日々雑感

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喜多川歌麿6-12

2014年06月16日 | Weblog
           喜多川歌麿  

 
 歌麿というと、大抵の男はにやりとする。男に限らず女でも、
中身は知らなくても枕絵の作者だということくらいは知っている。
喜多川歌麿、正式には北川歌麿だということだが、詳しいことはよくわからないらしい。
江戸時代・寛政期に出た美人画の大家で「婦女人相十品」や
「ポッピンを吹く女」などが代表作とされている。
1791年頃に大首絵を発表して、女の持つ美しさ、特に顔を画面一杯に描く手法で注目を浴びたが、後に描く対象も、町娘から水茶屋の女に移り、洗練退廃といった特色が強くなっていったと、ものの本には書いてある。
同時代には東洲斎写楽などがいて、役者絵や相撲絵などを発表したが、好事家はべつにして、やはり歌麿の方が庶民に人気があったようだ。200年以上の時を経て鈴木春信や葛飾北斎・安藤広重よりもポユラーなのはなぜだろう。

 先日風俗街をぶらぶらしていたら、ウタマロ 歌麿、のネオンサインがまぶしかった。歌麿は可愛そうに風俗店の看板に成っている。歴史に名を残しながら風俗店の看板だとは、情けないというより可愛いそうだ。彼の作品だったと思うが、いまオリジナルはボストン美術館にあるという。
僕は絵画には詳しくないが、彼の芸術魂だけは理解しているつもりである。
彼は女性の美しさに着目した。いや魅せられたのだろう。どこかの御殿にいる深窓の令嬢から、町屋の娘に、町屋の娘から遊女へと描く対象を移して行ったようである。学者や研究者はそのような移り変わるのを退廃ととらえるが、僕は退廃ととらえる前に人間の実相に着目したい。
確かにこの世は社会的にランクがあって、女は生まれるところによって深窓の令嬢から、水転芸者・遊女までの身分的な色分けをされる。特に江戸時代なんていうのは、封建制が完成されて、より強固に身分の固定化が図られて、社会の安定をはかった時代である。
令嬢に生まれつくも、遊女になるべく生まれつくも、全くの運で本人には責任がない。遊女に成った女はたまたま運が悪く、そういうまずしい家に生まれついただけのことである。だのに世間から差別されて、さげすまれ、まるで人間の屑のように忌み嫌われる。
特に女性からは激しい差別を受けていた。
時代の閉塞性のために、どうもがいてもどうしようもなかっただけのことである。もし彼女らを責めるとすれば、それは的はずれで、時代というものを責めるべきであると僕は思う。
そういう状況の中で彼、喜多川歌麿は薄幸の女性に目を向けた。元来芸術家は表面を描くにしても、その奥に隠れている本質に迫る必要があると僕は考えている。
遊郭の女性、薄幸の女性は確かに社会的にはさげすまれる処に追いやられていたが、年頃の女性に出てくる美しさは遊女にも、町屋の娘にも、大奥にいる令嬢にも共通である。女の美しさは社会階級とは無縁である。
薄幸の女性には陰性の美がただよい、そこには哀愁がある。寂寥感と同時になまめかしさがある。
薄幸な運命の女の命の輝きは、陰性の美を伴っていたことだろう。きっと彼はここに注目したのだと思う。彼女たちの美を最大限に表現しようとしたのではないか。
彼女たちの命に対する暖かい眼差しこそが名作を生む原動力になったのでは無かったか。
 そうだとすれば、彼は芸術家である前にヒューマニストだといってもいい。その暖かさこそが、大衆の心にひびくのだろう。風俗街の歌麿看板はいただけないが、大衆は自分たちも共感を覚えながら時代を超えて歌麿を愛し続けている。
僕は分野は違うけど、芸術性と大衆性を兼ね備えた彼の作風の根本に学ばなくては成らないと思った。僕からみれば、彼はあらまほしき芸術家である。そして僕もそういう志を持った創作家になりたい。 ところで彼は生涯を絵描きとして通したのではなくて、活躍した期間はほんの短かったらしい。すーっと現れて、すーっと消えて、いまだにその詳細は不明であると言う。