ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

<保守>と<革新>について

2018年01月22日 09時36分05秒 | ひまつぶし
昨日、西部暹氏が亡くなった事を記事にしました。彼は保守陣営の論客として知られていました。
西部氏は「真の保守」とは何か、を語っていたことを思い出しました。

そもそも、「保守と革新」や「右翼と左翼」を区分けする発想自体がおかしいとも言ってたように記憶していました。

私事になりますが、わたくしは通信制大学で学び始めて、約3年になります。
主に、政治や社会の分野での講義を選択しております。

そこで学んだことを自分なりに考えますと「保守と革新」や「右翼と左翼」を固定された概念と捉える事には危険性があるという事です。

一例をあげてみます。
戦前の思想家に橘 孝三郎 という人がおります。この人は「国家主義者」と言われる陣営の論客でした。
彼の著作に「日本愛国革新本義」というのがあります。

また、戦前の満州国に出向した高級官僚は当時は「革新官僚」とも呼ばれていました。
建前として「満州国」を理想的な「国家」に造ろうと考えたからでしょう。
岸信介らがそのような人でした。

さらに、2.26事件に連座して死刑になった思想家に北一輝がおります。
彼の著作には「国体論及び純正社会主義」や「日本改造法案大綱」などがあります。
北一輝の著作は出版されるとすぐに発禁の処分を受けます。
それらの思想家は当時の日本をどう変えて行けば良いのか、を考えたのと思われます。

今の私たちからすれば、「保守が右翼で革新が左翼」のようにとらえるのが一般的な知識ですが、実はそう簡単には決められることではないような気がするわけです。
現状を変えて行こうと考えるのが、「革新」で「現状」を固定的にとらえるのが「保守」なのではないかと思われるのです。

ですから、「革新の中の<保守>」もおり「保守の中の<革新>」もいると捉える発想が求められているのではないでしょうか。

一例を挙げますと、かっての「革新陣営の雄」に「日本社会党」がありました。
「革新政党」とみなされていたのですが、その後の退潮振りを見ると、それは歴然です。
日本社会党の取った戦略は真の意味での「革新」ではなく「革新の<保守>」であったからと思われるのです。

現実の政治問題に関することは、わたくしは自分のブログでは本義としない事にしておりますが、西部暹氏の死を契機に、思いついたことを今回は述べてみました。

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