日々雑感

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マハラジャの現状5-56

2014年06月09日 | Weblog

マハラジャの現状

イギリスがインドを植民地化するまで、インドは各地に蕃王、すなわち、マハラジャが割拠していた。イギリスが植民地にするときは、これらのマハラジャを、上手く利用して支配したし、またマハラジャは同盟を組んで、自分たちの権益を守っていたようである。
日本で言えば、明治維新で滅んでしまった大名制みたいなものに、なぞらえて理解すればわかりやすい。
確かに1つの国家として、中央とは別に独立の政権があるのは、統一国家とは言わない。
が、中央集権の中央政府が出来るまでには、ある時期、どうしても大名の出現と、その役割には歴史的必然性があったように思う。
その功罪は別にして、歴史的にはそれなりの役割を果たして、姿を消した制度であると僕は理解している。
 
西洋文明の影響を受けて、近代的な中央集権国家を確立出来ない国家は、此の蕃王支配に終止符を打つのが遅れた。インドの場合は、第二次世界大戦が終わってから、1947年に独立国家として発足するまで続いたのである。

今夜放送されたNHKの番組は、そのマハラジャの現代の姿を追っていた。
「マハラジャのその後」それがテーマであった。二つの典型的な例を挙げていた。
1つは時勢に合わせて、何とか生き延びようとするジャイサメールのマラハジャの末裔の生き方、もう一つはかたくな迄に、マハラジャの権威を守ろうとして、世間や時代から孤立して、生きているアワード家の生き方である。

時代に合わせて生きようとする末裔はその昔、広大な城を築き、その中で2000人が生活していたらしい城の王様であった。
 蕃王制度が崩れて、他人に寄生して生きることが出来なくなった末裔は、城を観光の目玉として、世界中から客を集めようとしていた。
そのために城郭のなかの一部を改造して、ホテルを作っていたし、すばらしい料理も用意していた。確かに観光資源として利用しようとする意図は納得できるし、昔日のような勢いは無いかも知れないが、成功すれば、マハラジャの影響を行使できるようになるかも知れない。マハラジャのかっての支配を蘇らせることによって、その地域の人々の生活を豊かにして、住民に貢献すると言う魂胆なら、それは時代にマッチしていると思うが、それを単にマハラジャの夢の再来を願ってと言うなら、現代から見ると、これを前向きと言うには、ほど遠く、アナクロとしか言いようがない。
 勿論時代が昔のマハラジャ形態を許すはづもなく、必然的に地域住民の経済発展と言うことに、ポイントが置かれることになるだろう。

 それに比べてアワード家は最後の最後まで、マハラジャのプライドを捨てないで、それに殉じようとして、生活を送ってきた。時勢に着いていけないで、取り残されて誰からも相手にされず、滅びの美学を満喫してはいるのだが、なんて馬鹿な人の集まりだろうと腹立たしい思いがした。
 第一、神が平等にあたえ賜うた自然の富を、歴史的必然性とはいうものの、蕃王制度の中に取り込んで、それを正義と考えるところに無理がある。時代はそれを許していないのであるし、誰もそれを支持しようとは思ってもいないことだから、孤立無援は必定である。民衆も何が望ましい政治形態かを考え始めている現代では、
どこから見ても、ずれがあり、その分受け入れられなくて苦しむのは、仕方のないことである。
時代から取り残されたというのか、時代になじめなかったというものなのか、いろいろ見方があるだろうが、そんな考えをしていては、生活も不自由なはずである。それは事実がそのまま物語っている。

 荒れ果てた中世の古城跡のようなところで、雨露はしのいでいるものの、まともな家具も食器もなく、彼らが持つプライドとは裏腹に、みすぼらしく、凋落の一途をたどる哀れな人間の姿を、見ていて気の毒にさえ思えた。ただこういう事情を十分承知した上で、我が道を行く此の末裔には敬服もした。
 昔地球に大きな隕石が落ちてきて、地球環境が激変し、大型動物は絶滅したという歴史を知っているが、それを連想した。回りの環境に合わせて生きていくことが出来なければ、どうなるかを見せてくれる典型的は事例である。

時代の流れというのは、時として早く、また時として、緩く緩慢にながれるが、確実に動いている。時間の流れの中には、平和あり、戦争あり、隆盛あり、荒廃あり、いろいろな人間社会の出来事を乗せながら、未来に向かって進んでいく。この中で確かなことは、時代の進歩は人間に,人間たる所以を悟らせ、人間の基本的な生存や権利などに付いて自覚を促す。早い話が100年前の世界の状態と現代の状態を比較してみるがいい。人間の存在に付いて認識がどう変わったか。
 100年前の世界は階級社会が主力だった。社会が縦並びで、頂点にたつものが権力を振り回すことが出来た。確かに現代でも権力者はいるが、昔のそれとは大違いのリーダーである。それも民衆の中から選ばれて、権力の座に着く。昔はそうはいかなかった。伝統的権威と、富の力で、民衆は奉仕させられる立場にあった。今では少なくとも民衆の間から選ばれた者だ。権力闘争に勝ち抜いて、
民衆を人とも思わない独裁者ではない。ということは、民衆の力がそれだけ強くなったと言うことだ。今まで底辺に押さえ込まれていた民衆が、自分の人権を主張しだし、それが社会の主流になってきたのだ。いわゆる民主主義の発展だ。一人ひとりの人間が持っている人権の尊重が、社会的に定着してきたのだ。

そういう意味からすると、昔は権力者が民衆を支配すると言う形が多かったが、現代は権力者は民衆が選び、彼をリーダーとして、民衆を代表して権力を行使する時代になっている。

1947年に独立をしたインドでもこのような流れが定着しだした。とはいえ未だに人権無視の抑圧がインド社会では横行しているらしい。
今まで何千年も昼寝をしていた人が、目を覚まし、ようやく起きあがろうとしている、そんな状況にまで事態は進んできている。そしてやはりこれこそが人類の歩む道だと思う。
アワード家は経済的な凋落だけではない。人類の進むべき方向からも逸脱している。だから見るも無惨な姿を現しているのだ。恐らく、なにもかも承知の上で、こういうスタイルをとって生きているのだろう。気の毒だが、彼らの選んだ納得ずくの道だ。援助の手をさしのべる必要はない。生きた化石を見るようで、ついぞ同情の気持がわいてこなかった。



未来志向

2014年06月09日 | Weblog


未来志向

価値観や思想が違う国と喧嘩をする必要はないが、かといって仲良くできる間柄でいることは難しい。
ましてや利害が対立、特に過去に被害者加害者の関係にある両者が(過去の歴史を鑑みて、…)ということを前提に対話をしても、それは多分平行線で、交わらないだろうから、両者の関係を真から治して重ね合うと言う唯一の観点は「未来に向けて」と言う事から議論を出発させること以外にないと思う。
被害者も加害者も過去持ち出さず、各自ら謙虚に過去を反省して、その上に立って未来志向の話をすることが唯一有効なことである。