京都再訪(1)から続く。
4)蹴上・南禅寺の疏水
琵琶湖疏水は、山科から第二トンネル(124m)と第三トンネル(840m)を通過して蹴上(ケアゲ)舟溜りに出てくる。大津市三保ヶ崎から蹴上舟溜りまでの距離は8.7km、落差は4mと資料にある。疏水は蹴上舟溜りからさらに南禅寺舟溜りに続き、その先は鴨川と宇治川に放流されている。
下の写真は、蹴上舟溜り手前の水門である。疏水の流れは、ここから南禅寺舟溜り、蹴上浄水場、白川・哲学の道に分かれていく。
蹴上舟溜りの水門
蹴上公園から京都市街を展望すると下のような景色が広がる。平安神宮の大鳥居の斜め右上に左大文字の火床がかすかに見える。写真には写っていないが、写真中央から左寄りに金閣寺がある。
蹴上から平安神宮を望む
蹴上の舟溜りは南禅寺の境内に続いている。境内の右手にはレンガ造りの水路閣がある。この水路閣は、田辺朔郎博士(疏水設計者)による全長 93.2m、幅4m、高さ14mのローマ風の水路である。
南禅寺境内の水路閣(水道)
上の写真中央の石段を登り、右手の急坂を上がると、水路閣の上に出る。この流れは、白川の遊歩道に続いている。その遊歩道を「哲学の道」と観光案内などで宣伝すると、かえって世俗的で興ざめる。水路閣の流れは速く、水のざわめきが絶えず聞こえている。
白川・哲学の道への流れ
山科からの流れは、水路閣とは別にすぐ近くの蹴上浄水場と南禅寺舟溜りに分岐する。下の写真は南禅寺舟溜りに続く落差36mの導管である。
南禅寺舟溜りへの導管
この導管の一部は、蹴上発電所の日本初の商用水車発電機につながり1895年の日本初の路面電車を実現した。現在、発電所は関西電力の無人発電所になっている。ちなみに、1895年にスタートした京都市電は、1978年に83年間の歴史を終えた。折角の市電も簡単に全廃された。
下の写真は、導管と並行して南禅寺舟溜りに向かうインクラインのレールである。この582mのインクラインは、舟溜りの舟を台車に載せてケーブルカーのように蹴上と南禅寺の舟溜りを往復した。
インクラインのレール
当時は世界トップクラスのこの設備、1891年に営業を開始したが、1948年に休止した。道路網と輸送技術の発達で荷物がなくなり57年間でその役目を終えた。
下の写真は、インクラインの舟台である。現在は、京都市文化財になっている。これより小規模だったが、伏見のインクラインは1895年から48年間の運用で廃止された。この文化財から、技術革新の移り変わりとその短さを実感する。
インクラインの舟台
下の写真は、南禅寺舟溜りである。写真正面は岡崎動物園、手前は蹴上舟溜りからの放水路、右は発電所からの放水路である。この舟溜りは、左方向の平安神宮前につながっている。
岡崎動物園前の南禅寺舟溜り
下は、南禅寺舟溜りから平安神宮方向を見た写真である。平安神宮前には、美術館や図書館などが集まっている。浪人の頃に通った図書館、いつかは自著を寄贈したいと思い、50年後に夢を果たした。小さな夢の積み上げ、それが一つの生き方と納得している。未達成の夢は、さらにいつかはと温める。
平安神宮に向かう疏水
疏水を眺めているうちに、釣り人の対岸に大きな魚を見付けた。下の写真はデジカメでズームアップした魚影である。さらに見ていると水面に跳ね上がったので、周囲の人たちも魚と認めた。
釣り人の対岸に見える大魚の影
次は、疏水から平安神宮前の大鳥居を見た写真である。外国人観光客が多い場所である。
平安神宮の大鳥居
下は、大鳥居前の橋から疏水の下流を見た写真である。右岸は国立近代美術館、春になれば両岸の桜並木が美しい。
鴨川方面に向かう疏水
5)三条・四条・錦市場の風景
疏水を離れて、東山三条の交差点から三条通りを西に進むと、三条大橋にでる。下の写真は、三条大橋から東山を振り返ったものである。
三条大橋
疏水と京阪電車は1987年ごろに地下化されたが、それまでの三条駅は写真の右側にあった。1番線プラットフォームの先端は鉄橋のように疏水を跨いでおり、レールの下に疏水の流れが直に見えていた。
歴史上のエピソードが多い三条大橋から鴨川を覗くと、写真のような光景が見える。今は両岸と川底は石組で固められ、写真の通り殺風景な遊歩道である。
夕刻の鴨川
三条大橋を西に数百メートル進むと河原町通りと交差する。その交差点を左に折れて賑やかな河原町通りを南下する。500mほど歩くと、四条河原町に出る。
四条河原町の交差点から東山を見ると、すぐ近くに南座が見える。南座、疏水、京阪電車、鴨川、高瀬川と並んでいたが、疏水と京阪電車は地下に潜ってしまった。
四条河原町から四条通りと東山を望む
四条河原町から四条通りを西に200mほど進み、新京極通りに右折する。新京極を100mほど北上すると左手に錦市場がある。錦市場は四条通りと並行して西に延びる道幅3m足らず、長さ500mほどの小路である。三条大橋西詰めから錦市場の入口まで歩いて1キロメートル弱、京都はこじんまりした街である。この街は大戦の戦火を免れ、1200年以上もの歴史が続いている。そこらじゅうに史跡とエピソードがあるのは当たり前である。
錦小路は、平安京の建設当初は道幅12mだったらしい。しかし、次第に細くなり「応仁・文明の大乱」で荒廃したが、1500年代(秀吉時代)に復興したらしい。
錦小路の名称は、初めは「具足小路」だったが、1054年に後冷泉天皇によって「錦小路」に改名されたと「京都の大路小路」にある。「具足小路」「屎小路」「錦小路」の面白いエピソードは「宇治拾遺物語」にあるので興味ある読者は参照されたい。【PP.158-159、錦小路、「京都の大路小路」小学館、2003年】【巻第二、一 清徳聖奇特の事、宇治拾遺物語、1213-22年】および【京都錦市場商店街振興組合公式サイト】
下の写真は、錦市場の魚・干物店である。筆者の勝手な想像だが、若狭湾の鯖も店頭に並んでいたかも知れない。祭りと云えば鯖寿司、鯖寿司と云えば鯖を締める大きな絵皿と母の姿など、筆者には懐かしい思い出がある。
錦市場の魚・干物店
また、京都といえば漬物、さまざまな漬物の味は舌と頭脳に刻み込まれている。お茶漬けに漬物、この味は欧米人に分かる筈がないと食べるたびに考える。逆に、世界各地の食べ物を食べるとき、自分は地元の人と同じように味わっているのだろうかと疑問に思う。たとえばタイの片田舎の屋台、そこには日本人の知りえない懐かしい味わいがあると想像する。たぶん、それは、その地に生まれ育った人だけに分かる味覚と生活文化だと思う。
錦市場の漬物店
次に、さつま揚げのような練り物を扱う店の前で、外国人カップルに出会った。どれでも1串400円、練り物に興味津々のこの女性、ジッと店を見つめていた。数分後に引き返したとき、この女性と連れの男性は1串を分かち合っていた。たぶん京都が初めてのお二人さん、お口に合ったことを願っている。
錦市場のさつま揚げ店
京都再訪(3)の稲荷大社に続く。