日々雑感

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三木屋にて6-57

2014年06月08日 | Weblog
                    
三木屋にて
 
 志賀直哉の「城崎にて」は何回も読んだ。もの静かで落ち着いた文章だが、生きることと、死ぬこと、いわゆる命という根本問題を扱っているところが好きだ。
湯治場になる城崎の情景が細かく描写され、50年以上も昔に読んだ作品だのに、城崎に来るときは、今でも鞄に入れて持ってくる。
小説の神様といわれるぐらいの名文を書く人の作品だから、何回も何回も繰り返して読み、作品の書き写しをすることによって、だいぶ勉強をさせてもらった。
彼は三木屋に逗留して、作品を書いたと、何かで読んだ記憶がある。今日は、その三木屋の前を通ったので、外からつくづく眺めた。文豪はこの旅館に滞在して、あの作品を書き上げたのか、と思うと、何か特別のものを感じた。胸がじーんとなる。
「城崎にて」は山手電車にはねられたが、一命をとりとめて、そのリハビリを目的に、この城崎という湯治場にきて、ネズミの死、ハチの死、己の死を重ね合わせながら、話は展開される。
それに、この町の雰囲気を漂わせながら、死という共通の概念が、別々にあるのではなくて、どこかでつながっているように思えたのは、作品がもつ力がなせる業だろう。

ところで、今回、こんな豪華な旅館の閑静な部屋で、原稿に向かうのは、観光客には、豪遊と映るかもしれないが、果たして彼の胸の内はどうであっただろうか。ということに気がついた。
観光客は、豪華な食事や立派な調度品や、部屋の造りが醸し出す、一般家庭では味わえない、非日常性の雰囲気を堪能して、贅沢気分を味わい、満足して帰って行くのに対し、同じ三木屋に滞在しても、作家にとっては作業場である。
周囲の雰囲気が、いかなるものであろうとも、彼は己と戦いながらその筆先によって、作品をつくりださなければならない宿命を負っている。そしてその作業には辛さが伴う。
創作者の滞在は、観光客が観光のために滞在するのとは、訳が違うと思った。観光客は、雰囲気を味わいさえすれば、そして、気分転換ができれば、素通りでも、満足するだろう。そしてそれで目的は達成されるのだが、言い換えれば完結するのだが、作家はどんなに胃が痛くなるような思いをしても、ここで何かをつくりださなければならないという荷物を背負っている。
彼にとっては、作品づくりは決して避けて通れないものである。城崎の同じ旅館に同じように、滞在しても、一般人とは、その心境において、天と地ほどの違いがある。
それに、労作は称賛に値するかどうか。それが必ずしも世間受けして、評判の良い作品になるとは限らないし、保証の限りではない。
もちろん作家は、自分の作品に絶対の自信を持つだろうが、その作品に対する評価や評判は、別のところで行われる。
人間の営みって、複雑かつ難解なものがあるものだ
な。
僕は複雑な心境で、三木屋の前を立ち去った。