ケベックリタイヤ日記

ケベックでリタイア暮らし。ながらえば憂しとみた世も今は忘れた。毎日悦びの種をみつけてぽりぽりかじりたい。

2018-01-21 09:27:37 | 読む
 初日さす硯の海に波もなし 正岡子規

昨日アマゾンからNHKテキスト俳句一月号が届いた。日本円で648円、カナダまで届けていただいても1200円ほど。日本語の楽しさ奥深さに目をみはるばかり。


最近、文学や音楽や絵画って何だろうと頭に浮かび、小説なり紀行文なり俳句なり、、、文学って創作するに一番お金かからない誰にでも開かれた分野と思いました。紙と鉛筆があれば良し。楽器買わなくても良いし、絵の具買わなくても良いし、先ず場所をとらないし、先生につく必要もないし、才能ある方はいろんな文学賞にも応募できる。あと文学って人間の深淵(ドロドロな闇など)を表現するに一番向いてるのかな。トランプ大統領を選出した若者はドフトエフスキーの「地下生活者の日記」のような人物であるという記事を思い出した。読んだことないですが読みたいです。音楽でもなく、絵画でもなく文学でなければ表現できない世界があるのかも。

さて俳句の添削例を読みながら、なぐり書きしてるへたっぴー俳句から上達したいなーという気持ちが芽生えました。テキストの裏に添削お願いのハガキまでついてるんでびっくり。何でこのテキストを買ったかというと、とじこみ付録が「奥の細道双六」なんですよ。芭蕉のすごさがわかりたいという気持ちがあり、毎年一句二句でも芭蕉の句に感動してくる自分があり嬉しいです。が、ざざーっと雑誌をめくりながら即ぴんときた俳句が芭蕉ならず上記の正岡子規の句です。

硯の墨が黒々とした海となり、そこに朝日が射しているという表現に、いつもは暗く波立つ心が元日のみは穏やかに静まってるかのような、逆に子規の激しさをみるようでドキッとさせられました。もちろん個人的な解釈です。

ある方が俳句が自分の人生を救ってくれたと話したのを覚えていて、私の場合は音楽がそれ。で、俳句は私にとって何だろうと思ったら、平凡単調な生活のなかで、実は微妙に刻々変化してゆく季節や人生の移ろいと共に私も流れているという感覚を楽しむことかな。

今朝鏡を見たら法令線はしっかりと刻まれ、白髪は領土を拡げ、3つのシミが目立つほどの大きさになってた。子供の頃、銭湯でおっぱいがびろーんと伸びた骨と皮ばかりのような老婆をみて彼女が人間であることが不思議だったが、その姿に向かってる。あの記憶に刻まれたお婆ちゃんのようになった時私は何を考えてるんだろう。