
大した目的もナシにふらふらと海外旅行を続けているが、それなりに成果はあるものだ。
あんな悲しくて、くらい所を見て何になるかという意見もあるが、僕にとってはこのツールスレンが、プノンペン観光の何処よりも、何よりも、強烈な印象を与えてくれた所だった。
悲劇の歴史の現実から目をそらしたい。それも分る。しかし現実の歴史を直視して、そこから何かの事を学んでほしいと言うのが僕の願いだ。正義であれ、不正義であれ、歴史は時間の経過ごとの事実を物語っている。その事実には目を背けてほしくないのだ。特に多くの犠牲を払い、多くの惨劇を乗り越えて在る「いま」を人類の未来に向かって、幸福と安寧を築く礎にしてほしいのだ。さもないと
犠牲者の霊は浮かばれまい。僕は強くそう思った。
美しい景色を見るのも良い。おいしくて、珍しい異国の料理に舌鼓を打つのも良い、この国の人と親しく交わるのも良い。
しかし再びこのような惨劇はなくさなければならない。それが人間の英知というものである。そのことをここ惨劇の現場・ツールスレンで頭の中にたたき込んだだけでも、プノンペンの旅はおつりが来る。