日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

真実そう思う。

2009年08月16日 | Weblog

真実そう思う。

必要なものは最低限度にして、余計なものをたくさん物を持たないから、幸せなのである。

日々三食に事欠くことなく、たまには外食できる程度の金があり、それが死ぬまで保証されていったら、どんなにか幸せだと思う。

金が沢山あるとそれをめぐって、人の欲が渦をうまく。それは禍のたねになり、結果として人を不幸陥れる。

持たない人間の負け惜しみじゃない。真実そうなのである。

持つ工夫よりは、持たない工夫の方が難しい。相続問題が、争続問題にすり替わっている話はよく聞くので、争いの種を持たない方が、争いが起きない分幸せだ。

自然の一部

2009年08月15日 | Weblog
           自然の一部

2月15日  涅槃の日 僕は京都東山にある清水寺に居た。広い方丈から障子を通して見える冬景色は透き通っている。
枝振りの好い松はすでに雪がうっすらと積もっている。
曇った空からは牡丹雪が舞い降りてくる。僕は座敷に黙って座っているだけだのに、自然は雪を降らせ雪景色を作ってくれる。

雪景色を見て僕は自分が自然の一部であることに気が付いた。自然に包み込まれて、自然の中にいて、自然の一部を構成している。自然のコウセイメンバーである。

今まで自分がいて自然があると想っていたが、二者対立的な存在ではなくて一体混然とした融合体であることを知った.

自然の大きな流れの中に僕が居るが、僕だと意識したときにのみ自分がいて、意識しないときは自然の一部になっている


勇気あるもの

2009年08月14日 | Weblog
勇気あるもの

この世生きていると、身の回りには全な危険なことだらけである。
自分がどんなに用心し、注意深くしていても、そういうものを超えて、事故や災難やまた病気にかかることだっていくらもある。

そしてこれが一家を背負う大黒柱であれば、なおのこと 、あらゆる危険に対して、保険で手当する必要がある。

しかるに、金銭面、物質面でのヘッジは、保険でカバーしても、その一つ前の段階、たとえばガンにならないようにするには、

本人の用心とともに、神仏に祈願することも災難をよける一つの方法である。でも実際に患って死んだらそのあとのことを保険金がカバーする。

信仰は、事故に遭わないために、災難に遭わないために、病気遭わないために必要であり、保険は、災難によって発生する自己責任を金銭で、カバーするために必要である。

それ故に、信仰もなく、保険にも加入しないで、生きている大黒柱は、ある意味では、勇気ある無責任なものと言える。

重ねあわせると

2009年08月13日 | Weblog
          重ねあわせると、


新聞情報で、実際に、この目で確かめた話ではないのだが、タイの首都バンコクにあるエラワンの神様を破壊しようとした男は、参拝者に捕らえられて、衆人の目の前でなぐり殺された。

今回の東京秋葉原の無差別殺人殺傷通り魔事件。

手錠をかけられた犯人にたいし、怒り狂った民衆が殴り殺す場面が、あってもよかったんではないか。
この両者は、片や信仰心から、片や正義感に裏付けされた社会的制裁論から、
犯罪者を目の前で、殺すことには変わりは無いが、両者を並べてみると、最悪の中に、ごくわずかでも、テンションを下げる気持ちが出るのはなぜだろうか。
共に極度に高まった怒りと緊張を、少しながらも解き放つ役目を果たすと僕は考えている。

バカは死ななきゃ直らない。というが、こいつを殺すまえに前にとことん苦しめないと、犠牲者の霊は浮かばれない。

黒田官兵衛パ-ト2

2009年08月12日 | Weblog

黒田官兵衛パ-ト2
「思いおく言の葉なくて ついに行く 道はまよわじ 成るに任せて」 徳川家康は「彼こそはいにしえの道を歩む人だ」と言った。
秀吉は「私の死後天下を握るのは黒田官兵衛だ」と言った。
織田信長を初め戦国の3武将はそろって官兵衛の実力とその人柄をほめた。
取ろうと思えば天下取りも手中にある。しかし彼はそんな名誉や権力には目もくれず、さっさと福岡に引退してしまう。この潔さの背景に、持てる力をフル回転して出し切り、活躍したという彼の自負がある。

感動的だったのは、秀吉の小田原攻めの時の活躍ぶりである。単身小田原城に乗り込んで、城主を説得して開城させただけでなく、その真心から成る説得に感動した北条氏から国宝の名刀を1振り贈られている事からも想像できる。

秀吉も部下として使うが、余りにも実力があり、切れ者なので、彼を遠ざける事になるが、彼はなんの不満もなくいわずに、悠然と福岡に隠居する。時に44才。他人からどう思われようと自分の心は清らかな水のようでありたい。そう言う願い、彼の人生観にしたがって、彼は歴史の表舞台から去った。
彼は辞世の句を詠んだ。そして59才の生涯を閉じた。
戦国時代の平均寿命は人生50年と言われた時代だから、相応の生涯だったのだろう。
で、彼が言う「おもひおくことのはなくて」と言うことは自分は精一杯人生を生きた。今ここで思い残すことは何もなく、従って思い残す言葉はなにもない。これほど充実した人生が有るだろうか。自己充実と生きた満足感どれほどの人が得られよう。
続ける
「ついにいく。道はまよはじ なるにまかせて」自分の死後の世界がどんなものか判らないが、(神仏のおはからいで)進む世界は自分の意志じゃなくて神仏にお任せすれば十分だ。なんの不足もない。

私は彼の余りの潔さや悟った境地に唖然としてしまう。どういう生き方をすればこういう自己充実した人生を送れるのか。信長や秀吉も 家康も有名な歴史上の人物だが。官兵衛こそ、歴史上の第1級の人物ではあるまいか。
政権交代がかまびすしい昨今、麻生か鳩山かと言う前に、第2の官兵衛が出てほしいものだ

自民党選挙で苦戦

2009年08月11日 | Weblog
自民党選挙で苦戦


1,抜本的に改革のうそ。過去五〇年間政権を担当して来て、現状がある。
抜本的改革とは一体何だったのか。

2,官僚機構の制度疲労  自民党に向いて国民に目を向けていない。自民党は族議員と連携し官僚主導の政策を実施して今日に及んでいる。

3,財源問題の攻撃  新規事業のためには今までの事業をやめてその費用を無理蹴ればよい。あくまで今までの延長上でしか考えられない自民党は財源財源と騒ぐだろう。

4,閉塞感は自民党だけにむけているのではない 。もっと幅広く国あり方のシステムを変える必要がある。自民党にはそう言う意味での展望は開けていない。

5,首相が未来ビジョンも示さないでライバル党の党首の献金問題を声だかに叫ぶ。国民は非難合戦をききたがっっているのではない。ライバル党を攻撃すれば自民支持者が増えるとでも思っているのか。日本のりーだーがこの程度じゃ困る。
聞きたいのは、将来この国をどのようなものにするのかそれが知りたいのである。なんの応えも聞こえてこない。こんな思考貧弱なリーダーに国の将来を任せることが出来るのか。不安でしょうが無い。

6,ばらまきという感じを持たれる政治は最低だ。  国民を愚弄している.
 えさで釣ろうとしているのだ。国民は魚ではない。

7,将来に向けて社会保障や年金医療等を含めてどうするのか、 
誰が責任を持つのか。  なんのビジョンもないから 知事任期にあやかって、東国原知事や橋下知事を頼りにしたり、彼の質問に対して応えられないのだ

8,官僚組織を分解再編し地方分権道州制を導入して地域の自活を求めるようにしないと今までの中央集権官僚国家ではもう持たないところまで来ている
自民党はこの程度の党だ。政権担当能力なんて無いに等しい。

宝物との出会い

2009年08月10日 | Weblog
             宝物との出会い


学問、芸術、事業、命、自分の職務 何でもいい。何かを通してとことん追求 していくと、そこに神という宝物との出会いがあるのに、神を見いださぬ人とはどんな人種か
人生を突き詰めて考えたら答えは神に突き当たる。それ以外はなさそうだ。



賽銭目当て

アンコールワットでもバイヨンでもそうだった。回廊や祠で仏像の守をしている人達、尼僧がおおかったが、近づくと拝めという。それは信仰心からというよりは賽銭目当てであろうと思われた。線香を供えたら仏教徒の日本人のこと、なにがしかのお賽銭をあげるのは常識だ。僕は思う。理由が何であれこの堂守の尼僧も明日に命をつなががなくてはならないから必要なのだ。賽銭は正当な生活費だ。

テスト

2009年08月09日 | Weblog
               テスト

テスト、テストの世の中である。 その結果によって、色付けしたり、輪切りにしたり、
受ける側、する側もたいへんである。 そりや誰だって、自分がある日、能力測定され、評価されるのは、いや決まっている。
私も、個人的には、テストがない世というものは大歓迎だ。
必要悪だと分かっていても、人の能力を測定しなくてはならないのが人の生存は、究極において、生存競争の上に、成り立っているという現実の必要性から出ている、ようだ。
競争がある限り、それには必ず評価が伴う。つまり、人間の生存、には必ず評価がつきまとう。
ところで、人間が下した評価によって人間の値打ちを、真実に測定し、断定することが果たして可能かどうかは、ともかくも、人類の進歩前進を導く、原動力が、必然的に競争を伴うものである。つまり、人類が続く限り競争とその評価はつきまとう。節目のない生物が、この世に存在できるだろうかというと、おそらくそれはいないだろう。

日本人のノー天気

2009年08月08日 | Weblog
日本人のノー天気

日本人が如何にノー天気か。
インドを独り旅した時に思い知らされた。私という日本人を基本にして考えるならば、出会ったインド人達はなんとたちの悪い、品性や誇りを持たない人達かと軽蔑の気持ちしか起きてこないが、インド人を中心に考えて見ると、日本人はお人好しで簡単にだませるノー天気集団だと軽く見て、日本人に対して意識的に悪を働くのではないだろうか。

いやインドのみ成らず東南アジアを独り旅していると、だまされたり、おどされたり、おおよそ日本では経験しないような、不愉快な出来事に遭遇するところを見ると、少なくともインド人の見方が東南アジアの人々が日本人を見る目に近いだろう。

と言うことは、彼らからすると、日本人は要するに金持ちのノー天気集団だから、扱いやすい、だましやすい、脅しやすい、人種に見えるのだろう。

インドを旅したとき、こんな経験をした。暑い時期なので歩くのは大層だと思い、リキシャに乗ったときの話である。

まず僕の行き先を知っているかどうか尋ねて、それから料金交渉をした。目的地まで往復で50ルピー と言うのでリキシャに乗った。引き手は中年のがっしりした男で愛想良く走り出したので、これに乗って正解、良かったと良い気分でいた。

目的地についてリキシャをおりて、「用事を足してスグ戻ってくるから、」と言い残して、郵便物を投函して引き返してくると、リキシャは元来た道を戻りつつあった。僕は往復の料金を前払いしているから、このリキシャは僕を乗せて元の所へ帰るものとばかり思っていたので、「待っててくれと言ったじゃないか 。料金もちゃんと往復支払ってあるのだから」といった。

彼は突然怒った顔をして、「往復料金というのは、行きはあなたを乗せていくが、帰りは乗せると言うことではない」 と言いはなった。
「なに。往復料金とは、行きも帰りも同じ客を乗せての話だ。帰りは空車で帰るというのは片道料金と言うことだ。乗せてかえるか、それともそれがいやだというのなら、半額つまり帰りの料金は返却しろ」と怒鳴った。
「行って帰るのは当たり前の話じゃないか。行きはお前さんを乗せてここまで来たわけで、目的の約束は果たした筈である。帰りはお前さんを乗せようが、空車で帰ろうが、それは俺が決めること。とやかく言うことではない」
慣れない英語に感情を一杯詰め込んで、相手の不実をついたが、返ってくる答えは、てんで話にならない。かみ合わない。相手は貰った金は自分のもので、びた一文返金する気も様子もない。

街中で大声で日本人とインド人がののしり合うものだから、周りは人だかりが出来ている。ののしりあいが途切れたとき、僕を取り囲む群衆に気がついた。
全く話にならない。インド人というのは、いやらしい人間なんだ。そう言う思いを残して胸のつっかえを飲み込んだ。
彼は勝ち誇ったようにリキシャを引いて、元来た道を帰っていった。

さかのぼれば江戸時代に大井川の渡しをした駕籠かきの中には、川の途中までやってくると、追加料金を要求した輩もいたという。いわゆる
雲助という手合いだ。三百年も昔ならそんな輩もいたのかも知れないが、現代の日本で、約束に反する追加料金をとったり、往復料金を受け取りながら、片道しか運ばないなんて話は、聞いたことがない。

でもインド・カルカッタでは紛れもなく、2005年にこういう事態が起こっている。 反省じゃなくて、事の発端から結末までのことを思い返すと、日本的な感覚で往復料金を支払ったのが、間違いの元だった。インドでは日本の常識は通用しないのだ。だからはなから彼らを信用しないと言うことから、始めないと、考えた事とは違った結果が生まれる。そのたびに胃が赤くなって熱くなる思いがする。これを防ぐには金銭に関しては、特にシビアでなくては成らない。僕はそう結論つけた。

インド以外にも東南アジアを独り旅をするとき、インド的発想が普通の常識みたいだ。と言うことは日本人はそこまでシビアな考えや感覚を持たなくとも、十分信頼関係が成り立っている国に住んで生活しているのだ。
しかしこの日本的感覚は海外から見ると、日本人はノー天気だと決めつけられると言うことをしっかり自覚しておかないと、海外旅行は苦痛の連続でやってられないのじゃないか。

日本民族というのは本来島国のために全てが信頼関係で成り立っているのだろうか。もしそうだというのなら、一刻も早く目を覚ます必要がある。
不信感をあおるわけではないが、外国人に対してはシビアな感覚を持った方がいいと。
端的に言うと、振り込め詐欺師の様な輩と対峙しながら毎日旅を続けなければならないと言うことだ。そこではお人好し、ノー天気は決して美徳ではないと言うことを骨の髄までしみ通らせておくことだ。

インド旅は2,3回しか経験がないが、それでも東南アジアに限らず、外国へ旅する場合は常に心得ておかないといけない事柄だと真剣に思う。




若山牧水

2009年08月07日 | Weblog
若山牧水
尾鈴

日向の山で尾鈴はつとに有名である。高い山というよりは優しい感じがするが、山は西を最高峰として東に向かってなだらかな稜線をなしている。その尾鈴の北側のふもとに若山牧水の生家がある。

抒情性

あたかも尾鈴山の持つ優しさを、地でいくかのごとく、若山牧水は抒情性あふれる作品をたくさん残して43歳で世を去った。

旅好きというには、性質だったのか、それとも人生は旅という哲学に殉ずるため、はたまた旅は彼の仕事場だったのか。、
すなわち方々を巡りながら自然な人情にふれて沸き起こる感興を得たという形をとって、それを詩に閉じ込めるのを唯一の生き甲斐として生涯を送ったのか。

彼の生家の前を流れる坪谷川のせせらぎは、年がら年中変わることのない、美しい歌を奏で続けたことだろう。そしてそのせせらぎは今もなお私に語りかける。

「幾山河越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく」

叙情性というよりはセンチメンタルなにおいのするこの詩をそらんじた人も多かろう。

旅は独りがいい。酒の上のことに限らず、なにかにつけて独りがいい。深い山などにさしかかったときの案内人すら、いとう気持ちで私は孤独の旅を好む。

つくづく寂しく、苦しく、厭わしく思うときがある。何の因果でこんなところまで、てくてく出かけてきたのだろう、と我ながら恨めしく思われるときがある

私の最も旅を思う時期はモミジがそろそろ散り出すころである。野の中を行ながら遠く望む高嶺の雪、これも拝みたい気持ちである。

わらじを履きマントを被った彼の旅姿の等身大の写真、。パネルが飾られている。一方彼が旅したところが日本地図のみならず朝鮮半島にも足跡を残している。それを見ると日本列島は表も裏も全国津々浦々を巡り歩き、言葉の不便もあっただろうに朝鮮にも足を延ばしている。

車や飛行機のない時代、わらじがけの足を頼りに強烈な意志と旅への憧れがないとこれほど壮大な旅はできるものではない。
雨の日も一の日も晴れた日も、体調の良い時の悪いときも、自分が晴ればれとしたときも、沈んだときも、孤独と酒を友として黙々と旅をして、黙々と作品づくりに励んだ彼の姿が目に浮かぶ。

旅がいいというのは一般論で生涯歩き続けるというのは並大抵のことではない。強烈な意思と個性の持ち主だったことがうかがえる

人生は旅
人生はよく旅にたとえられる。もし時の流れを足の歩みと考えるならば確かに野を越え、山を越え谷をわたり、辺りをきょろきょろ見まわしながら歩く旅に似て、時の流れとともに移り変わる我が心を眺めれば人生は時を歩む旅人に相違ない。

古人や先人、西行も芭蕉もよく歩いては、自然な人情との出会いによって触発された心境を歌に詠み込んだ。人生を心ゆくまで味わったといったほうがよい。自然は彼らによって飲み込まれ、ときが経つにつれて発酵し作品となって結実しそれがいまなお幾百年の時を経て人の口に膾炙されて、人の心に潤いをもたらしている。

若山牧水の生家

今日初めて若山牧水の成果を訪ねた。宮崎県東郷町坪谷が彼の生まれたところで、生家はそのまま保存されている。
生家の隣は牧水記念館になっている。二階建てで二階にはインクの跡もくっきりと生々しい直筆の原稿や、当時の雑誌などが陳列されている。有名な作品も無名な作品もある。こんこんと湧いてくる歌心を抱えながら彼はこの山河で歌心を育む。そして多くの作品を残して世を去った。理想的な生き方ではないだろうか。

















































































金色堂追想

2009年08月06日 | Weblog
          金色堂追想

平泉駅で降りて 北へ20分から30分程歩いた。
自転車に乗らずに歩いた。
出来るだけ当時の様子に近い雰囲気や状態に肌が触れるのが望ましい思ったから。空気を肌で直に感じたかった。

御所跡は今は水田に成っている。
小高い丘にのぼると、柳御所のあたリが一望できる。同じ血を分ける兄弟であリながら、又平家追討では、兄頼朝の為に多大の貢献をしながら、最後はここ奥州で殺される義経とは何という星の下に生まれた皮肉か。

人間は一歩間違えば死に至る恐ろしい運命を持ってる。そんなことを考えながら眺めるともなく眼下を眺めていた。

歴史の流れから見てみると確かに頼朝のほうが先見性がある。後白河法王や取り巻きの貴族なんて信用はできないし、義経のやっていることは貴族政治に従属した考え方である。確かに頼朝第一の家来梶原との確執もあるようだが、それは歴史の流れについての判断の理解の仕方によるというよりは、戦略戦術に根ざした感情的な対立のほうが大きい。

義経の言い分もわからないではないが、彼の考え方は歴史の新しいページを開くものではなくて、従来の貴族政治の下での政治体制の維持、すなわち現体制の維持が根底にある。

頼朝は違う。貴族政治から脱却して新しい武家政治を打ちたてようとしている。ここのところが両者の決定的な違いである。

人間には感情と理性があり、両者のバランスが必要である。
情の面においては義経に涙を寄せる人は多いことだろうが、歴史的にみるとやはり頼朝の決断の方が時代の流れにふさわしく、正しいようにおもえる。

いずれにせよ決定的な対立となり、生死を分けたことは歴史上の出来事とはいえ、義経はいつの時代においても日本人の涙を絞ることであろう。
まるで小説で悲劇のヒロインを描いたかのような義経の悲劇である。

ひょっとしたらこのストーリーは神が書いて、役割を演じたのが頼朝であり、義経であり、ある時期中央を牛耳った平家なのかもしれない。

金色堂
覆堂は何百年かに移動するみたいである。僕が見たのは杉木立の方へ、ちょっと段になっていた所へ建っていた。
名所であるから連休とも重なって、全国から大勢の観光客が来ていた。
とくに有名な金色堂は、我もわれもと押しかけて来るので、ラッシュアワーの満員電車のように肩が触れあってじっくり堂内見物をするのが難しい状態であった。

そこで私はいったん金色堂を出て、入り口のそばにたたずんでいた。人の切れ目を待っていたのである。しかし人は切れ目なく続いて、出たり入ったりしている。

少なくなることはあっても、人が途切れるということがないので、私はあきらめ、堂内に入った。金色堂内は管理人とおぼしき人がいて、ブースの中に坐っていた

私はぼんやり須彌壇の方を眺めていたが、突然人波が途絶えた。堂内には私を除いて誰もいない。そのとき私は体がまるで雷にでも打たれたかのようにジーンと音がして頭の髪の毛が逆立った。

そこには誰もいない。管理人さえもいない。
存在するのは藤原3代のミイラと私だけである。ぞぞっと身ぶるいがした。髪の毛は逆立ったままである。恐怖にも似た不思議な体験である。
いったい何が起こったというのであろうか。強いてこじつけをするならば、千年余りの時を経て、この藤原の誰かの魂と私の魂が感応現象を起こしたということではあるまいか。そうでも考えなければ私には、なぜそういう現象が起きたのか、納得がいかなかた。

確かに肉体は7、80年もたてばこの世から姿を消すが、魂は果して体の消滅とともに消滅するものであるのだろうか。その答えは誰も知らない。

気がついたときには再び大勢の人が身の回りで、がやがやたちさわいでいた。
夢のような不思議体験であった。
そのあと何か変化が起こったかというと、それは何もない。






















 法律というもの

2009年08月05日 | Weblog
            法律というもの

私にとって、法律は守るべき規範には違いないが、それに人間の現実や人情の自然に最も沿った形で、弾力的に運用を考えることが大切なことに思えてならない

太平洋戦争に入ると主食でもあるコメは配給制になり、成人一人当たり、1日の食べる量まで規定された。
大人は1日一人当たり、2合1勺の量で健全な精神と肉体を維持するように、国家から求められた。

しかるに、それだけの配給量では不足であった。そこで、足りない分は闇米にたよった。

ところが法律の番人である検事が法を厳格に守り闇米を買わないで配給量をきちっと守ったために栄養失調になって死亡した。

法を守ることが最悪死を招くという場合においてすら順法することが果たして正しい法の運用と言えるかどうか。

法はあくまで建前であり、一つの提示された規範であって、それが必ずしも現実に対応できているが、どうかは疑わしい場合もある。

無法が駄目なのは言うまでもないが、現実には実体法は現実的弾力的に運用してこそ、法としての価値を持ってくるのではなかろうか。


日本人はどこへ行ってしまったのか

2009年08月04日 | Weblog
日本人はどこへ行ってしまったのか

日本人は親切で勤勉で礼節を知って高潔な精神に満ちあふれていた 。
日本人が日本人心を失ったのは高度成長のデメリットであった。
目標のない拝金主義の横行、質素、堅実、武士道精神などを忘れてしまった
この原因を作ったのは誰だろう。
マスコミは日本人を総白痴化した元凶である。これに携わる人品のお粗末さ
日本をリードしているという気でいるのが何とも幼稚で
馬鹿馬鹿しい。目立つことが価値ありとするお粗末さ。 タレントが幅を利かす社会のお粗末さ。

走り書き

2009年08月03日 | Weblog
走り書き

もう五十年も昔になる。28番教室で受けた講義の一節がいまだに頭にひっかかっている。講義をされた教授はとっくに鬼籍の人となられたが
「武器よさらば」「老人と海」などこれらの小説を、教授は世代をわけて、
ビートンジェネレーションとかローストジェネレーションと言う言葉で説明された。世代というのは確かにその時に吹いている風の影響を受けるものだ。それが世相というものを作り出すのだ。
戦争の災いが人智を越えて降りかかってくる。平和の風が吹いて人々は浮かれる。
だから「老人と海」を読んだときの感想は、人間ってむなしい存在だと思った。
「別に悪いことをしたという訳でもないのに、人生はこんなものかなーとわかりかけてきたころになると、この世去らなければならない。何とも不合理な話だ。天地創造の神様も人が悪い。
もうすこし早く人生の泳ぎ方を教えるか、さもなければもう少し寿命を延ばすかしてほしいものだ。」

よほど何かを感じたのであろう。僕はノートの隅に以上のような文章を走り書きした。

遺跡

2009年08月02日 | Weblog
遺跡

何もないところに適当に建物が建ったわけではない。建物は人間の思いが目に見えた形で、表現されたものである。

その思いの奥には宗教がある。神仏の世界があり、その世界に強いあこがれを権力者がいだいた時、建造物として結晶する。

こうしてアンコールワットやアンコールトムなどの遺跡は現代に残った。
まず思い、想念があり、それが形となって表れる
目に見えるもの(建造物)の奥に思いをいたすこと、
それが遺跡見物のポイントであろう

「アンコールワットの参道にあの壮大な石造建築物を見たとき、私は身ぶるいし、鳥肌が立った。」それが石工の鬼 小杉さんの言葉である。小杉さんには見えているのである。職人とはこういうものか。

アンコールワットを見たとき。それは文章を書く感動の宝庫であり、果たしてつ鳥肌が立ったか。そこが職人魂を持たない私の悲しい姿である。