従軍慰安婦
従軍慰安婦についての記述を、中学の教科書に載せるか、載せないかの議論があちこちで、まきおこっている。
50年の時を経て、未だにこんなことが論争されるのは、人間がその立場によって、どれほどこだわるものか示していると同時に、特に被害者が受けた心の傷は、その世代が消えてなくなるまで、此の世では決していやされることはないのだ。
そういう現実をふまえた上で、両者に深く思いをいたして、自分なりの意見を言わなければならないとつくづく思う。
130年以上も昔のことになるが、幕末に行われた会津戦争、つまり戊辰の役では、未だに怨念が溶けていないということが報じられた。官軍の長州と、旧幕府軍の会津藩は、未だに不倶戴天の気風が、濃厚に残っているというのである。会津人は白虎隊の悲劇はもちろんのこと、城の落城、娘子軍の自刃など数々の惨劇をなめた。
会津若松市でとったアンケートによると、回答者の3分の1が恨みを持ち、こだわると、こたえたという。もっとも、半分の人はいつまでもこだわったもしょうがないと答えたらしいが、中でも特に高齢者つまり、惨劇に近い年代の人ほど、こだわりがきついという。ある意味では、もっともなことであろう。長州、山口県萩市の市長が和解に向けて、会津若松市長と懇談をしたが、2人はついに、握手せずじまだったという。
同国人においてさへ、しかも130年の時を経て、此の有り様である。
ましてや異国人で、共通の理解も乏しく、しかも実際に被害に遭った人が、未だに生きている、という現実からして見ると、戦争被害についてのわだかまりは、怨念となって渦をまいていて、簡単には氷解するとは思えない。その怨念のはけ口が、個人被害の補償を求めるという形になっている。これも至極当然のことである。従軍慰安婦問題もこのような状態に根ざしている。
これに対して、日本の保守主義者は、従軍慰安婦の記述を教科書に残すと、我々の先輩が犬死にしたことになるし、加えて、悪いイメージを与えてしまうことになると言う。
突き詰めて考えると、両者の言い分は、ともに戦争被害者の言い分である。加害者も被害者も、戦争犠牲者なのである。
国力を上げて、殺し合いをするのが戦争だから、平和なときには考えられないような、残虐なことが起こっても、何等不思議はないし、それこそ想像を絶する、凄惨なことや、残虐なことが、もっとたくさんあったのではないか。
時の闇という、陰に隠れてしまっているが、悪逆の限りを尽くした部分が、どこかにあった筈であると、私は想像する。
歴史をひもといて見るとき、必ずしも正義に支配された訳でもなく、
その時代時代の風の吹き回しに、翻弄されて歩んできたのが人間の歴史である。しかも傷跡が当代だけでなく、次の世代にも影響を残しながら。
従軍慰安婦だけが、犠牲者ではない。教科書に載せることで解決はしない。対立する意見が、新たな争い生む可能性だってある。
困ったことだ。
従軍慰安婦についての記述を、中学の教科書に載せるか、載せないかの議論があちこちで、まきおこっている。
50年の時を経て、未だにこんなことが論争されるのは、人間がその立場によって、どれほどこだわるものか示していると同時に、特に被害者が受けた心の傷は、その世代が消えてなくなるまで、此の世では決していやされることはないのだ。
そういう現実をふまえた上で、両者に深く思いをいたして、自分なりの意見を言わなければならないとつくづく思う。
130年以上も昔のことになるが、幕末に行われた会津戦争、つまり戊辰の役では、未だに怨念が溶けていないということが報じられた。官軍の長州と、旧幕府軍の会津藩は、未だに不倶戴天の気風が、濃厚に残っているというのである。会津人は白虎隊の悲劇はもちろんのこと、城の落城、娘子軍の自刃など数々の惨劇をなめた。
会津若松市でとったアンケートによると、回答者の3分の1が恨みを持ち、こだわると、こたえたという。もっとも、半分の人はいつまでもこだわったもしょうがないと答えたらしいが、中でも特に高齢者つまり、惨劇に近い年代の人ほど、こだわりがきついという。ある意味では、もっともなことであろう。長州、山口県萩市の市長が和解に向けて、会津若松市長と懇談をしたが、2人はついに、握手せずじまだったという。
同国人においてさへ、しかも130年の時を経て、此の有り様である。
ましてや異国人で、共通の理解も乏しく、しかも実際に被害に遭った人が、未だに生きている、という現実からして見ると、戦争被害についてのわだかまりは、怨念となって渦をまいていて、簡単には氷解するとは思えない。その怨念のはけ口が、個人被害の補償を求めるという形になっている。これも至極当然のことである。従軍慰安婦問題もこのような状態に根ざしている。
これに対して、日本の保守主義者は、従軍慰安婦の記述を教科書に残すと、我々の先輩が犬死にしたことになるし、加えて、悪いイメージを与えてしまうことになると言う。
突き詰めて考えると、両者の言い分は、ともに戦争被害者の言い分である。加害者も被害者も、戦争犠牲者なのである。
国力を上げて、殺し合いをするのが戦争だから、平和なときには考えられないような、残虐なことが起こっても、何等不思議はないし、それこそ想像を絶する、凄惨なことや、残虐なことが、もっとたくさんあったのではないか。
時の闇という、陰に隠れてしまっているが、悪逆の限りを尽くした部分が、どこかにあった筈であると、私は想像する。
歴史をひもといて見るとき、必ずしも正義に支配された訳でもなく、
その時代時代の風の吹き回しに、翻弄されて歩んできたのが人間の歴史である。しかも傷跡が当代だけでなく、次の世代にも影響を残しながら。
従軍慰安婦だけが、犠牲者ではない。教科書に載せることで解決はしない。対立する意見が、新たな争い生む可能性だってある。
困ったことだ。