キリングフイールド 5-65
喩えは悪いが、 「 百万言より1発の銃弾」、という言葉がある。
平和、平和と、スローガンを唱える前に、まずプノンペン郊外にある、キリングフイールドを訪ねて、万余のドクロのパワーを浴びる方が、どれだけ平和を求める気持ちがわいてくるか。平和希求の願いが、切実になるか。そしてまた、説得力があるか。
世界の平和主義リーダーたちよ。ここを見て、平和への決意を新たにし、さらにこの残虐さが、地上から永遠に追放され、消え失せるように、英知を絞り、行動をすることを通して、人類を平和へと導き給え。
カンボジャの首都、プノンペン市内にある、国立競技場のそばを、
バイクタクシーで通り抜け、しばらく走ると、人通りはまばらになり、田舎道にでた。田舎道は舗装がされてなく、昨日降った雨のために、どろんこにぬかっていた。バイクの後ろ座席に跨り、でこぼこ道を十分ばかり走ると、道の両側に家が有り、家の前には店が出ていた。店といっても小屋に商品が並べてある程度で、都会の店の感覚では、これが店かと思ってしまう。市街を抜けて、村につくのには15分くらいかかった。その間、対向する車もなく走ったから、危険は感じなかった。
T字を左に回り、ものの五分も走らないうちに、門の前についた。それは門というよりは、鉄柵といったほうがふさわしい。鉄の棒を組み合わせてつくった柵の前には、門番兼入場者記録係がいて、僕は窓口に置かれているノートに、自分のことを記帳して2ドル払った。
目の前に有る建物は四方が、ガラス張りになっていて、そのガラスを通して、頭蓋骨がこちらを向いている。
縦横同じくらいの長さ、たぶん7、8m、高さが10mくらいの建物は中が幾層もの棚で分かれていて、各層ごとに髑髏が、四方八方に目をむいている。僕は生まれて初めての経験で、じっと見つめることも、面と向かい合うこともできなかった。それは数が多いからではなく、このようにして、死んでいった同胞(僕の心の中では世界のあらゆる所に住む、いま生きている人を、国が違うということで、線引きはしない)の無念の悲しみの大きさに、身のすくむ想いがしたのである。僕はいまにも落ちそうになる涙を堪えながら、声もなく、後ろ手にして、その御堂をぐるりと回った。
しばらくたたずんでいると、韓国人らしい一団がどやどやと入ってきた。威勢良く入ってきた彼らも、急に言葉を失い、黙って御堂の回りを歩いていたが、そのうちの一人が、机の前においてあった花火のような線香に火をつけて供えた。それを見た僕は、我に返り、同じく線香を供え賽銭箱とおぼしき箱に、500リエル札一枚をこそっといれた。
僕はその場に立ったままで、お経を唱えた。仏教国カンボジャの同胞のために。いや、為に祈ったのではない。祈らないではいられない衝動に駆られて、お経を唱えたのだ。
内戦だから仕方がない、というのは大雑把すぎる。確かに戦争だから、殺しあう事があっても、不思議ではない。しかしそれは戦闘員においての話である。無差別に(ポルポトの場合は知識人と、そうでない人をより分けて、インテリ層を中心に虐殺したという)殺して、どんな正当性を主張できるのか。正確な数字は分からないが、全人口が八百万人とか、九百万人とか言われる中で、百万人単位という数字は、大きすぎる。
しかもそれが知識層中心に殺されたとなると、戦後復興の力は、大きく削がれる事になる。
戦争によって、荒廃した国土を立て直すとき、頭脳が最も必要であるのに、その部分が消えてなくなっているとすると、カンボジャは何を頼りに、元の国力の回復を図るのか、他人事ながら気になった。
世界の歴史をひもといてみるとき、歴史とは戦争の歴史でもある。
戦争の為に、どれほど多くの人が命を失ったことか。
二十一世紀も近くなり、人類はやっとそのことに気づき始めているが、それでも、地域紛争は絶えない。ボスニヤでも、民族対立から、多くの人が犠牲になり死んでいった。アフリカでも事情は同じことで、今なお死と直面した大量の難民が、大きな問題となっている。
そして人々が武器を手にして戦う場合は、必ず犠牲者が出る。人類がこうした蛮行を続けている限り、悲劇は後を絶たない。それぞれに言い分があり、対立する現実は分からないではないが、それを乗り越えないと、弱者はいつも犠牲になる。そんなことを漠然と考えていた。
ところがちょっと待て。今そんな悠長な事を、考えている場合ではない。
僕の足下には、虐殺の犠牲となった人が、着ていたと思われる衣服が、半ば腐りかけて、土からのぞいている。恐らくこの服の下には、遺骨が埋まっているはずだ。つまり僕は墓の上に立っている。犠牲者を上から踏みつけているのだ。踏まないように、どちらかに避けなければならないのだ。こう思ったとき急に抑えがたい憤りに、全身が包まれてしまった。
殺せ。罪のない人を、死に追いやった奴は殺せ。それが人が生きて行く上での、世の中のルールである。罪のない人を殺したものが、責任を問われる事なく、のうのうと生きている社会は、無法社会である。無法社会には、正義もなければ、人権もない。それは人類が、営々と積み重ねて来た血の滴る努力、人類が目指して来た方向に逆行する。
歴史の針を、逆に進める事、それは人類の進歩に対する挑戦である。
殺せ。この地上から抹殺する以外には、放置できない。そしてそれが、恨みを呑んで死んで行った人の恨みを晴らす方法の1つでもある。異民族ならまだしも、よくもまあ同国人を、何百万人も殺したものだ。
後で知ったことだが、アメリカのある調査では、170万人前後だろうと言われている。
僕は全身がかたくなり、心臓がドキドキ早打ちしているのに気づいた。
そして覗いている犠牲者の衣服を避けながら、そこへ、へたりこんでお経を唱えた。
今の僕は何が出来る訳でもない。あなた達の無念を晴らす事も出来なければ、身に覚えのないことで、命を失った不条理にたいして、何をしてあげられる事も出来ないが、ただ一つ祈ることだけは出来る。罪もないのに、地獄の苦しみを味わった、あなた達の魂の苦しみを、解き放つ事を、神や仏に祈り、そのお力で魂を極楽へ誘ってもらうことによって、どうか安らかに眠り給え、僕は心のなかでそう叫んだ。
カンボジャ。それは日本からは、遥かかなたの遠い国である。距離もさることながら、日本人にとっては、関心のない国である。歴史的にも、たいしたつながりも無ければ、現在経済交流が盛んな訳でもない。
なじみの薄いのも当たり前だ。日本人に知名度が有るのは、アンコールワットの遺跡くらいのものである。
しかしだ。いまキリングフイールドの現場に立ってみて、僕が思うには、
1996年7月に、この地上に生きているかどうか、それが問題なのであって、国の別は問題では無い。
カンボジャ人であろうと、日本人であろうと、皆同胞なのである。そう思うから余計に、心に引っ掛かってくる。僕はこの地上に存在する命は共生、とも生きで無くてはならぬという哲学を持っている。そしてこの哲学は、神が人間に与えた最大の崇高な哲学だ、と確信しているので、神の御意に反した事をした人間は、この地上では、生存は許されないと思う。そういう観点から、この虐殺は許すことが出来ないのである。
先程から振り出した雨は、小雨から本降りに変わった。御堂で雨宿りしながら、僕はカンボジャの国土復興よりは、犠牲になった人々に心奪われていた。というよりは、ここにある、しゃれこうべから放たれるパワーに圧倒されていた。二度と有ってはならないことだ。僕は何回も何回も呪文のようにそう唱えた。
アジアを方々回ってみて、それなりに得たものは多かったが、このような場面に、遭遇する事は無かった。のどかな風景の田舎、活気あふれる都市を見て歩くのもよい。しかしこの場所のように、人類の悲惨な現場を直視する旅は、歴史や人間を考えるという点では、自分を肥やすためには、よいのでは無かろうか。僕は心底そう思った。
こうして旅は終わったが、僕の心にはいつも、キリングフイールドが横たわっている。それを引きずって、カンボジャの旅は晴れることのない旅だった。
喩えは悪いが、 「 百万言より1発の銃弾」、という言葉がある。
平和、平和と、スローガンを唱える前に、まずプノンペン郊外にある、キリングフイールドを訪ねて、万余のドクロのパワーを浴びる方が、どれだけ平和を求める気持ちがわいてくるか。平和希求の願いが、切実になるか。そしてまた、説得力があるか。
世界の平和主義リーダーたちよ。ここを見て、平和への決意を新たにし、さらにこの残虐さが、地上から永遠に追放され、消え失せるように、英知を絞り、行動をすることを通して、人類を平和へと導き給え。
カンボジャの首都、プノンペン市内にある、国立競技場のそばを、
バイクタクシーで通り抜け、しばらく走ると、人通りはまばらになり、田舎道にでた。田舎道は舗装がされてなく、昨日降った雨のために、どろんこにぬかっていた。バイクの後ろ座席に跨り、でこぼこ道を十分ばかり走ると、道の両側に家が有り、家の前には店が出ていた。店といっても小屋に商品が並べてある程度で、都会の店の感覚では、これが店かと思ってしまう。市街を抜けて、村につくのには15分くらいかかった。その間、対向する車もなく走ったから、危険は感じなかった。
T字を左に回り、ものの五分も走らないうちに、門の前についた。それは門というよりは、鉄柵といったほうがふさわしい。鉄の棒を組み合わせてつくった柵の前には、門番兼入場者記録係がいて、僕は窓口に置かれているノートに、自分のことを記帳して2ドル払った。
目の前に有る建物は四方が、ガラス張りになっていて、そのガラスを通して、頭蓋骨がこちらを向いている。
縦横同じくらいの長さ、たぶん7、8m、高さが10mくらいの建物は中が幾層もの棚で分かれていて、各層ごとに髑髏が、四方八方に目をむいている。僕は生まれて初めての経験で、じっと見つめることも、面と向かい合うこともできなかった。それは数が多いからではなく、このようにして、死んでいった同胞(僕の心の中では世界のあらゆる所に住む、いま生きている人を、国が違うということで、線引きはしない)の無念の悲しみの大きさに、身のすくむ想いがしたのである。僕はいまにも落ちそうになる涙を堪えながら、声もなく、後ろ手にして、その御堂をぐるりと回った。
しばらくたたずんでいると、韓国人らしい一団がどやどやと入ってきた。威勢良く入ってきた彼らも、急に言葉を失い、黙って御堂の回りを歩いていたが、そのうちの一人が、机の前においてあった花火のような線香に火をつけて供えた。それを見た僕は、我に返り、同じく線香を供え賽銭箱とおぼしき箱に、500リエル札一枚をこそっといれた。
僕はその場に立ったままで、お経を唱えた。仏教国カンボジャの同胞のために。いや、為に祈ったのではない。祈らないではいられない衝動に駆られて、お経を唱えたのだ。
内戦だから仕方がない、というのは大雑把すぎる。確かに戦争だから、殺しあう事があっても、不思議ではない。しかしそれは戦闘員においての話である。無差別に(ポルポトの場合は知識人と、そうでない人をより分けて、インテリ層を中心に虐殺したという)殺して、どんな正当性を主張できるのか。正確な数字は分からないが、全人口が八百万人とか、九百万人とか言われる中で、百万人単位という数字は、大きすぎる。
しかもそれが知識層中心に殺されたとなると、戦後復興の力は、大きく削がれる事になる。
戦争によって、荒廃した国土を立て直すとき、頭脳が最も必要であるのに、その部分が消えてなくなっているとすると、カンボジャは何を頼りに、元の国力の回復を図るのか、他人事ながら気になった。
世界の歴史をひもといてみるとき、歴史とは戦争の歴史でもある。
戦争の為に、どれほど多くの人が命を失ったことか。
二十一世紀も近くなり、人類はやっとそのことに気づき始めているが、それでも、地域紛争は絶えない。ボスニヤでも、民族対立から、多くの人が犠牲になり死んでいった。アフリカでも事情は同じことで、今なお死と直面した大量の難民が、大きな問題となっている。
そして人々が武器を手にして戦う場合は、必ず犠牲者が出る。人類がこうした蛮行を続けている限り、悲劇は後を絶たない。それぞれに言い分があり、対立する現実は分からないではないが、それを乗り越えないと、弱者はいつも犠牲になる。そんなことを漠然と考えていた。
ところがちょっと待て。今そんな悠長な事を、考えている場合ではない。
僕の足下には、虐殺の犠牲となった人が、着ていたと思われる衣服が、半ば腐りかけて、土からのぞいている。恐らくこの服の下には、遺骨が埋まっているはずだ。つまり僕は墓の上に立っている。犠牲者を上から踏みつけているのだ。踏まないように、どちらかに避けなければならないのだ。こう思ったとき急に抑えがたい憤りに、全身が包まれてしまった。
殺せ。罪のない人を、死に追いやった奴は殺せ。それが人が生きて行く上での、世の中のルールである。罪のない人を殺したものが、責任を問われる事なく、のうのうと生きている社会は、無法社会である。無法社会には、正義もなければ、人権もない。それは人類が、営々と積み重ねて来た血の滴る努力、人類が目指して来た方向に逆行する。
歴史の針を、逆に進める事、それは人類の進歩に対する挑戦である。
殺せ。この地上から抹殺する以外には、放置できない。そしてそれが、恨みを呑んで死んで行った人の恨みを晴らす方法の1つでもある。異民族ならまだしも、よくもまあ同国人を、何百万人も殺したものだ。
後で知ったことだが、アメリカのある調査では、170万人前後だろうと言われている。
僕は全身がかたくなり、心臓がドキドキ早打ちしているのに気づいた。
そして覗いている犠牲者の衣服を避けながら、そこへ、へたりこんでお経を唱えた。
今の僕は何が出来る訳でもない。あなた達の無念を晴らす事も出来なければ、身に覚えのないことで、命を失った不条理にたいして、何をしてあげられる事も出来ないが、ただ一つ祈ることだけは出来る。罪もないのに、地獄の苦しみを味わった、あなた達の魂の苦しみを、解き放つ事を、神や仏に祈り、そのお力で魂を極楽へ誘ってもらうことによって、どうか安らかに眠り給え、僕は心のなかでそう叫んだ。
カンボジャ。それは日本からは、遥かかなたの遠い国である。距離もさることながら、日本人にとっては、関心のない国である。歴史的にも、たいしたつながりも無ければ、現在経済交流が盛んな訳でもない。
なじみの薄いのも当たり前だ。日本人に知名度が有るのは、アンコールワットの遺跡くらいのものである。
しかしだ。いまキリングフイールドの現場に立ってみて、僕が思うには、
1996年7月に、この地上に生きているかどうか、それが問題なのであって、国の別は問題では無い。
カンボジャ人であろうと、日本人であろうと、皆同胞なのである。そう思うから余計に、心に引っ掛かってくる。僕はこの地上に存在する命は共生、とも生きで無くてはならぬという哲学を持っている。そしてこの哲学は、神が人間に与えた最大の崇高な哲学だ、と確信しているので、神の御意に反した事をした人間は、この地上では、生存は許されないと思う。そういう観点から、この虐殺は許すことが出来ないのである。
先程から振り出した雨は、小雨から本降りに変わった。御堂で雨宿りしながら、僕はカンボジャの国土復興よりは、犠牲になった人々に心奪われていた。というよりは、ここにある、しゃれこうべから放たれるパワーに圧倒されていた。二度と有ってはならないことだ。僕は何回も何回も呪文のようにそう唱えた。
アジアを方々回ってみて、それなりに得たものは多かったが、このような場面に、遭遇する事は無かった。のどかな風景の田舎、活気あふれる都市を見て歩くのもよい。しかしこの場所のように、人類の悲惨な現場を直視する旅は、歴史や人間を考えるという点では、自分を肥やすためには、よいのでは無かろうか。僕は心底そう思った。
こうして旅は終わったが、僕の心にはいつも、キリングフイールドが横たわっている。それを引きずって、カンボジャの旅は晴れることのない旅だった。