昼休みに昔から知り合いの友人から電話が来た。
彼女は私より一回りほど年上で、昔は凄い切れ者で近寄りがたいような女性だった。
去年久しぶりに再会して、同一人物だとわからないほど穏やかな人になっていた。
私を見て「ねえちょっと抱きしめさせて」と行ったかと思うと涙を目にためて笑いながら抱きついてきた。
彼女は心臓の施術をして生還した後だった。
私は彼女とたまに電話で話すようになった。
彼女は独特な雰囲気を持っていて、てっきり何か得体の知れないものでもやっているんじゃないかとか疑いたくなったくらい目に見えないものを信じる人になっていた。
今日の電話ですっかり謎が解けた。
彼女は倫理研究所で勉強をしている人だった。
私も離婚した後しばらくお世話になったことがあるので、それがどういう風にまともな団体なのかは知っていた。
戦後から今まで、子供を育てると言うこと、家庭をもつということ、嫁という立場や妻の立場など現実の生活を上手に生きるために前向きで「倫理観」ということを大事にしている人たちがたくさんいる。
彼女がとてもまっすぐで、誰にでも感謝して、他人事のない観音様のようでいる意味がなんとなくわかった。
もちろんそこに行くからいいというわけではない。受け止める受け皿を彼女が元々持っていたことが重要だ。
彼女が「ご先祖や両親や旦那をないがしろにするような自分のことしか考えない女性がたくさんいて、そういう人は結局すべてから孤立してその人が生み出すすべてのことがらにパワーをもらえない。もちろん子供を産んだとしても力になってもらえない。そう言う法則があるの。鏡なの。自分は良くてもまわりに来るの。それでもわがままに生きていける人は、誰のことも愛していないの。自分だけが好きなのよ」
そう言った。
そう言えば私がどうしてお墓参りをするのか。どうして母を食事に誘うのか。一つ一つ思うとそこには必ず息子が出てくる。「私のことはいいから、息子を頼みます」という気持ちがある。
私のためじゃない。守るものがあるからまわりのことも守ろうとする。
彼女が電話着るときに「あなたに電話する前よりずっと元気なっちゃった。話できて良かったありがとう」と言われた。
実のお母さんが大きな病気で、自分を受け止められずに悩んでいたようで、倫理研究所へ助けを求めたと言った。
私も離婚した頃、あそこの人が「ねえあなた、旦那さんは変わらないの。相手はぜったいにかわらないのよ。それなのに、変わらないものだと思わずに腹を立てていたんでしょ。あなたが変わる方がずっと手っ取り早かったのに。あなたは自分が変わろうと思いもしないのにどうして相手のことばかり悪く思うの」
目から鱗だった。
そうだ。私も悪かったんだ。私があんな夫にしてしまったのかもしれない。
そう思った。
あれからの後からもう4年は行っていない。
でも心の中にあの言葉はずっと残っている。
相手は変わらないって覚えている。
自分を変えてまで貫くか、新しく仕切り直すかなんだと思っている。
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