ケベックリタイヤ日記

ケベックでリタイア暮らし。ながらえば憂しとみた世も今は忘れた。毎日悦びの種をみつけてぽりぽりかじりたい。

春の旅

2018-04-25 08:53:24 | 暮す
 月と日をめくりめくりて春の旅

来客が相次ぎ、あれこれのご招待があり、ホスピスボランテイア講習会がありと、いつになくお出かけが続いた。参加しまいと思ってた6月のグループ展への出品作に向けて四苦八苦。毎日、旅してる気分。

芭蕉の「奥の細道」の冒頭「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」が、何故かしみわたる。また、文章が流麗にリズムをもって響いてくる。

旅というと旅に出るというように、日常から別空間への移動と思っていたが、最近は平々凡々とみえる日常生活の毎日が旅してるような感覚で不思議な気分。旅は計画しても、風景でも人でも思いがけない出会いがあり、未知の発見の喜びがある。一見変わらぬ淡々とした日常にも、心も身体も移ろい、小さな事件があり、新しい出会い、そして別れがある。過去には戻れない。毎日が、残された旅の日々を終わりの日まで続けるのみ。たしかに行かふ年も又旅人也だ。

毎晩、寝しなに堀田善衛の「ゴヤ」を再読してるが付箋だらけの箇所のほとんどすべてを忘れている。だから折あるごとに再読の再読。

今回、知人のヴェルニサージュに行った事もあり、次のような言葉がずんと来た。

「絵画とはひたすら見ることである」。堀田氏がどれほど絵画を見つめ読んでいるか、挿入されたゴヤの作品と堀田氏の読みにただただ感服もすれば、このような著書に出会い読める幸せをしみじみ感じる。
今日、展覧会も消費物になったと思う。一回観て次は何と。いや、文化自体が消費物なんだ。いつだって時代の好尚というものがあり、いつだって今新しいものも時代遅れになってゆく。だからこそ、時代を超えて残ってゆくものには、やはり時代を超える普遍的なものがあるんだろうと思う。少しづつ芭蕉のすごさがわかってきた。




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