日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

京都御苑

2014年06月25日 | Weblog
京都御苑

子供のころは蝉をとったり、トンボをとったり、魚を釣ったりすることに夢中だった。
だが75歳を超えた今は、子供のころ、あれほど夢中になったことに、全く興味がない。命のあるものを、殺さないというようになったのは、良いことではあるが、自分の関心なりエネルギーなりが、それだけ減退したような気がして、寂しい想いだ。
バリバリに生きている限り、あらゆる方面に関心を持ち、エネルギーを発散することの方が人間として魅力を感じる。

文章で自分の思いをつづることは、多くの人にできることである。
だが心の中の思いを曲で表すとなると、だれにでもできるというわけにはいかない。幸いなことにぼくには、こういう才能が天から授けられた。
にもかかわらず、僕は曲作りに夢中になれない。これは非常に寂しいことである。僕自身の体の中に、染み込んだ人生体験や、あこがれの世界を表すとき、そこには必ず抒情があり、ロマンがあり、気品がある。それらは僕のプライドである。翻って、こういう曲を作れる人が、日本に何人いるであろうか。おそらく数は多くないはずだ。ここに僕の存在価値がある。このことは決して忘れてはいけない。
ところが現実には、僕は今作曲の筆を折っている。やってできないことでは決してないが、やる気が起こらないのである。これは神に対する反逆かもしれない。
作曲をやめることによって、ぼくは自分の人生を支えている大きなものをを失うだろう。男として、自分の人生の夢であった作家曲として、世に出て名前を知られることはなかったが、もし仮に自分の人生に、作曲する才能というものを失ったとしたら、どれほどわびしい人生になったことだろうか。

平安時代や鎌倉時代の人々の平均寿命は、多分40歳くらいだろう。それにくらべて、現代は人生80年の時代である。つまり物理的時間は平安・鎌倉の2倍の時間を、この世で過ごすということになる。だから人生の味が分かったかというと必ずしもそうではない。
何故か。それは漫然と生きているからである。凝縮されない時間は何倍に生きても、人生の味はわかるまい。昔の人に比べ、2倍楽しめるような人生を過ごさないと、人生40年の時代に生きた人たちとは、何も変わらないということになる。

京都盆地の夏は暑い。今日は梅雨が過ぎて7月に入っている。夏真っ盛りである。天気予報では37度ということであったが、真夏の空は雲一点なく、青く澄み切っている。大地に注ぐ大陽はがんがん熱を送り込む。芝生の緑もこの暑さのために、少し萎えているようだ。ひと雨欲しいところだろう。まだ午前10時だというのに、少し歩けば玉の汗が出る。僕は大きな木の木陰をわたり歩いた。ところがこの焼けるような大陽を、裸に受けてベンチで寝ている人がいる。この世の中には気の狂いそうなことを、平気でやる人もいるもんだ。
京都御所の回りを塀に沿って歩いてみた。塀の外側は玉砂利の道になっており、塀の横の縁石の上を歩いた。塀の高さは5メートルもあろうか、この内側で凡庸な人間が、時の政治を担っていた。神ならぬ人間のやることであるから、ここで決められたことでも、多くの人々を困らせることだって、たくさんあったことだろう。
時代が下って今は、一人の権力者の為に皆が奉仕するという図式は無くなった。
神が平等にあたえた各人の命が、それなりに尊重されるような時代になってきたのだ。当然の事だが、ここ迄来るのにどのくらいの時間がかかっているか。今の時代から考えると、当たり前のことだが、当たり前になるまでには、時間と犠牲が必要であった。これを時の流れ、時代の流れ、歴史と呼ぶのかもしれない。それにしても、今から考えると歴史はむごい。