先日の日曜日(9月22日)、しばらくロングツーリングをしてなかったので、思い立って走ってみました。
行った先は青森県は三沢市にある「寺山修司記念館」です。秋田市からだと片道二百五十数キロぐらい。
日帰りで行ける距離です。朝の6時40分に自宅を出発。途中の休みを入れても4~5時間もあればたどり着けます。秋田県の北を目指して走行します。花輪で東北道に乗ります。其処から南下して八戸道を進みますと終点が三沢です。
寺山修司は幼少の頃、三沢に住んでいましたので三沢市に彼の遺品を母親が寄贈したのです。「寺山修司記念館」は三沢基地の北に位置し、三沢インターからだとバイクで20分ほど走ったところにあります。
静謐な環境の中に突如として「寺山修司記念館」は見学者の目の前にその姿を現します。混沌とした雑踏のような「テラヤマワールド」には似つかわない環境の中にその建物はありました。
「寺山修司記念館」の全景です。壁面のレリーフなどがあるのを除けば変哲も無い地方都市に良くある小美術館といったたたずまいでした。
駐車場にバイクを収める前にまずお出迎えしたのは寺山修司の実物よりも大きい彼の写真スタンドです。実に直裁的なお出迎えに思わず笑いが出てしまいます。
さて、没後30年の記念展も併催されているとのことで、入館料は普段より200円高い500円でした。
走りに走ってここまできたので、まずは飲み物をと言うことで入り口より右に位置する休憩コーナーにて、缶コーヒーで一服。そこには映像で寺山修司を見ることも出来ます。三上寛(みかみかん)氏が寺山修司の同級生などを訪ね歩き、寺山氏の印象やエピソードなどをインタビューしてた動画が流されています。
館内の展示室には、これはもうテラヤマワールドそのもので、ありとあらゆる寺山氏の活動の記録が残されています。
中二階ふうにしつらえたデッキの上には天井桟敷の芝居をモチーフしたオブジェや人形などが置かれています。
そのデッキの下には木製の机が十数個も置かれています。机の引き出しにはテラヤマワールドの資料が収められています。その場所には明るい照明はありません。
各机の上には懐中電灯が一個置かれているのみです。
見学者は引き出しの中のテラヤマワールドをその懐中電灯を使って、いわば「覗き見る」ことになります。
この趣向は誰が考えだしたものか、いかにも「寺山修司」にふさわしい趣向に、ここでも思わず苦笑を誘います。同時代の寺山修司を知る者には覗き見る趣向は理解できるでしょうが、それを知らない若い見学者はただ、ものめずらしさに驚いているようでした。
館内では撮影禁止なのですが、ただ一箇所見学者のために記念撮影を許されたところがあります。
それが次の画像です。
来館者が天井桟敷の役者さんと一緒に写真を撮れるようになっています。観光地に良くあるものと同じ物です。
館内撮影禁止なので、館内のようすはつたない文章力ではお伝えできません。興味のある方はぜひ現地に赴かれて自分の目でお確かめください。同時代を生きた人々にはその思い出を。そして若い人々には30年以上も前にこんなことを企てて実行した奇才がいたことに驚きをもたらすでしょう。
来館記念にそこで販売していた寺山修司に関する書籍から一冊を購入してきました。
次のものです。
没後30年を記念した徳間書店から今年出されたものです。
その中に表題のポスターの画像がありました。「天井桟敷」が旗揚げされた時に劇団員募集のポスターとして横尾忠則氏が描かれたものです。
さて、暗くなる前に家に着きたいので早々とそこを退散。途中の大館市中山にて梨を一袋購入。
家に帰り、その梨のみずみずしさを味わいましたが、その日の夜から熱を出し二日ほど体調不良。
どうやら「テラヤマワールド」の毒気にでも当たったのかしら。
「テラヤマワールド」への旅の走行距離は次の画像のとおり。
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ーーーーーーーー以下は追記。--------
本文の下段に「劇団員募集のポスター」と記述しましたが、これは誤りでした。正しくは以下のとおり。
このポスターは演劇実験室「天井桟敷」の観客動員を安定させ、かつ劇団そのものを広告する目的で、定期会員の募集を訴えたポスターでした。このポスターにはこれからの「天井桟敷」の公演が予告されています。
ポスターの最上段左には「隔月連続公演会員募集」の文字が見受けられます。
4月の公演は「青森県のせむし男}。以下、公演の日程の記述はありませんが九つもの演目を隔月で公演するとの予告なのです。異なった演目を隔月で公演することがどんなに大変かは素人にもわかります。
演劇は生身の人間が演ずる表現活動ですので、演技者のその演目の練習が前もって準備されなくてはなりません。
美術、音楽、照明、衣装などといった準備も必要です。ポスターなどによる演目の広告やチケットの販売といった寺山修司氏個人の能力だけではまかないきれない多くの課題をのりこえて「天井桟敷」は次々にこれらの公演を打っていきました。恐るべきエネルギーです。寺山修司と「天井桟敷」がそのエネルギーを持っていただけではなくて、あの時代そのものにエネルギーがあったからなのでしょう。
さて、本文を締めくくるにあたって、個人的な思い出をひとつ。
当時、東京で学生生活を送っていた自分は親からの仕送りもたたれ、友人と連れ立って線路保線の飯場にもぐりこみました。総武線の保線の現場でした。初めは東京都内でしたが数週間ごとには飯場は移動します。だんだん都内より遠ざかって行くのです。初めのうちは我々も飯が食えればいいやぐらいの気分でいました。
2ヶ月以上も過ぎた頃でしょうか、千葉の白浜海岸近くまで来たときです。カルメン・マキが歌う「時には母のない子のように」が毎日のようにラジオから聞こえてきます。歌の冒頭と終わりに波の音が挿入されていますが、その波音が白浜で現実に自分たちの寝起きする飯場に聞こえてくるのです。
あるとき、我々は飯場での夕飯のあと、海岸までどちらからともなく歩いていき、波音を聞きにいきました。そして、一度、東京に戻る決意をしたのでした。
飯場の親方は残念がって引き止め、またいつでも戻って来いといってくれました。でもその飯場には戻りませんでした。
「時には母のない子のように」は寺山修司氏の作詞でカルメン・マキが天井桟敷の美少女劇団員であることは知っていました。天井桟敷の芝居は在京中は一度も見たことはありませんが、寺山修司氏の作詞のこの歌詞は今でも鮮烈な印象があります。
最後に、「時には母のない子のように」を聞いてみたいと思います。
行った先は青森県は三沢市にある「寺山修司記念館」です。秋田市からだと片道二百五十数キロぐらい。
日帰りで行ける距離です。朝の6時40分に自宅を出発。途中の休みを入れても4~5時間もあればたどり着けます。秋田県の北を目指して走行します。花輪で東北道に乗ります。其処から南下して八戸道を進みますと終点が三沢です。
寺山修司は幼少の頃、三沢に住んでいましたので三沢市に彼の遺品を母親が寄贈したのです。「寺山修司記念館」は三沢基地の北に位置し、三沢インターからだとバイクで20分ほど走ったところにあります。
静謐な環境の中に突如として「寺山修司記念館」は見学者の目の前にその姿を現します。混沌とした雑踏のような「テラヤマワールド」には似つかわない環境の中にその建物はありました。
「寺山修司記念館」の全景です。壁面のレリーフなどがあるのを除けば変哲も無い地方都市に良くある小美術館といったたたずまいでした。
駐車場にバイクを収める前にまずお出迎えしたのは寺山修司の実物よりも大きい彼の写真スタンドです。実に直裁的なお出迎えに思わず笑いが出てしまいます。
さて、没後30年の記念展も併催されているとのことで、入館料は普段より200円高い500円でした。
走りに走ってここまできたので、まずは飲み物をと言うことで入り口より右に位置する休憩コーナーにて、缶コーヒーで一服。そこには映像で寺山修司を見ることも出来ます。三上寛(みかみかん)氏が寺山修司の同級生などを訪ね歩き、寺山氏の印象やエピソードなどをインタビューしてた動画が流されています。
館内の展示室には、これはもうテラヤマワールドそのもので、ありとあらゆる寺山氏の活動の記録が残されています。
中二階ふうにしつらえたデッキの上には天井桟敷の芝居をモチーフしたオブジェや人形などが置かれています。
そのデッキの下には木製の机が十数個も置かれています。机の引き出しにはテラヤマワールドの資料が収められています。その場所には明るい照明はありません。
各机の上には懐中電灯が一個置かれているのみです。
見学者は引き出しの中のテラヤマワールドをその懐中電灯を使って、いわば「覗き見る」ことになります。
この趣向は誰が考えだしたものか、いかにも「寺山修司」にふさわしい趣向に、ここでも思わず苦笑を誘います。同時代の寺山修司を知る者には覗き見る趣向は理解できるでしょうが、それを知らない若い見学者はただ、ものめずらしさに驚いているようでした。
館内では撮影禁止なのですが、ただ一箇所見学者のために記念撮影を許されたところがあります。
それが次の画像です。
来館者が天井桟敷の役者さんと一緒に写真を撮れるようになっています。観光地に良くあるものと同じ物です。
館内撮影禁止なので、館内のようすはつたない文章力ではお伝えできません。興味のある方はぜひ現地に赴かれて自分の目でお確かめください。同時代を生きた人々にはその思い出を。そして若い人々には30年以上も前にこんなことを企てて実行した奇才がいたことに驚きをもたらすでしょう。
来館記念にそこで販売していた寺山修司に関する書籍から一冊を購入してきました。
次のものです。
没後30年を記念した徳間書店から今年出されたものです。
その中に表題のポスターの画像がありました。「天井桟敷」が旗揚げされた時に劇団員募集のポスターとして横尾忠則氏が描かれたものです。
さて、暗くなる前に家に着きたいので早々とそこを退散。途中の大館市中山にて梨を一袋購入。
家に帰り、その梨のみずみずしさを味わいましたが、その日の夜から熱を出し二日ほど体調不良。
どうやら「テラヤマワールド」の毒気にでも当たったのかしら。
「テラヤマワールド」への旅の走行距離は次の画像のとおり。
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ーーーーーーーー以下は追記。--------
本文の下段に「劇団員募集のポスター」と記述しましたが、これは誤りでした。正しくは以下のとおり。
このポスターは演劇実験室「天井桟敷」の観客動員を安定させ、かつ劇団そのものを広告する目的で、定期会員の募集を訴えたポスターでした。このポスターにはこれからの「天井桟敷」の公演が予告されています。
ポスターの最上段左には「隔月連続公演会員募集」の文字が見受けられます。
4月の公演は「青森県のせむし男}。以下、公演の日程の記述はありませんが九つもの演目を隔月で公演するとの予告なのです。異なった演目を隔月で公演することがどんなに大変かは素人にもわかります。
演劇は生身の人間が演ずる表現活動ですので、演技者のその演目の練習が前もって準備されなくてはなりません。
美術、音楽、照明、衣装などといった準備も必要です。ポスターなどによる演目の広告やチケットの販売といった寺山修司氏個人の能力だけではまかないきれない多くの課題をのりこえて「天井桟敷」は次々にこれらの公演を打っていきました。恐るべきエネルギーです。寺山修司と「天井桟敷」がそのエネルギーを持っていただけではなくて、あの時代そのものにエネルギーがあったからなのでしょう。
さて、本文を締めくくるにあたって、個人的な思い出をひとつ。
当時、東京で学生生活を送っていた自分は親からの仕送りもたたれ、友人と連れ立って線路保線の飯場にもぐりこみました。総武線の保線の現場でした。初めは東京都内でしたが数週間ごとには飯場は移動します。だんだん都内より遠ざかって行くのです。初めのうちは我々も飯が食えればいいやぐらいの気分でいました。
2ヶ月以上も過ぎた頃でしょうか、千葉の白浜海岸近くまで来たときです。カルメン・マキが歌う「時には母のない子のように」が毎日のようにラジオから聞こえてきます。歌の冒頭と終わりに波の音が挿入されていますが、その波音が白浜で現実に自分たちの寝起きする飯場に聞こえてくるのです。
あるとき、我々は飯場での夕飯のあと、海岸までどちらからともなく歩いていき、波音を聞きにいきました。そして、一度、東京に戻る決意をしたのでした。
飯場の親方は残念がって引き止め、またいつでも戻って来いといってくれました。でもその飯場には戻りませんでした。
「時には母のない子のように」は寺山修司氏の作詞でカルメン・マキが天井桟敷の美少女劇団員であることは知っていました。天井桟敷の芝居は在京中は一度も見たことはありませんが、寺山修司氏の作詞のこの歌詞は今でも鮮烈な印象があります。
最後に、「時には母のない子のように」を聞いてみたいと思います。
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