退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

止まってみて、はじめて見えること

2014-07-04 10:22:24 | 韓で遊ぶ


祈りは、神の愛をもっと得ようとするのではなく
元々、私たちをいつも愛してくださったということを悟ることです。
衆生だった自分が釈迦になることではなく
元々、釈迦だった事実を悟ることです。



祈りは祈る対象に
「これをやってください、あれをやってください。」で始まって
「ありがとうございます。」に展開する。
「あなたと同じになりたい。」で昇華されて
結局は言語を超えた完全な存在それ自体となる。



祈りが深くなると
自分が言う行為より
その方の声を聞くようになり
その方の慈悲心を瞬間、瞬間、感知するようになります。
自分が少なくなって、その方の存在が大きくなって、
言語を超えて完全な存在の中から
その方の愛と慈悲が自分の中にいっぱいに満ちてきます。


宗教を信じることと行動が深くなるほどに
「自分」という自我意識が低くなって
その低くなったほどに、自分の中の神聖が入って満ちる過程に転換されます。
まだ、自我の拡張のために救助的な祈りをしたのだったならば
これからは自分を下ろす祈りをしなさい。



祈る時に、時には
「どうか、自分が望む通りに成らせてください。」という祈りも必要ですが
「どんなことが起きても、自分がみな受容できるように
自分の心の器を広げてください。」と祈ることもいいです。
ご覧ください、現金を差し上げますから私の願いを聞いてください
どうか、釈迦と神様とかけひきをしないでください。








受容するようにしてください。
思ったとおりに事が上手くいかなくても
怒らないで自分を下ろして受容してください。
抵抗するほどに不幸になり、
受容できなかったら受容できるようにしてくださいと祈りなさい。



因縁がなければ切実に祈りなさい。
因縁が作られます。
宇宙はとんでもない仲人です。



一体自分が持っている人生の問題をどうやって解くべきかわからないですって。
そうならば、祈りなさい。
周囲四方、集めて本当に答えを求めたら、
自分の中の仏性が、自分の中の精霊が
知恵の門を開き教えてくれます。





僧が祈りを長い間できる理由は、
他人が上手くいくことを本当に祈る心こそが
自分の心から穏やかで幸福にさせてくれるからです。
今、結婚の司祭の準備をしている私が
一番先に喜び幸福感を感じるように。



衆生は
自分が望む通りに事が運ぶことを願い、
釈迦は
本人の前にいる人が望むように事が運ぶことを願います。
だから釈迦は毎日よい一日ですが、
衆生は何とかよい一日です。



衆生はいいことをすると、その痕跡を必ず残そうとして、
聖人は何も後を残さず、いいことだけします。







聖者であるほど
本人が罪人だと告白します。
自身をだますことができないからです。



聖者になるということは
他の人のために聖者になるということです。
ピエールデルジュ



聖職者と先生はどうしても言葉が多くなってしまうが
年をとった聖職者と先生はもっと、もっと、もっと、
言葉が多くなるようです。
どうか、年をとっても自分の話だけ多くする聖職者にならないようにしないと、、、
自分の言葉ばかり多い教授にならないようにしないと、、、
決心して、また決心します。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-07-03 09:27:49 | 韓で遊ぶ

真理は
通じる







人を審判するな。
そうすればあなたたちも審判されない。
あなたたちが審判するそのままに、あなたたちが審判され、
あなたたちが量ったそのまま、あなたたちも量られるのだ。

聖書のマタイ福音7章1-2節は、蒔いた通りに収穫されるようになるという釈迦の因果法とつながるところがある。今、自分の考えと言葉、行動を、一度振り返って見させてくれるすばらしい経本の言葉だ。
私は僧侶だが、聖教の言葉の中のにある、ある句節は私の人生の道標としている。はじめて聖書を読んだのは大学生の時、比較宗教学の勉強をしたことからだった。学校の授業の中、キリスト教の歴史と聖書の解析学について勉強をすることになって、ある瞬間、聖書を学問としてだけ読んで学ぶのだけでなく、釈迦の言葉を読むように、その真理の言葉に心で共感し始めた。
おそらく真理というものはひとつの宗教の垣根にだけ縛られいるものではなく、誰でも、頷く心で受け入れることのできる普遍的な内容であるようだ。

一度フランスのブルゴーニュ地方東部に位置するターゼという小さな田舎の村に、若い僧と一緒に行く機会がありました。この小さな田舎の村には特定のキリスト教の教派とは関係く、生涯を独身で生きながら神の教えを体で実践する修士が暮らしています。一年に10万人を超える全世界の若者が、カトリック、プロテスタントの区別なく祈って実践するために訪れる場所としても有名なところです。
私と何人かの僧が美しいテーゼ共同体に到着するなり、修士たちが私たちをとても暖かく迎えてくれました。温和な微笑みを浮かべ白い修士服を着たその人たちの姿は、天使のようにとても崇高で美しかった。私たち僧が着る淡い灰色の僧服もまた修士の服の色ととても合って、僧と修士は差別なく、すぐにみなひとつの家族になったようでした。

テーゼで時間を送るほどに、互いの宗教は違っているが修士と私たちの生きる姿、修行の方法、志向するところがどれぐらい似ているのか知ることができた。
修士は言葉を発しない聖なる沈黙の修行を通して自分の内の神と会う時間を持つという。それは仏教で行う修行とも別段、違いなく見えた。
また、修士たちはみな結婚でもしたように指輪をはめていた。気になって訊ねると、修士の誓約をする時、神と約束の証として指輪をはめるのだと答えた。私の横にいた若い僧はにっこり笑って言った。
「私たち僧は戒を受ける時、はじめからその証を燃臂といって前腕に刻んでおきます。」
修士や僧やが生涯独身で暮らすという共通点があるが、人が考えるように寂しく生活するのではありません。同じ道を行く修行者同士が友であり、師匠であり、家族であってくれるので絶対に一人ではありません。だから、修士たちの顔にはほのかな喜びがにじんでいました。まるで僧が茶を飲みながら心の交流をしている時のような姿と似ていました。
ある人はテーゼ共同体とか寺のようなところの暮らしは抑圧され、厳格で苦行についていかなければならないものではないかと思うが、そうではありません。共同体の生活には、単純だけれども素朴な美しさ、心の静かな平和と楽しみがあります。世俗的な成功を追う人が見ると何でもないことにも簡単に幸福を感じることができるからです。季節が変わる自然の姿を見ることも楽しく、普段に食べる食べ物が少し変わっても新しくよいことです。

このように、他の事を問わない宗教人の姿を見ていたら、私の心の中の聖書の句節が浮かび上がりました。
イエスが十字架にかけられて亡くなる前に言った言葉、
「私の意志のとおりにでなく、父の意思通りになさることを望みます。」
私たちは生きながら、どれだけ多くのものが、自分の基準に合って成ることを願うか。思いのままにできないことが天地なのに、自分が望む通りにならなかったと、どれだけ挑戦するか。こういう時、私は死までも受容するイエスの言葉を思い浮かべます。そして自分自らが作っておいた欲の相をおろそうと自らを励まします。

テーゼで修士たちは、私たち僧をキムチで接待しました。韓国から僧が来るというので、フランスのテーゼの修士たちが直接集まって何日か前からキムチを作ったのだと聞きました。他の国籍、他の人種、他の宗教を持っている訪問者にもこのように繊細な配慮と愛で迎えようとする心。その心を抱いて私たち僧はテーゼを立ちました。帰りの道で私の心は、まるで遠くにいる親戚に会って帰ってくるような気分になりました。その方々が私たちを迎えるために、それぞれに集まって座って白菜を混ぜてキムチを作っている姿を想像すると微笑んでしまいました。そうです。会ってみると互いに似ているところがたくさんあります。何だと表現することができない深い繋がりと、すぐに感じる親密感。文化と言語が違い、互いに表現し実践する方式に差があるだけ、私たちは大きな違いがありません。真理を求める人はこのように通じて、自分たちも知らないうちに互いに似ていくのではないかと思いました。
あ、フランスパンと一緒に食べるキムチが思い出されます。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-07-02 10:32:51 | 韓で遊ぶ


知性と感性と霊性が均等に発達してこそ
健康な人になります。
そのひとつが他のことに比べて劣ったら
他の二つの成長も妨げます。
知性だけあって感性がなければ人の苦痛をわからず
霊性だけあって知性がなければ、いかさま宗教にはまりやすい。
三つのうち不足しているものを充たしてください。



どんな場合にも絶対に、絶対に、気後れしないでください。
あなたは、神様のたった一人の一人息子、一人娘であり
まだ、悟ることができなくてもすでに釈迦です。
この事実を信じたならば、誰もあなたを
気後れさせることはできません。








信じることは、あまりにも過大評価され
実践は、あまりにも過小評価される部分があります。
信じることを主としていくと、宗教間が争いやすいのですが
実践を主としていくと事実、慈悲と愛の姿が同じです。
宗教間の平和を望んだならば実践が少し強調されなければならないと思います。



穀物を得ようとすると、畑を耕し、種をまかなければなりません、
大金持ちになろうとしたら施さなければならないし、
長生きしようとしたら大慈悲をしなければならず、
知恵を得ようとしたら学んで訊かなければなりません。
この4つのことを行ってこそ、それぞれの結果を得るのです。
法句譬喩經








私の好きな聖書の句節

何でも、人にやってもらおう思うのと同じように人にやってあげなさい、
それが律法です。預言者ニラ
マタイの福音7章12節

主よ、主よ、という者が皆天国へ行くのではない。
ただ、天に居られる自分の父の意志通りに行った者こそ天国へいけるのだ。
マタイの福音7章21節

私が本当にあなた方に言っておくが、あなた方が私の兄弟の中の
一番小さな者一人にしたことが私にしたことである。
マタイの福音25章40節
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止まってみて、はじめて見えること

2014-07-01 09:29:22 | 韓で遊ぶ


切実に願います。
隣の宗教と互いに尊重し合って認めてやる
宗教間の成熟した文化が早く定着されることを。
宗教は違っても、いい点を学ぼうとしてして
うれしいことがあったら共に喜んでやることが当然に思うようになる
その日が来ることを



他の宗教とどんな関係を持たなければならないか。
まず、謙遜する態度を持って多くを学ばなければなりません。
他の宗教人の信仰を学んだからといって
自分の信仰がなくなったとしたら、
その程度の信仰はむしろないほうがいい。
姜元龍牧師









自分の宗教が大切ならば
他の人の宗教もその人たちには同じように重要なのではないですか。
母親が自分にとって大切なように
友達の母親も友達にとっては
世の中で一番大切な人でしょう。



自分の宗教的確信が
隣人に対する攻撃と排他の道具になってはだめです。
聖なる教えを隣人に傷を与える道具として使っても
だめだと思います。



イエス、釈迦、孔子が共に生きていたら
互いに自分の言葉が正しいと戦うでしょうか。
でなければ互いにすごく尊敬しながら愛するでしょうか。
聖人に従う関心度が問題であり、聖人の間には
何の問題もありません。





本質が忘れられると形式が重要になります。
イエスの言葉、釈迦の教え、その本質が忘れられると
祈りの内容より、どこで誰とどのように祈ったかが
より重要になり
悟りの内容より、どれだけ長い間、修行したのかが
より重要になります。



吳剛男教授によると
宗教人は2つの分類に大きく分けることができて
まず、宗教的な象徴に縛られて他の宗教的象徴とぶつかる
表層的宗教人と
象徴の向こうに意味を深く理解する
深層的宗教人がいるといいます。
宗教間の和合は深層的宗教人によってなされると思います。








「迷信」という言葉は
西欧の植民地から出た政治的な用語です。
自分の宗教意外にはみな迷信だと名づけた暴力的な言葉です。
今、他の宗教を迷信だといえば
後世によって同じ論理で
自身の宗教がまた迷信と呼ばれることがありえるということを思ってください。



もし、ある人が自分の宗教ひとつだけしか知らないならば
実は、それひとつもちゃんと知ることができていないのです。
ドイツ宗教学者マックスモリー



他の宗教に対する無知が
宗教的弾圧と葛藤を誘発します。
すべての聖人の教えは本当にすばらしいものです。
学んで悪いものはありません。



宗教が疎外を受けている人たちの自由と人権を保護する
声を上げることを願います。
どうか経典を突きつけて
差別して人権を蹂躙する道具として使わないことを。



宗教人を尊敬するかもしれないが、絶対に神格化しないでください。
盲信する心は、
私は信じているから、あなたが理解してみなやってくれという心です。
薬はくれることはできるが、薬を飲むことは結局、本人が飲まなければなりません。



宗教人は月を指す指です。
指が月になろうとすると
本当に大きな罪を、大きな業を犯すことです。
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